「天神社・龍岡(てんじんじゃ)」は、愛媛県の玉川ダム湖畔に位置する美しい神社で、天穂日命(あめのほひのみこと)と菅原道真公を祭神としています。天穂日命は太陽神・天照大神の御子神であり、国土の開拓や農業の発展に関わった神として知られています。一方、菅原道真公は平安時代の学者・政治家で、学問の神として広く崇敬されています。
この神社は、昭和47年の玉川ダム建設に伴い現在の場所へ移転しました。それ以前は、龍岡小学校の近くに位置しており、地域の生活に密接に関わる神社として親しまれていました。
天神社とは
天神社・天満宮は、全国に約1万2000社ある菅原道真公を御祭神として祀る神社です。総本社は京都の北野天満宮で、平安時代初期の天暦元年(947年)に創建されました。
道真公は平安時代に学問や政治でその才能を発揮しましたが、政争に巻き込まれ、太宰府に左遷されて失意の中でその生涯を閉じました。死後、都で相次いだ天災や疫病が道真公の怨霊によるものと恐れられ、これを鎮めるために北野天満宮が創建されたのが天神信仰の始まりです。
その後、道真公の学問に対する姿勢や業績が再評価され、「学問の神」としての信仰が広まりました。鎌倉時代以降、地方の領主や武士階級が道真公を崇敬し、各地に天神社が建立されるようになりました。また、江戸時代には寺子屋が普及し、教育と結びついた天神信仰はさらに深く人々の生活に根付きました。
現代でも、天神社は受験や学業成就を祈る場として、全国で多くの人々に親しまれています。それぞれの地域に根ざした天神社は、地元の歴史や文化を支える役割を果たしつつ、学問の神としての役割を今も担っています。
天神社・龍岡の創建
天神社・龍岡もこの天神信仰を受け継ぎ、地域住民や訪問者にとって学問成就や安全祈願の重要な場所として親しまれていますが、その歴史は伊予の豪族・小千国造(おちのくにのみやつこ)が神籬(ひもろぎ)を奉斎したことに始まります。この地は古くから信仰の場として知られ、竜王の宮とも呼ばれていました。
また、一説によれば「神の岡」とも呼ばれる高台に位置しており、駐蹕(ちゅうひつ)の古関として重要な役割を果たしていました。
長慶天皇との関係
さらに、南北朝時代には北朝軍に大敗した長慶天皇が、高野山から伊予に逃れる途中でこの地に立ち寄り、河野伊予守に守られていたと伝えられています。
南北朝時代(1336年~1392年)は、日本の政治が南朝と北朝に分裂し、それぞれが天皇の正統性を主張して争った時代です。長慶天皇(在位:1368年~1383年)は南朝の第5代天皇であり、父である後村上天皇から皇位を継承しました。
南北朝の抗争は、京都を拠点とする北朝と吉野を拠点とする南朝の間で熾烈を極め、各地で激しい戦闘が続きました。南朝側の長慶天皇は、紀伊国高野山に拠点を移し、そこでの活動を続けましたが、南朝軍は次第に劣勢となり、戦局が厳しくなります。
文中2年(1373年)、長慶天皇は北朝軍との戦いに敗れ、高野山から伊予国への避難を余儀なくされました。この逃亡の際に天皇を支援したのが、伊予国を統治していた河野氏でした。
河野氏は南朝を支持しており、天皇を庇護することでその忠誠を示しました。伝承によれば、天皇が一時滞在したこの地は「竜岡」と呼ばれるようになり、その名が現在の地名に引き継がれたとされています。
長慶天皇はその後、久米神戸徳威法水院に移り、そこで崩御しました。その遺骨は、信仰の対象として奈良原の山頂に分納されたと伝えられています。この古墳は現在も地域に残されており、南北朝時代の歴史を物語る重要な遺産となっています。
現在の天神社・龍岡
天神社・竜岡の本殿裏には鎮守の森が広がっています。この森は、単なる木々の集まりではなく、古くから神聖な空間として守られてきました。参拝者が森に足を踏み入れると、静寂な空気に包まれ、自然の中で心が浄化されるような感覚を得られるでしょう。
森の中心には、日本最大級といわれる目通り(幹周り)約250cmのサカキの大木がそびえています。このサカキは、龍岡天神社のシンボル的な存在として崇められ、地域住民にとっても特別な存在です。また、境内には、地域から集められた宝篋印塔や五輪塔が点在しており、それぞれがこの地の歴史と文化を物語っています。
さらに、この鎮守の森や境内は四季折々の自然美を楽しむことができるスポットとしても知られています。春には桜の花が境内を彩り、満開の花の下で多くの参拝者が春の訪れを祝います。秋には黄金色に輝く銀杏の木々が、静かな秋の風情を演出し、写真愛好家や観光客に人気の景色を提供します。冬には雪が降り積もると、森全体が荘厳で神秘的な雰囲気に包まれます。
このように、豊かな自然と歴史的価値が融合したこの神社は、現在も参拝者にとっての癒しと学びの場として、地域だけでなく遠方からも多くの人々が訪れています。