「常明寺(じょうみょうじ)」は、真言宗醍醐派に属し、地域の仏教活動に積極的に関わりながら、法要や行事を通じて地域住民との結びつきを深める信仰の場として重要な役割を果たしています。
常明寺の創立
その創立は古く、鎌倉時代の西暦1210年頃にさかのぼります。伊予国を治めていた河野通信によって、現在の今治市八丁地区の毘沙門に建立され、若松寺と称し毘沙門天を祀ったのが始まりとされています。当時、若松寺は地域の信仰の中心地として栄え、多くの参拝者が訪れました。
「八幡より若松寺を見渡せばかすみにかかる轟の橋」という和歌が残されており、これは若松寺の近くを流れるオモ川にかかっていた美しく立派な轟橋を詠んだものと伝えられています。この轟橋は、名勝「越智七景」の一つに選ばれるほどの景観美を誇り、古くから地域の人々に親しまれていました。
境内と文化財
常明寺の境内には、歴史を感じさせる文化財が多数残されています。墓地には大きな五輪塔があり、明神山(近見山)城主であった重見遠江守(しげみ とおとうみのかみ)や右京充同近見守(うきょうじゅうどう ちかみのかみ)の墓石が残されています。これらの墓石は、地域の歴史や武士文化を今に伝える貴重な遺産として保存されています。
さらに、現在の本堂には江戸時代の住職が今治城主の碁会に招かれ勝負に勝ち、城から譲り受けたとされる立派な欄間が飾られています。この欄間は当時の技術や美意識を伝える貴重な文化財として、訪れる人々を魅了しています。
再建と発展
江戸時代の初めである1620年頃、権大僧都増印上人によって現在の地に再建されました。このとき寺名は東禅坊と改められ、新たな歴史を刻み始めます。その後、江戸中期に至りさらに改築が施され、現在の常明寺と改名され、聖観音が安置されました。
時を経て寺も老朽化したため、大正11年(1922年)には正面の本堂と業客殿が建築されました。さらに、鐘つき堂が建立され、信仰の場としての機能を整えていきました。その後、昭和57年(1982年)には新たに本堂が再建され、諸願成就の「がんかけ観音」として地域住民の願いを受け入れる祈願寺としての役割を果たしています。
『いも地蔵盆まつり』
2024年8月23日には『いも地蔵盆まつり』が常明寺で開催されました。この祭りは、江戸時代に甘藷(サツマイモ)の栽培を広めて多くの命を救った下見吉十郎(あさみ きちじゅうろう)の功績を称える行事です。
下見吉十郎
下見吉十郎は、寛文13年(1673年)に伊予国大三島の瀬戸村で生まれました。伊予国の豪族河野氏の子孫とされる吉十郎は、4人の子供をもうけるも幼くしてすべて亡くした悲しみにより、正徳元年(1711年)に六部僧として諸国行脚の旅に出ました。広島、京都、大阪を経て九州を巡った際、薩摩国の伊集院村で農民の土兵衛から一夜の宿を借り、夕食に甘藷(サツマイモ)を振舞われます。
痩せた土地でも栽培できる甘藷に感銘を受けた吉十郎は、飢饉が多い故郷で育てることを決意し、土兵衛に種芋を譲ってもらえるよう懇願します。当時、薩摩藩では甘藷の持ち出しを固く禁じていましたが、吉十郎は涙ながらに何度も頼み込み、ついに譲り受けることに成功しました。吉十郎は仏像に穴を開けて種芋を隠し、命懸けで薩摩国から持ち出しました。
この時、吉十郎は「公益を図るがために国禁を破るが如きは決して怖るゝに足らず」と記し、自らの行為が公の利益を考えた正当なものであると確信していました。
吉十郎は故郷に戻ると甘藷の栽培に成功し、その方法を農民たちに広めました。その結果、甘藷は大三島から近隣の島々にも広まり、飢饉に苦しむ人々の生活を支える食糧となりました。特に享保の大飢饉(1732年)の際には、大三島周辺では餓死者が出なかったばかりか、苦しむ伊予松山藩に米700俵を献上した記録が残っています。
「甘藷地蔵」
このように多大な功績を残した吉十郎は、1755年9月6日に享年83歳でその生涯を閉じましたが、その功績を讃えられ、向雲寺(愛媛県今治市上浦町瀬戸1754)に埋葬され、「甘藷地蔵(いも地蔵、芋地蔵)」として祀られました。向雲寺の境内には小さなお堂と拝殿があり、吉十郎の墓も併せて祀られています。
その後、1920年には吉十郎の功績を讃えるための碑が建立され、1948年3月29日には向雲寺の境内が県の史跡として正式に指定されました。
毎年旧暦の9月1日には甘藷地蔵祭が催され、地元住民や参拝者が吉十郎の功績を偲びながら供養を続けています。さらに、吉十郎の功績は地域全体に広まり、島内外の明光寺や宝珠寺などに20体以上の地蔵菩薩が建立されました。
その一つがここ今治の常明寺にまつられており、その縁から2024年から常明寺でも『いも地蔵盆まつり』が催されるようになりました。
地域の未来へつながる祭り
いも地蔵盆まつり、吉十郎への感謝の想いを表すだけでなく、夏のお盆の時期に帰ってくるご先祖様の供養や農作業の疲れを癒すための場として、人々の繋がりを再び育む大切な機会となっています。
歴史や文化を感じながら地域の絆を深める特別な日として、多くの人々が集まり、感謝と喜びを分かち合う場として、新たな伝統が始まっているのです。