「鷹取殿(たかとりでん・鷹取神社)」は、新谷(にや)の吉祥寺にある社で、戦国末期に創建されました。ここには、鷹取山城主であった正岡経長(まさおか つねなが)の妻子が祀られています。
海をめぐる攻防と正岡氏の居城
戦国時代、伊予国(現在の愛媛県)は、四国の要衝として各地の大名たちが争奪を繰り広げる激戦地でした。特に、瀬戸内海を制するすることは、四国全体の覇権を握る鍵であったため、伊予の沿岸地域は絶えず攻防の舞台となっていました。
越智郡と河野氏の統治
この時代、高縄半島の東部一帯は「越智郡」と呼ばれ、5世紀後半から続く越智氏の統治体制のもと、発展してきました。その後、平安・鎌倉時代にかけて、越智氏の流れを汲むといわれる河野氏が伊予国の有力大名へと成長し、戦国時代末期まで伊予を統治しました。
河野氏の統治下のもとで、越智郡一帯には数々の城砦が築かれました。河野氏は、瀬戸内海で最大級の水軍「河野水軍」を主力にしており、その拠点となる城の多くは、海を一望できる高台に築かれました。これにより、敵の侵攻を早期に察知し、迅速な防衛や海戦に備えることができたのです。
四国の覇権争いと他国勢力の侵攻
伊予国は、地理的に瀬戸内海の中央に位置し、四国と本州をつなぐ戦略的な要衝であったため、讃岐(香川)、土佐(高知)、さらに海の向こうの安芸(広島)からもたびたび攻め込まれました。伊予国内でも、小大名同士の抗争が絶えず、道前・今治平野の覇権をめぐって領主たちは激しい戦いを繰り広げました。
その中で、越智郡の防衛の要として築かれたのが、幸門山の「幸門城(別名・岡之城)」と鷹取山の「鷹取城」でした。これらの城は、代々正岡氏が城主を務めたとされ、越智郡の防衛拠点として重要な役割を果たしていました。
正岡氏と越智郡の防衛戦
正岡氏は、河野氏の家臣として、越智郡の要所を守る一族でした。彼らの拠点であった幸門城と鷹取城は、河野水軍の重要な支城であり、海を臨む高台に築かれていました。これにより、敵の船団の動きを見張りつつ、必要に応じて海上戦闘や陸戦を行うことができました。
しかし、戦国時代末期になると、伊予国をめぐる争いはさらに激化。河野氏の勢力が衰え始めると、伊予国には織田信長の支援を受けた毛利氏、さらには豊臣秀吉の勢力が介入するようになりました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐が開始されると、小早川隆景が伊予国への侵攻を担当し、河野氏の拠点を次々と攻略していきました。この戦いの中で、正岡経長が城主をつとめていた鷹取城も激戦の舞台となりました。
【四国攻め】鷹取城の戦い
天正十三年(1585年)七月十七日、鷹取城は、小早川隆景率いる豊臣軍の不意の夜討ちを受けました。四国征伐の一環として、伊予国への進軍を命じられた小早川隆景は、次々と越智郡の城を攻略し、圧倒的な兵力で攻め寄せました。しかし、鷹取城はそう簡単には落ちませんでした。
鷹取城は、鷹取山の山頂に築かれた山城であり、四方が険しい地形に囲まれた天然の要害でした。そのため、他の城が比較的早く陥落したのに対し、鷹取城は正岡紀伊守の指揮のもと徹底抗戦し、小早川軍を苦しめたのです。
しかし、戦が長期化するにつれ、城内の兵糧は次第に底をついていきました。そん中で、鷹取城の予想以上の抵抗に苦戦していた小早川軍から和議の申し入れが届きました。
しかし、これは単なる和睦ではなく、小早川軍が仕掛けた巧妙な策略の始まりでした。
和睦の証として、小早川軍から「つづら(大きな箱)」が鷹取城に贈られてきました。城兵たちは、これを受け取り、そのつづらを開けると、中から蜂の群れが一斉に飛び出してきました。
兵士たちは突然の蜂の襲撃に次々と刺され、城内は大混乱に陥りました。
そうこうしているうちに、また新たなつづらが城に届けられました。兵士たちは、「また蜂が入っているに違いない」と考え、今回は慎重に処分するために火をつけました。
しかし、今回のつづらには火薬が仕込まれており、つづらは大爆発を引き起こします。まさに現代でいうところの爆弾であり、その威力は凄まじく、城内の建物や防御施設を破壊しました。
さらにこれを合図に、小早川軍が一気に攻め込み、ついに鷹取山城は落城してしまいました。城主であった正岡経長は、もはや戦況が覆せないことを悟ると、愛する妻子を枝連衆(しれんしゅう)の清水通俊に預け、自らの命を絶ちました。
戦火の中で誓われた祈り
正岡経長の妻子は、小早川軍の追手から逃れるため、月明かりを頼りに吉祥寺の裏山(または鹿子谷の洞窟)へと身を潜めました。
しかし、周囲はすでに敵兵によって包囲されており、もはや逃げ道は残されていませんでした。追手が迫る中で自害する覚悟を決め、次のような辞世の句を読んで誓いを立てました。
「国家安康、災難削除、人畜平安を守護する」
さらに、この時の奥方は妊娠しており、そのお腹には新しい命が宿っていました。そこで奥方はこれから生まれてくるはずだった我が子のことを思い、さらに次のような誓いを立て自ら命を断ちました。
「わが霊は、永遠に妊婦を守護し、安産を遂げさせ、男児には『福徳知恵』を、女児には『端正麗姿』を与える」
受け継がれる奥方の願い
それから時が流れ、吉祥寺の住職であった寛嶺(かんれい)の夢枕に、正岡紀伊守の奥方が現れました。奥方は静かに語りかけ、供養を求めました。
翌朝、住職はその夢のことを思い出し、正岡夫婦のために墓石を作って供養を行いました。
その後、夫婦の墓石は何度か修繕や刻み直しが行われましたが、奥方の法名が刻まれた側にだけ、不思議なことに白い線が現れたといいます。人々はこの白い線を、奥方が生前に巻いていた腹帯の白い布の跡ではないかと考え、地域の人々の間で語り継がれています。
「安産の仏様」
やがて紀伊守妻子の墓石は「安産の仏様」として崇拝されるようになり、鷹取殿と名付けられた小さな社殿が建てられ、本尊として祀られるようになりました。
この墓石には、安産を願う多くの参拝者が訪れ、そのご利益を受けたと伝えられています。
その数は計り知れず、鷹取殿には、安産や子授けのご利益に感謝する人々が奉納した小さな着物や写真、赤ちゃんのよだれかけが所狭しと並べられています。
これらは、無事に子供を授かり育てることができた人々の感謝の思いが形となったもので、現在でもその信仰は続いており、多くの参拝者が鷹取殿を訪れています。
「鷹取祭」
戦国の激戦を生き抜いた正岡氏の末裔である清水一族は、長年にわたって正岡紀伊守とその妻子の霊を供養し続けてきました。戦乱の世に散った彼らの魂は、やがて地域の人々の心の中に根付き、世代を超えて語り継がれる存在となりました。現在では、その役割を吉祥寺が引き継ぎ、地元の人々とともに大切に守り続けています。
吉祥寺では毎年、旧暦の四月十三日には「鷹取祭」という祭りが行われ、地域の人々が集まって安産や家族の健康を祈ります。この祭りは、地元に根付いた大切な行事として今も続いており、地域の人々にとって大切な祈りの場となっています。
乱世を生きた絆
鷹取山城の戦乱の歴史は、今もなお地域の人々の心に深く刻まれています。かつてこの地を守り抜いた正岡氏の祈願寺であった竹林寺には、紀伊経長の墓とされる五輪堂が建立され、静かにその歴史を伝え続けています。
また、鹿子池の畔には、紀伊経長の妻子の墓があり、彼らの壮絶な最期と誓いを今に伝えています。そして、戦国時代の名残として鷹取山城の跡地には「鷹取山城の石碑」が建立されました。これらの供養の場は、かつて正岡氏の重臣であった清水氏の子孫たちの手によって守られ、今も変わらず祀られ続けています。
時代が流れ、戦乱の世は遠い過去となった今も、正岡家と清水家の絆は途切れることなく続いています。 現在でも、古谷には清水姓、新谷には正岡姓が多く残り、かつての戦乱の世を生き抜いた武士たちの誇りと絆は、今もこの地に息づき、地域の人々の信仰とともに未来へと紡がれています。