「法隆寺(ほうりゅうじ)」の始まりは弘仁6年(815年)、弘法大師(空海)が四国を巡錫した際に庶民の安穏を祈願して創建されました。この際、弘法大師は地蔵菩薩の像を自ら彫刻し、大井郷の中央に安置しました。これが現在もご本尊として祀られています。その後、貞観元年(859年)に大徳行教上人によって堂塔伽藍が一新され、正式に開山されました。
南北朝時代の歴史
延元元年(1336年)、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子である尊真(たかざね)、満良(みつなが)、懐良(かねなが)の3親王が反徒討伐のために大井浦影島(怪島)に出陣しました。
この戦いにおいて、法隆寺の法印は当時の国守である河野通政と共に南朝方に協力しました。しかし戦いは南朝方の敗北に終わり、尊真親王は深い傷を負われ、延元三年(1338年)3月8日に志半ばで薨去されました。
供養と埋葬
尊真親王の薨去後、法隆寺法印は別当を務めていた「大井八幡宮(大井八幡大神社)」の神主と協力し、大井八幡宮(藤山)の脇の宮に丁重に埋葬しました。さらに、弥陀(阿弥陀如来)、普賢(普賢菩薩)、文珠(文殊菩薩)の三尊を作り、親王の供養を行いました。
恒例行事
この歴史的な出来事を偲び、法隆寺では毎年3月8日に法会を営み、親王への供養を続けています。この供養は、長い年月を経て今もなお続けられている伝統行事です。
新義真言宗とは
法隆寺は正式には「生命山寿福院法隆寺」と称します。新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)豊山派に属し、本山は奈良県の長谷寺です。
新義真言宗は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の一派です。真言宗は、密教の教えを基盤とし、大日如来を最高仏として信仰します。その中でも新義真言宗は、真言宗中興の祖である覚鑁(興教大師)の教学を基にした宗派であり、覚鑁の弟子である僧正頼瑜によってさらに発展しました。
新義真言宗は、従来の真言宗(古義真言宗)の教えを受け継ぎながらも、新たな解釈や教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれるようになりました。この宗派は、密教の深い教えに基づき、仏の加持力を重視し、実践的な修行によって現世利益と来世の救済を目指す特徴があります。
平安時代末期になると、真言宗は僧侶の堕落や宗派の停滞によって危機を迎えました。覚鑁はその改革を目指して新たな教義を打ち立てましたが、保守派との対立により高野山を離れ、根来寺を拠点に活動を続けました。
1288年(正応元年)、覚鑁の教えを受け継いだ頼瑜が「新義真言宗」を確立し、従来の教義とは異なる解釈や修行法を取り入れました。戦国時代には豊臣秀吉による根来寺の焼き討ちで大きな打撃を受けましたが、その後、奈良の長谷寺や京都の智積院などで復興を果たし、現在の豊山派や智山派へと発展していきました。
法隆寺はこの豊山派に属し、密教の教えに基づく祈祷や供養、地域住民への精神的支援を行っています。
江戸時代には、幕府の庇護のもとで豊山派はさらに勢力を拡大し、全国各地に寺院網を広げました。法隆寺もその一環として、地域の文化や信仰の拠点として重要な役割を果たしてきました。
明治時代には廃仏毀釈による影響を受けましたが、信徒や僧侶による復興活動により再興を果たし、現在では文化財の保護や教育活動にも尽力しています。
阿弥陀堂・普賢堂
大井八幡大神社の石段を上る途中にひっそりと佇む「阿弥陀堂・普賢堂」は、歴史と信仰の息吹を今に伝える静謐な空間です。堂内には色鮮やかな仏像が並び、訪れる人々を優しく迎えます。
お堂には三体の仏像が安置されています。左側には智慧と慈悲を象徴する普賢菩薩、中央には極楽浄土への導き手である阿弥陀如来の座像、右側には同じく阿弥陀如来の立像が祀られています。これらの像は江戸時代の享保年間(18世紀前半)に造られ、かつては大井八幡大神社の境内に奉納されていました。
長い歳月を経てもなお美しさを保つ仏像は、参拝者の心に安らぎを与え、信仰の深さを伝えています。また、南北朝時代の供養の精神を受け継ぐ貴重な文化遺産でもあります。
穏やかな空気に包まれたこの堂では、仏像の優雅な表情や緻密な彫刻をじっくりとご覧いただけます。歴史と信仰が織りなすこの特別な空間で、心静かに過ごすひとときをお楽しみください。