「子守神社(こもりじんじゃ)」は、安産、乳の出、子育ての神として地域の人々から深い信仰を集める神社です。その創建は慶長18年(1613年)とされ、神号を「児子守大明神」と称し、現在でも、多くの人々がその御利益を求め、足を運んでいます。
一方で、この神社の創建に関しては別の伝説が伝わっており、飛鳥時代(西暦592年頃)に起きた「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」や、その時代を生きた人物たちの運命的な物語が深く結びついているとされています。
「白村江の戦い」
「白村江の戦い」は、663年(天智天皇2年)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた日本と百済の連合軍と、唐・新羅の連合軍との間の海戦です。
戦いの発端は、660年に百済が新羅に滅ぼされたことから始まります。当時、百済は日本の友好国であり、文化や技術の交流を通じて深い関係を築いていました。その関係から、百済は国を再興するため日本に救援を要請しました。
当時の天皇である斉明天皇はこの要請を受け、中大兄皇子らを率いて水軍を派遣しましたが、新羅は中国の唐と同盟を結んでおり、663年、白村江河口付近で日本と新羅・唐連合軍が激突しました。この戦いは日本の大敗に終わり、結果的に百済との友好関係を失うとともに、朝鮮半島進出の足場を完全に失いました。
この敗北を受け、日本は唐制を模倣した律令国家の形成に着手し、国防意識を大幅に高める契機となりました。百済の滅亡は日本にとって深刻な外交上の損失であり、以降の政治体制や文化政策にも大きな影響を与える結果となりました。
水軍大将「小千守興」
白村江の戦いの2年前の西暦661年、斉明天皇は白村江の戦いに向けて準備を進めていました。
そんな中で白羽の矢がたったのが伊予の豪族「小千(越智)守興(おちのもりおき)」でした。小千守興は飛鳥の宮中に仕える衛士で、強力な水軍である伊予水軍を率いていました。
伊予水軍は瀬戸内海における海上交通の安全を守るだけでなく、経済の発展にも寄与していました。交易品の輸送や防衛活動において重要な役割を果たしていたため、小千守興の統率力は地域社会の安定と繁栄にとって欠かせないものでした。
斉明天皇が白村江の戦いに向けた準備を進める中で、海戦の必要性が高まっていました。このため、斉明天皇はその卓越した航海術と戦術を評価し、小千守興を日本の水軍大将に任命しました。
朝倉郷での滞在
同年2月10日、斉明天皇は戦に向かうために、小千守興らと共に飛鳥の難波津から九州に向けて船で出港しました。
航路の途中、斉明天皇一行は小千氏が勧請鎮祭した大山祇神社を訪れ、戦勝祈願のため国宝「禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)」を奉納しました。この鏡は中国唐時代に作られたもので、葡萄唐草と鳥獣の模様が描かれた美しい白銅製の鏡です。戦いの安全と勝利を願う斉明天皇の祈りの象徴として、神社に捧げられました。
そして、この航海の途中、斉明天皇は朝倉郷にも立ち寄りました。
当時の朝倉郷は、遠浅の海が広がり、朝倉港は船を停泊させるのに最適な場所として知られていました。この地は戦略的にも重要であり、九州方面へ向かう際の拠点として非常に適していました。さらに、ここは伊予水軍を率いる武将・小千守興の拠点でもあり、安全面でも優れていたため、天皇の滞在地として選ばれたと考えられます。
この旅に同行していた小千守興は周辺の警戒を厳重に行い、斉明天皇が安心して滞在できる環境を整えました。
約2か月半から3か月間にわたる滞在中、斉明天皇は地域の豪族や住民たちと協力し、物資の確保や軍の整備を行いました。また、戦勝を祈願するために無量寺をはじめとする、多くの神社や寺院の建立を行い、地域との絆を深める施策も積極的に進められました。この期間は、斉明天皇の戦略を支える重要な時間となったのです。
そしてこの滞在中に起こったあるラブロマンスが、後の「子守神社」創建の物語へと繋がっていきます。
「夏姫物語」
この航路では、斉明天皇には宮中で仕えていた釆女(うねめ)の「夏姫(岩塚夏)」という美しい女性が同行していました。
釆女とは、古代の宮廷で天皇や皇后に仕え、身の回りの世話をした下級女官で、地方豪族の娘の中で、特に美しく健康な女性が選ばれて貢進されていました。夏姫もその中の一人でした。
当時わずか18歳で、絶世の美女と称されて夏姫は、天皇から非常に寵愛を受け、片時もそばを離れることがなかったと言われています。
また、夏姫は、後に朝倉郷で斉明天皇が建立を命じた御祈願の寺「両足山天皇院車無寺(現:無量寺)」を建立した普請奉行・岩塚土佐守重之の姉にあたります。
当時また18歳で絶世の美女で天皇は片時もそばから離さなかったといわれるほどの寵愛をうけていました。
そんな夏姫には、特別な幼馴染がいました。それが、伊予水軍を率いる小千守興(おちもりおき)です。
二人は幼少期から家族ぐるみで親しく、守興は早くから夏姫に好意を寄せていました。宮廷に上がった夏姫も、成長した守興の男らしい姿に惹かれ、二人の心は徐々に近づいていきました。
そして航海の中で、特に二人の仲は一気に深まりました。地元でもある朝倉郷で過ごす時間の中、屯田川(みたがわ・現:頓田川)の土手や行宮(あんぐう)の物陰で語り合う二人の姿は、次第に周囲の人々にも知られるようになりました。その若々しい愛情は自然で純粋なものでした。
斉明天皇は二人の関係を知ってか知らずか、二人に結婚を勧めました。この助言により、幼馴染だった二人は夫婦となり、深い愛情で結ばれることとなりました。
しかし、戦いの日は近づいていました。斉明天皇の命を受けた小千守興は、5000の兵を率いて軍の先鋒として出征することに。これによって、夏姫と守興は離れ離れになってしまいました。短い間の幸せな時間は、戦乱の中で引き裂かれたのです。
戦乱の世の運命
小千守興が出征してから間もなく、夏姫は自らの身に起きた変化に気づきました。なんと新しい命が宿ったのです。この一報を受けた斉明天皇は、夏姫の体調を深く案じ「産月館(うめかつきやかた)」と呼ばれる館を新築しました。
この館は夏姫の出産を支えるための場所として、周囲には彼女を助ける召仕(めしつかい)の住まいも設けられ、地域全体で夏姫を支える体制が整えられました。
このような配慮もあってか、夏姫は無事に男の子を出産することができました。
しかし、この子の父である小千守興は戦地に向かっていたため、斉明天皇は特別な配慮を示し、この子を猶子(ゆうし)として迎え、「小千皇子(おちおうじ)」と名付けました。
斉明天皇は小千皇子の健やかな成長を願い、両足山天皇院車無寺(現:無量寺)にて安らかな成長を祈願しました。この祈願を通じて、車無寺は「両足山安養院車無寺」として知られるようになりました。
悲劇の結末
一方、夏姫は出産を経て次第に体調を崩し、徐々に衰弱していきました。
寵愛を受けていた斉明天皇は、出征準備の最中である661年(斉明7年)に九州の「朝倉宮」(あさくらのみや)で崩御。
その後の白村江の戦いでは敗戦が伝えられ、小千守興の消息も分からないままでした。この状況は、夏姫にとって大きな心労となり、その疲弊した心と体をさらに蝕むことになります。
白村江の戦いの敗戦が伝えられる中で、小千守興の安否も分からない状態が続きました。愛する夫の消息が不明という状況は、夏姫にとって大きな心労となりました。これが心身の衰弱をさらに進行させてしまいます。
そして、夏姫はついに幼い息子である小千皇子を残して命を落としてしまいました。
さらに、息子の小千皇子も車無寺で育てられていましたが、病弱であったため早くに亡くなってしまいました。母を追うようにその命を閉じた小千皇子の短い生涯は、この地の里人たちの心に深い悲しみを刻みました。
「子守神社」と「皇子神社」の創建
その後、この地の里人たちのは夏姫を忘れることなく、浅地の地に神様として祀り社を建てました。この神社は「子守神社」と名付けられ、子どもを守る神様として広く信仰されるようになりました。さらに、峠には「熊神社」としても祀られ、夏姫への敬意と祈りが地域の信仰の中心となりました。
一方、若くして命を落とした小千皇子もまた、その存在が人々に大切に思われていました。皇子は峠に「皇子神社(皇子明神社)」として祀られ、峠の氏神として崇められることとなりました。
「越智姓」
これらの、両社の氏子たちは「越智姓」を名乗ることを特別に許されるようになり、この姓は地域の歴史と伝承の象徴として受け継がれていきました。
祭神「玉依姫命」
子守神社の祭神「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」ですが、これらの伝承から考えると、夏姫自身が玉依姫命として祀られたと考えられます。
玉依姫命は日本神話に登場する神霊の依り代であり、神と人を繋ぐ役割を果たす巫女的な存在です。また、授乳や安産、子育ての神として広く信仰されており、夏姫の生涯とその慈愛の姿が重ね合わされています。