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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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別宮大山祇神社(今治市・今治中央地区)

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今治市の中心部、国道317号沿いに静かに佇む「別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)」。

四国八十八箇所第55番札所である南光坊(なんこうぼう)のすぐ隣に位置し、長く地域の人々に「別宮さん」の名で親しまれてきたこの神社は、日常のなかに息づく信仰の場であり、街の歴史そのものを静かに物語っています。

「別宮」という名の通り、この神社は大三島の・大山祇神社を本宮とする付属の神社として創建されました。

しかし、この神社は単なる「分社」にとどまりません。

幾度もの戦乱や災禍を乗り越えながら、独自の歴史と信仰を刻み、今や今治市における重要な神社の一つとして、揺るぎない存在感を放っています。

では、別宮大山祇神社はいつ、どのような経緯で創建されたのでしょうか。

その源流をたどるには、信仰の本源である大三島・大山祇神社の成り立ちにまでさかのぼる必要があります。

大三島・大山祇神社の創建

推古天皇2年(594年)、天皇の勅命により、大山祇神を祀るための社殿「遠土宮(おんどのみや・現:横殿宮跡)」が、大三島の東海岸に建立されました。

以来、この地は大山祇信仰の拠点として、多くの人々が海の神に祈りを捧げる場となりました。

しかし、遠土宮のあった場所は海に近く、海抜も低かったため、潮の干満による影響を強く受け、何度も津波が発生して、社殿や鳥居が大きな被害を受けていました。

この状況を憂いた当時の伊予国司・越智玉澄(おちの たまずみ)は、より安全な場所への移転を決意し、大宝元年(701年)、大三島の西海岸に新たな社殿の建設に着手しました。

これが、現在の「大山祇神社」の始まりです。

海を越える参拝は命がけ…。もう一つの神社“別宮”

その後、大山祇神社の建築は順調に進められていきました。

しかし、推古天皇には一つ、大きな悩みがありました。

それは、たとえ社殿が完成したとしても、人々が参拝するためには海を越えなければならない、ということでした。

当時の航海は、現在のような技術や安全対策が整っておらず、天候によっては命の危険を伴うこともありました。

参拝に訪れる人々にとって、それは大きな障壁となり、神への祈りを捧げたいと願う心の負担にもなりかねませんでした。

「誰もが天候に左右されずに、いつでも安全に神に祈りを捧げられる場所を…」

そう考えた推古天皇は、新たな拠点にもう一つの神社を作ることに決めました。

その思いを受けて動き出したのが、古代伊予を代表する名族・越智氏の一族です。

大宝3年(703年)、文武天皇の勅命を受けた河野氏の祖「越智玉興(おちたまおき)」の弟、「越智玉澄(おちのたますみ)」が、大山積神を伊予国越智郡の日吉村に祀り、新たな社殿の建設に着手しました。

大三島で南光坊が建築

同じ頃、大三島では神社に付随する別当寺として、神仏の儀式や祈祷を行う「法楽所」にあたる24の坊(僧坊)の建立が進められていました。

そしてその中には、隣接する寺院「南光坊」も含まれていました。

和銅5年・別宮大山祇神社の社殿が完成

和銅5年(712年)、大山祇神の御神威をより広く、より多くの人々に伝えるために、本土側に建立が進められていた「別宮大山祇神社」の社殿が完成を迎えました。

このとき、肝心の本宮である大三島の大山祇神社は、まだ建設の途中段階にありました。本宮の社殿が整ったのは、それから4年後の霊亀2年(716年)のことです。

さらに、大山祇神に新たな御神体が奉遷されたのは、別宮の完成から7年後、養老3年(719年)であったと伝えられています。この年が、本宮・大山祇神社の“正式な創建”とされる年でもあります。

本宮よりも、別宮の社殿の方が先に完成していたということは、今治でもあまり知られていないかもしれません。

別宮大山祇神社(神道)=光明寺(仏教)

和銅5年(712年)に別宮大山祇神社の社殿が完成すると、それと同時に、大三島から104人の社家(しゃけ)が移住。

そして、24坊のうち南光坊を含む8坊(南光坊・中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊、円光坊)と、その供僧が近隣に移設されました

光明寺と8つの塔頭

これに際して、別宮大山祇神社は神仏習合の体制を強め、「別当寺・大積山金剛院光明寺(以後:光明寺)」を称するようになりました。

以降、移設された8坊は、「光明寺(別宮大山祇神社)」に属する小寺院・支坊「塔頭(たっちゅう)」として位置づけられ、南光坊は「光明寺金剛院南光坊」と称されるようになりました。

別宮大山祇神社と8つの別当寺

また、これらの坊と供僧たちは神社である「別宮大山祇神社(光明寺)」の「別当寺」としても、神社の管理や祭祀を支える重要な役割を担いました。

別当寺としての役割は、神社の儀式を執り行い、地域の信仰を支え、神仏習合の信仰形態を実践する上で欠かせないものだったのです。

社家とは

ここで重要な役割を果たしたのが、移住してきた社家と呼ばれる人々です。

社家とは、神社における神職を代々務める家系であり、別宮大山祇神社に移された104人の社家は、神社の祭祀や運営において中心的な役割を果たしました。

この中で、越智郡の大領である越智偽世(ためよ)の二男、為頼(ためより)は日吉郷に住み、別宮氏の祖となりました。

そしてその子孫たちも、代々別宮大山祇神社の祭祀を取り仕切る、最高神職「大祝(おおほうり)」を務めました。

「別の説」正治年間の移転伝承

一方で、こうした社家や坊の移転については、別の時期に行われたという説も存在します。

一部の史料や伝承によれば、これらの移転は鎌倉時代初頭の正治年間(1199~1201年)に行われたともされています。

このため、別宮大山祇神社の創建と移転については、まだ歴史の謎として解明されていない部分も多く、後世に残された伝承や記録からさまざまな解釈がなされています。

焼失と復興の歴史

創建当初の別宮大山祇神社は、その美しさと格式で本家の大山祇神社に劣らない立派な神社でした。しかし、戦火や自然災害によって何度も社殿が損壊し、そのたびに再建されました。

元亨2年(1322年)、兵火によって社殿が焼失したものの、速やかに復興が進められ、再び地域の信仰を集める場として機能しました。

天文20年(1551年)には落雷によって再び社殿が全焼しましたが、来島村上氏(村上水軍御三家の一つ)の当主・来島通総(くるしま みちふさ)の尽力により天正3年(1575年)に拝殿が木造檜皮葺きで再建され、美しい姿を取り戻しました。

しかし、再建からわずか3年後の天正6年(1578年)、別宮大山祇神社は伊予全体を襲う大きな戦乱に巻き込まれてしまいます。

それが土佐(高知)の武将、長宗我部元親による四国侵攻です。

長宗我部元親による四国侵攻

天正3(1575)年、土佐の統一を果たした長宗我部元親は、次は自らの野望である四国統一を目指し、阿波(徳島)・伊予(愛媛)・讃岐(香川)の3方面を同時に侵攻しはじめました。

当時の伊予の守護であった河野氏は、毛利氏の支援を受けながらも激しい抵抗を続けましたが、最終的に多くの地域が戦火に巻き込まれる結果となりました。

長宗我部元親は、河野氏の伊予での統治体制を破壊することを目的としていたため、河野氏が庇護していた多くの城や寺院、神社が焼き払われました。

これによって、別宮大山祇神社や、8坊(南光坊を含む)など多くの寺院や社殿が焼失しましたが、奇跡的にも別宮大山祇神社の拝殿は無事でした。

そして、別当寺が必要とされたため、8坊の中で特に別宮に近い南光坊が選ばれ、早期に再建されました。残りの7坊は再建されることはなく、そのまま消滅してしまいました。

豊臣秀吉の四国征めと河野氏の滅亡

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐(四国征め)が行われ、伊予の地も戦火に巻き込まれました。これにより、南光坊は変革を余儀なくされることになります。

伊予を治めていた河野氏の当主・河野通直(こうの みちなお)は本拠である湯築城に籠城し、徹底抗戦抗戦しますが、すでに天下人としての地位を確立しつつあった秀吉の軍勢に抗うことはできませんでした。

最終的に、軍を指揮していた小早川隆景(こばやかわ たかかげ)の説得に応じて降伏し、通直は大名としての地位を失い、河野氏の領地も没収されてしまいました。

その後、天正15年(1589年)には、竹原(広島県)に逃れていた通直が後継者を持たないまま病気で亡くなったことで、河野氏は57代にわたる歴史を終えることとなりました。

そして、河野氏が滅亡したことで、河野氏の領地や関連する社領・寺領も同時に失われることになり、

このとき、別宮大山祇神社を含む寺社が保有していた460石(こく)もの領地も没収されてしまいました。

この「石(こく)」とは、当時の日本で用いられていた米の収穫量を示す単位であり、1石はおよそ180リットルの米に相当します。

これは概ね大人1人が1年間に必要とする米の量とされていました。

つまり460石とは、およそ460人が1年暮らせるだけの米の収穫量に匹敵する広大な農地を意味します。

この領地の喪失は、多くの寺社にとって経済的な大打撃となり、以後の運営や再建に深刻な影響を及ぼすこととなりました。

藤堂高虎と歴代藩主による再興

河野氏の滅亡により、一時は領地を失い衰退した別宮大山祇神社でしたが、江戸時代に入ると再び再興の機運が高まり、地域の信仰の中心としての地位を回復していきました。

慶長7年(1602年)、今治に入部した藤堂高虎をはじめ、歴代領主たちの保護と寄進により、別宮大山祇神社の復興と社殿の再建が進められます。

これにより、神社は再び地域社会の精神的支柱として栄えることとなったのです。

「明治時代」神社を取り巻く環境の変化

しかし、時代は進み、幕末から明治の激動期を迎えると、別宮大山祇神社を取り巻く環境も大きく変わっていきます。

四国八十八か所 第55番“前札所”

現在、四国八十八箇所霊場の第55番札所は今治市にある南光坊として知られていますが、もともとは札所としての機能は、隣接する光明寺、すなわち別宮大山祇神社が担っていました。

弘仁年間(810〜824年)、弘法大師・空海が光明寺を参拝し、隣接する坊で法楽を行い、その後、巡礼者が納経を行う際には、光明寺に付属する塔頭・南光坊がその役割を担うようになりました。

以降もその関係は続き、正応2年(1289年)には、河野氏の出である一遍上人が光明寺を参拝したことで、南光坊との両社参りが慣習化し、光明寺は「番外札所」としての位置づけられました。

このように、光明寺(別宮大山祇神社)と南光坊は一体となって巡礼者を迎えてきましたが、あくまでその立場は“前札所”にすぎませんでした。

四国八十八箇所 第55番“札所”と大山祇神社

というのも、本来の第55番札所は、大三島の大山祇神社であり、納経はその別当寺である神宮寺が担っていたからです。

当時の納経帳には、 「日本總鎮守 三島本宮 別當神宮寺」 と記されており、これが公式な札所であったことがわかります。

しかし、当時はしまなみ海道もなく、巡礼者にとって海を越えて大三島に渡ることは決して容易なことではありませんでした。

そのため、よりアクセスの良い四国本土側の光明寺(別宮大山祇神社)が“前札所”として機能し、その塔頭である南光坊が納経を担当するようになっていったのです。

「神仏分離令」別宮大山祇神社と南光坊の分離

明治元年(1868年)、明治新政府は、天皇を中心とする中央集権体制の確立と、国家神道を精神的支柱とする近代国家の形成を目指し、国家体制の近代化と宗教の統制を目的として、「神仏分離令」を発布しました。

これは、長きにわたって日本各地で融合してきた神道と仏教を制度的に分離し、神社と寺院の機能をそれぞれ独立させるという抜本的な宗教政策でした。

この令によって、全国の神社では、境内に祀られていた仏像や仏具の撤去が進められ、神仏習合の伝統的なあり方は急速に解体されていきます。

別宮大山祇神社もまた例外ではなく、それまで寺院的性格も有していた光明寺としての側面は廃され、神道のみを奉ずる純粋な神社としての再編を求められることとなりました。

この際、それまで本地仏として信仰されていた大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)をはじめ、その脇侍(にきょうじ)や十六王子の仏像などは、隣接する南光坊の薬師堂へと移されました。

そして、南光坊は四国八十八箇所霊場・第55番札所としての役割を正式に継承し、独立した寺院としての歩みを始めたのです。

別宮大山祇神社から別宮大山積神社へ

一方、別宮大山祇神社は、神仏分離の政策により光明寺としての役割を終え、神社としての独立した道を歩むことになりました。

また、明治以前には「別宮大山積神社」と称されていましたが、神仏分離以後の再編とともに、現在の社名である「別宮大山祇神社」に改称されています。

これは、祭神である大山祇神の表記を、仏教的観念を連想させる「積」から、古代以来の正字「祇」へと改めたものと考えられます。

ここでいう「積」は、「功徳を積む」「善根を積む」などの仏教語にも見られるように、修行や功徳の蓄積といった意味合いを含む漢字です。

神仏習合の時代には、神の名にもそうした表記が用いられることがありましたが、神道本来の姿を強調する明治以降の神社制度の中で、より古典的・神道的な表記である「祇」へと改められたと見られます。

そして、昭和12年(1937年)には本殿が新築され、境内の整備も進められるなど、神社としての姿が次第に整えられていきました。

しかし、その歩みは昭和後期のある出来事によって、突如として断ち切られることになります。

それが、今治空襲です。

空襲を生き延びた奇跡の拝殿

昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治市は三度にわたる空襲に見舞われました。

なかでも、8月5日から6日にかけての3度目の空襲では、アメリカ軍のB-29爆撃機によって260発以上の爆弾が投下され、市街地の大半が炎に包まれる壊滅的被害を受けました。

この空襲によって、今治市全戸数の約75%が焼失し、市民生活はもちろん、数多くの歴史的・文化的資産も失われました。

別宮大山祇神社もまた、空襲によって甚大な被害を受けました。

しかしそのなかで、1575年(天正3年)に来島通総によって再建された拝殿だけが、奇跡的に焼失を免れたのです。

実はこの拝殿は、昭和12年(1937年)に新しい社殿が建立された際に絵馬堂として境内の別の場所に移設されており、本殿からやや離れた位置にあったため、空襲による火災の被害を免れることができたのでした。

時代を伝える貴重な拝殿と復興

空襲によって新しい社殿が焼失した後、この奇跡的に残った拝殿は元の位置に戻され、再び拝殿としての役割を担うことになりました。

さらに、昭和37年(1962年)には解体修理と復元工事が行われ、かつての姿を取り戻すと、昭和40年(1965年)3月29日には愛媛県指定有形文化財に登録されました。

この拝殿は、今治空襲という未曾有の戦災を生き延びた数少ない歴史的建築物の一つであり、地域に現存する唯一の純和様神社建築として、今日に至るまで地域の誇りとして大切に守り継がれています。

別宮大山祇神社の境内社

別宮大山祇神社の境内社別宮大山祇神社の境内には、歴史的にも民俗的にも貴重な価値をもつ複数の境内社が静かに佇んでいます。

それぞれの社には、古くから地域に根ざした信仰や伝承が息づいており、本社とは異なるかたちで人々の暮らしと深く関わってきました。

阿奈波神社

「阿奈波さん」の名で親しまれている小さな社殿、阿奈波神社は、昭和38年(1963年)3月17日、大三島の阿奈波神社より分霊を勧請したものです。

しかし、古地図や地域に伝わる口承によれば、かつてこの地にこそ本宮が存在していた可能性もあると指摘されており、歴史の深みを感じさせる場所でもあります。

御祭神・磐長姫命(いわながひめのみこと)は、大山積大神の長女であり、妹・木花開耶姫(このはなさくやひめ)とともに、天孫・瓊々杵尊(ににぎのみこと)に嫁がれることになったとされます。

しかし、瓊々杵尊は磐長姫を拒み、美しい妹・木花開耶姫のみを選んだと伝えられています。

これに深く傷ついた磐長姫は、「もし我が子であれば、岩のように強く丈夫に育つであろう。されど妹の子は、花のようにはかなく散るに違いない」と嘆き、その後は独り身を貫いたといわれています。

深く傷ついた磐長姫は、「もし我が子であれば、岩のように強く丈夫に育つであろう。されど妹の子は、花のようにはかなく散るに違いない」と嘆き、その後は独り身を貫いきました。

この伝承から、磐長姫は「長寿の神」「福徳円満の神」として信仰され、特に女性の守護神として知られるようになりました。

結婚や出産、婦人病、花柳病の平癒を願う人々が、かつては下着や陽物を供えて祈願する風習もあったとされ、今なお静かな信仰が息づいています。

また「下の病」にご利益があるとされ、昔から悩みを抱える人々がそっと手を合わせに訪れてきました。

奈良原神社

「奈良原神社(ならはらじんじゃ)」は、越智郡玉川町奈良原山の山頂に祀られていた奈良原神社の分霊を祀った神社です。

奈良原神社を代々守り続けてきた木地部落の氏子全員が山村を離れ、今治市内へ移住することになり、神社存続の危機が訪れました。

そのため、先祖の神を祀る場として当社境内に勧請されました。

かつての村落共同体の記憶を今に伝える社であり、移住後も変わらぬ信仰心をもって祖神を敬う人々の思いが息づいています。

また、同じく木地地域で祀られていた門脇神社と細埜神社も同じ理由によって合祀され、三社の神々が一体となった神社として、今も変わらぬ信仰を集めています。

清高稲荷神社

赤い鳥居が目印の「清高稲荷神社(きよたかいなりじんじゃ)」は、五穀豊穣・商売繁盛を司る稲荷神を祀っています。

赤と白美しつくしい社殿は、地域の商店主や家内安全を祈る家庭の信仰を集めており、季節の節目には地元住民の手によって丁寧に手入れがされています。

荒神社

荒神社(こうじんじゃ)は、寛政6年(1794年)に摩利支天宮(まりしてんぐう)として建立されました。

火難除けや家内安全の守護神として信仰され、古い社殿には江戸後期の木造建築の趣が今もなお残されています。御祭神は、三宝荒神(さんぽうこうじん)と大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)の二柱。

三宝荒神は、「仏・法・僧」の三宝を守る荒ぶる神で、日本独自の神仏習合によって生まれた神格です。

災厄や不浄を焼き払う力をもち、のちに火や竈の神、さらには食物や農業の守護神としても信仰されるようになりました。

一方の大穴牟遅神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名で、因幡の白兎の神話でも知られる神様です。

国土開拓や農業、医薬の神としても広く崇敬されており、生活に寄り添う二柱の神を祀るこの社は、今も静かな信仰の場として大切にされています。

お袖大明神と三姉妹のクスノキ

別宮大山祇神社の境内には、今治市街地の中では数少ない、自然に近い森(鎮守の森)が残されており、マツ・クス・エノキなどの古木が立ち並びます。

春には桜が咲き誇り、四季折々に訪れる人々の目を楽しませています。

三姉妹の狸と大楠の伝説

かつて境内には、「何か棲んでいるのでは」と噂されるほどの巨大なクスノキが(大楠)ありました。その枝葉は四方に広がり、境内を昼なお暗くするほどだったと伝えられています。

この大楠には、「お奈遠(おなを)」「お佐遠(おさを)」「お袖(おそで)」という三姉妹の狸が住みつき、人々からは「大楠さん」と呼ばれて親しまれていました。

三姉妹の狸と快道和尚

三姉妹はとても賢く、時に化けて参拝者を驚かせることもありましたが、基本的には心優しく、願いを叶えてくれる守り神のような存在として語り継がれています。

特に隣接する南光坊の快道和尚(1846年〜1923年)との不思議な縁があり、和尚は三姉妹の姿を見分けることができたといいます。

ある日、縁側に向かって「これこれ、お奈遠や、そこで何をしているのかね」と声をかけたところ、そばにいた者が不思議に思って尋ねると、「そこにお奈遠が日向ぼっこをしておる」と答えたという逸話が残されています。

不思議な出来事と祠の建立

あるとき、境内の金比羅堂の屋根に楠の枝がかかり、風が吹くたびに瓦を打ち壊す事態となりました。

枝を切ろうと村人たちが集まったところ、不思議なことに、その枝が自然と日なたの方向へ向きを変えたといいます。

これを見た村人たちは、「快道和尚が三姉妹に頼んで枝を動かしてもらったのだろう」と噂し、その霊力にあらためて驚かされたと伝えられています。

こうした出来事を受けて、和尚は村人たちと協力し、楠の根元に小さな祠を建て、三姉妹を「大明神」として丁重に祀るようになりました。

それ以降、狸が人を化かすことはなくなり、参拝者の願いに応える“守り神”としての信仰が深まっていったといいます。

今治空襲と現在の信仰

しかし、昭和20年(1945年)の今治空襲により、三本あった大楠のうち二本は社殿とともに焼失してしまいました。唯一焼け残ったのが、「お袖大明神」を祀る大楠です。

このクスノキは、目通り3.7メートル、高さ17メートル、樹齢300年以上とされ、現在も境内にそびえ立ち、今治市の天然記念物に指定されています。

一方、「お奈遠」「お佐遠」を祀る祠は、戦後に新たに植えられたクスの木の根元に再建され、今も地域の人々から親しまれています。

こうした三姉妹の伝説や、境内に息づく豊かな自然、そして随所に残る神仏習合の信仰の痕跡は、単なる昔話にとどまるものではありません。

そこには、自然への畏敬とともに暮らしてきた人々の心のあり方が、今なお静かに息づいています。

神社名

別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市別宮町3-6-1

電話

0898-22-5304

主な祭礼

歳旦祭(1月1日)・祈年祭(2月17日)・初午祭:(旧暦2月初午日)・輪越祭:(7月29日)・新嘗祭(11月23日)・除夜祭(12月31日)

主祭神

大山積大神(おほやまつみおおかみ)

境内社

清高稲荷神社(きよたかいなりじんじゃ)・阿奈婆神社(あなばじんじゃ)・荒神社(こうじんじゃ)・奈良原神社(ならばらじんじゃ)・ お狸さんの祠(おたぬきさんのほこら)

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