「地福寺(じふくじ)」は、元々は別の場所に建てられており平安時代に創建されたと伝えられています。
鎌倉時代には報恩寺と呼ばれ、五重塔も存在していました。
その隆盛は地域の信仰の中心として輝いていましたが、ある出来事によってその運命が大きく変わることとなります。
それが豊臣秀吉による四国攻めです。
豊臣秀吉の四国攻め
四国征めは、安土桃山時代の1585年(天正13年)に行われた羽柴秀吉(豊臣秀吉)と長宗我部元親との戦争ですが、もともと織田信長が計画していたもので、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一に対抗するためのものでした。
「元親の野望」
長宗我部元親は天文8年(1539年)、土佐国岡豊城(現在の高知県)で長宗我部国親の嫡子として生まれました。
当初はその端正な容姿から「姫若子」と呼ばれ、一見すると武将らしくない印象を持たれていました。
しかし、元親は内に秘めた非凡な才能を発揮し、「土佐の出来人」と称される武将へと成長していきます。
永禄3年(1560年)、家督を継いだ元親は自身の野望である四国統一のため、まず土佐国の統一を目指しました。
永禄12年(1569年)には、土佐東部を統治していた安芸国虎を破り、「八流れの戦い」でその勢力を滅ぼしました。
さらには、天正3年(1575年)には土佐西部の一条兼定を四万十川の戦いで撃破し、土佐統一を達成しました。
その後、阿波国、讃岐国、そして伊予国へと勢力を広げていきます。
元親の統一の戦略は、地の利を生かした巧みな戦術と巧妙な外交で支えられ、最終的には四国のほとんどをその勢力下に置くまでに至りました。
しかし、これをよく思わなかったのが、日本統一を目指していた織田信長でした。
信長の野望と四国攻め
元親の勢力拡大は、当初、織田信長の黙認を得て進められていました。
信長は「四国は切り取り次第領土に加えてよい」という朱印状を発行し、元親に自由な行動を許していました。
しかし、次第に元親の急速な勢力拡大を脅威と感じるようになった信長は、天正9年(1581年)に突如として讃岐や阿波で勢力を持つ有力な武士団である三好氏(みよしし)と同盟を結び、元親との対立を鮮明にしました。
この同盟の背景には、信長が中国地方の毛利氏との対立を抱えており、その一環で三好水軍の支援を必要としていた事情がありました。
三好水軍は瀬戸内海の制海権を握る重要な存在であり、信長はこれを活用して元親を牽制しようとしたのです。
さらに、信長は元親に対し、「土佐と阿波南部のみを領有し、それ以外の領地を返還するように」との命令を下しました。
この一方的な要求に元親は激怒し、ついに両者の関係は完全に破綻しました。
信長のこの方針転換は、長宗我部氏の勢力が織田政権に従属することが難しいと判断したためと考えられます。
一方で、元親の毛利氏との関係強化も信長の警戒心を煽る結果となりました。
この対立は信長主導の四国攻め計画に発展し、天正10年(1582年)には信長の三男・織田信孝を総大将とする四国侵攻が予定されていましたが、本能寺の変によって信長が倒れたため、この計画は中止されました。
本能寺の変と四国統一
一方、この政治的空白を好機と見た長宗我部元親は、再び勢力を拡大するべく行動を起こします。
まず、阿波国(現在の徳島県)での影響力を強め、同国の有力な城である勝瑞城を攻略して阿波を平定しました。
続いて、讃岐国(現在の香川県)に進出し、天正12年(1584年)には十河城を落として讃岐全域を掌握します。
次に、伊予国(現在の愛媛県)への侵攻を開始しました。
伊予では河野氏が有力な勢力を保っていましたが、元親は巧みな戦術と圧倒的な軍事力を背景に、河野通直を降伏させました。
これにより、天正13年(1585年)の春、元親はついに自身の野望である四国統一を成し遂げました。
秀吉による四国攻め
信長の死後、その後継者として台頭した秀吉(豊臣秀吉)は、全国統一を目指す中で四国もその勢力下に置くことを決意しました。
秀吉は四国の豊かな資源と地理的な戦略価値を見逃さず、元親に対して自発的な降伏を促しました。
しかし、元親はこれを拒否し、四国全域の統治体制を維持する構えを見せました。
1585年(天正13年)、秀吉は四国攻めを本格化します。
秀吉軍は安芸、淡路、備前からの三方向に進軍し、小早川隆景や吉川元長らの指揮のもとで進撃しました。
彼らは圧倒的な兵力と戦略で四国各地を制圧し、次々と元親の拠点を攻略しました。
元親は激しく抵抗しましたが、次第に劣勢に追い込まれます。
ついに元親は降伏を余儀なくされ、土佐一国の領有を認められる形で豊臣政権に従属しました。
これにより、四国全域は豊臣秀吉の勢力下に入ることとなりました。
地福寺とその後
そしてこの四国攻めの戦火の中で、報恩寺(現:地福寺)を含む伊予地域の多くの寺院や建築物が焼失してしまったのです。
しかし、その後「円光寺」として再建されると、江戸時代には現在の場所へ移転し「地福寺」として新たに建立され、今日に至るまでその役割を果たし続けています。