「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」は、大三島にある大山祇神社の分社で、「別宮さん」として地元では親しまれています。今治駅からは徒歩約10分ほどの距離にあり、国道317号沿いの南光坊(四国八十八箇所第55番札所)の隣にあります。
焼失と再建の歴史
大山祇神社の社殿の創建は、推古天皇の時代(594年)に「遠土宮(おんどのみや)」として大三島の東海岸に祀られたことが始まりとされています。
その後、大宝元年(701年)に伊予国の国司・越智玉澄が大三島の西海岸に新たな社殿(現:大山祇神社)を建て始めました。
しかし、例え社殿が完成したとしても、参拝者たちは大三島に渡るために海を越えなければならず、この旅は非常に過酷なものでした。当時の海は、特にこの地域では風が強く、波が荒れることが多かったため、船での渡航は命がけの冒険とされました。
そこで天皇は「もっと安全で安定した場所で神を祀るべきだ」と考えました。
大宝3年(703年)、文武天皇からその命を受けたのが、河野氏の祖である越智玉興の弟、越智玉澄でした。玉澄は天皇の意向に従い、大山積神を伊予国越智郡の日吉村に祀って、新たに社殿を建て始めました。
同じ頃、大三島では文武天皇の命により、大山積神社を支えるために別当寺として、24の坊(僧坊)の建築も進められていました。これらの寺院群は「法楽所」と呼ばれ、神仏への感謝や祈りを捧げるために、僧侶や神職が集う重要な拠点となっていました。
法楽所とは、仏教や神道における儀式や祈祷が行われる場所で、僧侶や神職が集まり、神仏への感謝や祈りを捧げる場です。特に、大規模な法要や祭祀の際に、多くの参詣者が訪れ、共に祈りや供養を行うための重要な拠点としてなっていました。
そしてその中には、「南光坊(今治市・今治中央区)」も含まれていました。
別宮大山祇神社の社殿が完成
和銅5年(712年)に「別宮大山祇神社」は完成しましたが、大三島にある本宮である大山祇神社はまだ建設の途中にあり、造営が完了したのは霊亀2年(716年)でした。
さらに新たなご神体が移されたのは、別宮完成から7年後の養老3年(719年)で、このときが正式な大山祇神社の誕生とされています。したがって、創建の順序においては、別宮大山祇神社が大山祇神社よりも先に完成していたことになります。
社家の移転と別宮大山祇神社の発展
和銅5年(712年)に別宮大山祇神社が完成した際、「大山祇神社(大三島)」から社家104人がこの地に移住し、先に完成していた24の坊から、8つの坊(南光坊を含む)と供僧たちも周辺に移設されました。
これらの坊と供僧たちは「別宮大山祇神社(大積山光明寺)」の「別当寺」として、別宮の管理や祭祀を支える重要な役割を担いました。別当寺としての役割は、神社の儀式を執り行い、地域の信仰を支え、神仏習合の信仰形態を実践する上で欠かせないものでした。
しかし、一部の史料や伝承には、移転の時期が正治年中(1199~1201年)であるとされています。このため、別宮大山祇神社の創建と移転については、まだ歴史の謎として解明されていない部分も多く、後世に残された伝承や記録からさまざまな解釈がされています。
社家とは
社家とは、神社における神職を代々務める家系であり、別宮大山祇神社に移された104人の社家は、神社の祭祀や運営において中心的な役割を果たしました。
この中で、越智郡の大領である越智偽世(ためよ)の二男、為頼(ためより)は日吉郷に住み、別宮氏の祖となりました。そしてその子孫たちも、代々別宮大山祇神社の祭祀を取り仕切る、最高神職「大祝(おおほうり)」を務めました。
四国霊場第55番札所としての別宮
四国八十八箇所霊場の第55番札所は、当初は大三島にある大山祇神社でした。しかし、地理的に離れていることから、巡礼者にとっては参拝が非常に困難でした。
そこで、よりアクセスの良い今治市の別宮大山祇神社が前札所(実質的な札所)として機能するようになり、江戸時代には事実上の第55番札所となりました。
この経緯の背景には、弘仁年間(810〜824年)に弘法大師(空海)が別宮大山祇神社を訪れ、隣接する坊で法楽をあげた出来事が重要な意味を持っています。
空海の参拝によって、この神社は霊場としての地位を確立し、後に四国八十八箇所が整備される際に、正式に第55番札所として認定されました。
巡礼者が納経を行う際には、別宮大山祇神社(大積山光明寺)に隣接する別当寺「南光坊(大積山金剛院光明寺南光坊)」がその役割を担いうようになり、以降も長きにわたり納経所として機能してきました。
このような関係は、明治元年(1868年)の神仏分離令が施行され、南光坊が完全に分離独立するまで続いていきました。
さらに、正応二年(1289)には、河野氏の出である一遍上人(いっぺんしょうにん)が参拝したことから「番外札所」として南光坊との両社参りの習慣も始まりました。
焼失と復興
創建当初の別宮大山祇神社は、その美しさと格式で本家の大山祇神社に劣らない立派な神社でした。しかし、戦火や自然災害によって何度も社殿が損壊し、そのたびに再建されました。
元亨2年(1322年)、兵火によって社殿が焼失したものの、速やかに復興が進められ、再び地域の信仰を集める場として機能しました。
天文20年(1551年)には落雷によって再び社殿が全焼しましたが、村上水軍の当主、来島通総(くるしま みちふさ)の尽力により天正3年(1575年)に拝殿が木造檜皮葺きで再建され、美しい姿を取り戻しました。
しかし、再建からわずか3年後の天正6年(1578年)、別宮大山祇神社は伊予全体を襲う大きな戦乱に巻き込まれてしまいます。
それが土佐(高知)の武将、長宗我部元親による四国侵攻です。
長宗我部元親による四国侵攻
天正3(1575)年、土佐の統一を果たした長宗我部元親は、次は自らの野望である四国統一を目指し、阿波(徳島)・伊予(愛媛)・讃岐(香川)の3方面を同時に侵攻しはじめました。
当時の伊予の守護であった河野氏は、毛利氏の支援を受けながらも激しい抵抗を続けましたが、最終的に多くの地域が戦火に巻き込まれる結果となりました。
長宗我部元親は、河野氏の伊予での統治体制を破壊することを目的としていたため、河野氏が庇護していた多くの城や寺院、神社が焼き払われました。
これによって、別宮大山祇神社や、8坊(南光坊を含む)など多くの寺院や社殿が焼失しましたが、奇跡的にも別宮大山祇神社の拝殿は無事でした。
そして、別当寺が必要とされたため、8坊の中で特に別宮に近い南光坊が選ばれ、早期に再建されました。残りの7坊は再建されることはなく、そのまま消滅してしまいました。
豊臣秀吉の四国征伐
さらに天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐により河野氏は大打撃を受け、当主の河野通直は小早川隆景の説得を受けて降伏しましたが、河野氏の領地は没収され、河野一族は歴史の表舞台から姿を消しました。
そして天正15年(1587年)、竹原(広島県)に逃れていた通直が後継者を持たないまま病気で亡くなったことで、河野氏は57代にわたる歴史を終えることとなりました。
また、河野氏の滅亡したことで、河野氏の領地や関連する社領・寺領も同時に失われてしまいました。
再建と独立
慶長7年(1602年)以降、藤堂高虎をはじめとする歴代の藩主たちによって、別宮大山祇神社は保護され、その復興と再建が進められました。これにより、神社は再び地域の信仰の中心として栄えるようになりました。
明治元年(1868年)、明治政府は神道を国教として確立するために神仏分離令を発布しました。神仏分離令は、日本全国で長く融合してきた神道と仏教を分離し、神社と寺院の役割を明確に区別する政策でした。これにより、神社に安置されていた仏像や仏具が撤去され、神道と仏教が共存する神仏習合の形が改められました。
この分離政策は、国家としての宗教体制を整え、天皇を中心とした神道を国家の象徴とするためのものでした。神道が独自の宗教として確立されることで、欧米列強のキリスト教を基盤とした国家統合の在り方に対抗し、日本独自の宗教体系をもとに国内の統一が図られました。こうして「国家神道」として位置づけられた神道は、天皇の神聖性を支える柱となり、国民の忠誠と団結を促進する役割を果たすようになりました。
この中で、別宮大山祇神社も仏教的な要素を排除し、神道のみに基づく純粋な神社としての立場を確立することが求められました。
神仏習合の象徴であった「本地大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」、その両脇を守る二脇士、さらに十六王子の仏像が、隣接する南光坊の薬師堂へと移されることとなりました。
こうした仏像移転により、別宮大山祇神社は神道信仰に基づく純粋な聖地へと再編され、南光坊もまた独立した寺院としての存在感を強めていきました。
さらに、昭和12年(1937年)には別宮大山祇神社の社殿が新築され、神社としての施設整備がさらに進められました。この新しい社殿は、別宮大山祇神社が地域の信仰の中心としての役割を強化し、神聖な場としての位置づけをより一層確かなものにしました。
空襲を生き延びた奇跡の拝殿
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦の末期、今治市は大規模な空襲を受け、大きな被害を被りました。今治空襲は1945年7月26日未明に行われ、アメリカ軍のB-29爆撃機が市街地を中心に焼夷弾を大量に投下しました。この攻撃は、愛媛県内で最大級の規模であり、今治市の市街地は壊滅的な被害を受けました。
空襲では、住宅や商業施設、公共施設のほとんどが焼き尽くされ、全市域の半分以上が焼失したとされています。空襲による死傷者も多く、特に市街地では火災が猛威を振るい、逃げ遅れた多くの市民が犠牲となりました。学校や病院などの公共施設も被害を受け、さらに市の産業も大きな打撃を受けました。
別宮大山祇神社も今治空襲で甚大な被害を受けましたが、奇跡的に、1575年に来島通総によって再建された拝殿は無事に残りました。
実はこの拝殿は、昭和12年(1937年)に新しい社殿が建設された際、絵馬堂として別の場所に移設されており、その場所は本殿から少し離れた位置にありました。このため、空襲時の火災の影響を免れたのです。
そして、空襲によって新社殿が焼失したことを受け、拝殿は元の位置に戻され、再び拝殿としての役割を担うことになりました。さらに、昭和37年(1962年)には解体修理復元工事が行われ、当時の姿を取り戻しました。
この拝殿は、度重なる戦火を乗り越えてきた歴史を持ち、特別な存在として地域に大切にされています。現在では、愛媛県指定の有形文化財に指定され、地域唯一の純和様神社建築として、現代に至るまでその姿を残し続けています。
別宮大山祇神社の見どころ
境内には、越智郡玉川町の楢原山頂に鎮座していた奈良原神社の分霊を祀る「奈良原神社」があり、牛馬の安全守護の神として長い間信仰されています。地元の農業や牧畜において大切な存在であり、現在も多くの参拝者が牛馬の健康と安全を祈願に訪れています。
さらに、境内には市の天然記念物に指定されている樹齢300年以上の巨大なクスノキ「お袖さん」がそびえ立ち、その雄大さで訪れる人々を魅了しています。自然の力強さと歴史の重みを感じさせるこのクスノキは、神社を訪れる際の見どころの一つとなっています。
別宮大山祇神社を訪れる際には、隣の南光坊と合わせて参拝することで、神仏習合の歴史や地域の文化に触れることができ、より深い理解と感銘を得ることができるでしょう。