「樟本神社(くすもとじんじゃ)」は、愛媛県今治市に鎮座する延喜式内の古社です。その起源は古く、大宝元年(701年)9月5日、勅命を受けた国司・散位「小千宿祢玉興(おちのすくね たまおき)」が出雲国から伊予国内に28社を遷座させたうちの一社とされています(『予陽郡邑古考鈔』による)。これにより、樟本神社は伊予国における歴史的・文化的に重要な神社としての地位を確立しました。
平安時代の記録
貞観17年(875年)4月5日に、「伊予国従五位下樟本神、従五位上一」を授かった記録が『三代実録』や『類聚国史』に残されています。長保2年(1000年)には神宮寺で勧学会が執行されるなど、当社が学問の発展にも関わっていたことが示されています。
延喜式神名帳への記載
延長5年(927年)には、延喜式神名帳に記載された式内社となりました。延喜式神名帳は、官社に指定された神社を記した一覧であり、樟本神社は格式の高さが認められた神社として記録されています。
建長7年(1255年)には免田が与えられた記録がありますが、面積は不明です。近世に入ると神社は衰微し、嘉永6年(1853年)には再建が行われました。
「柑子神社」との合併
明治4年(1871年)に村社に指定され、明治41年(1908年)5月10日には、柑子神社(かじこじんじゃ)と合併しました。
柑子神社は鎌倉時代の記録にも登場し、幕府に注進された『国分寺免田記』によれば、年貢として上分科早米15石(約2,250kg)、国分寺5石(約750kg)、八幡宮2石5斗(約375kg)、三島宮2石5斗(約375kg)、柑子御宮2石5斗(約375kg)を受けていたことが記されています。
また、油1斗(約18リットル)は国分寺1升(約1.8リットル)、三島宮3升(約5.4リットル)、惣社3升(約5.4リットル)、柑子御宮3升(約5.4リットル)に分けられていました。
さらに、仁王講田ノ内に柑子御宮31反(約3.1ヘクタール)、大般若田ノ内に柑子御宮6丁4反(約6.4ヘクタール)、柑子不断経として13丁5反半(約13.5ヘクタール)、合計23丁半反(約23.5ヘクタール)の免田を所有していたことが示されており、大山祇神社に匹敵するほどの広大な領地と資産を有していたことがわかります。
さらに『免田注進記』には、この神社が「崇道天皇御読経田25反」を所有していたとも記されています。この記述から、桓武天皇の弟・早良親王(崇道天皇)の怨霊信仰が柑子神社にも及んでいたことがわかります。
合併によって樟本神社は、柑子神社の広大な領地や信仰を受け継ぎ、その歴史的価値と格式をさらに高め、地域の信仰の中心としての役割を強化し、経済的な基盤も拡大されました。また、柑子神社の伝承や文化が樟本神社に統合されたことで、地域の歴史や信仰を今に伝える貴重な存在となっています。
信仰と文化
社名の「樟本」は現在「クスモト」と読まれていますが、江戸時代には「マキモト」と読まれていたといわれます。『三代実録』では楠本という字が当てられ、本来は「クスモト」と考えられます。
牛頭天王信仰と神仏分離
樟本神社は江戸時代まで「牛頭天王社」と呼ばれていました。鎮座地は八町字天皇と称され、当時は疫病や災害を防ぐ神様として広く信仰されていました。
牛頭天王は、インドの祇園精舎を守護する神で、日本に伝わると素盞嗚尊と同一視されるようになりました。このように神道と仏教が混ざり合う信仰形態は「神仏習合」と呼ばれ、日本各地で広まりました。
牛頭天王は疫病退散や厄除けの神として厚く信仰され、特に農村では五穀豊穣を祈る神として崇められました。しかし、明治時代になると政府によって「神仏分離令」が発令され、仏教と神道が分けられることになりました。この改革により、牛頭天王は神道に基づく素盞嗚尊として祀られるようになりました。
樟本神社もこの影響を受け、祭神が素盞嗚尊に改められましたが、境内には今も牛頭天王社時代の石碑が残されており、かつての信仰の厚さを伝えています。
また、『伊豫二名集』では樟本神社の社名から「木神」とされる説もあり、素盞嗚尊の御子神である五十猛命(木種の神)と関連する可能性も考えられています。さらに、素盞嗚尊と天照大神の誓約で生まれた熊野櫲樟日神が五十猛命と同一視されることから、樟本神社の祭神も木にまつわる神格を持つと考えられる説もあります。
柑子女神社碑と伝説
樟本神社には、かつて柑子女神社(柑子神社)が祀られており、柑子という女性にまつわる伝説が残されています。
昔、この地に裕福な家がありました。ある日、美しい娘・柑子が下女として雇われました。柑子は料理が得意で家族から大切にされましたが、料理の秘訣を誰にも教えず、秘密にしていました。
好奇心に駆られた主人夫婦がこっそり覗くと、柑子は蛇を使って料理に味付けをしていました。驚いた主人は激怒し、柑子を斬り殺してしまいます。ところがその後、一家は次々と不幸に見舞われました。
村人たちはこれを柑子の祟りと考え、彼女を慰めるために神様として祀ったと伝えられています。柑子女神社はかつて広大な田畑を持つ大きな社でしたが、明治41年に樟本神社に合祀されました。現在、旧地には織物工場が建っていますが、柱の礎石が残されています。
境内と象徴
樟本神社の境内には、柑子女神社の石碑が建てられており、歴史の面影を偲ぶことができます。また、境内には橘の紋が随所に見られ、古くからの象徴的な装飾が現代にも残されています。