朝倉地区の山口地域には、古くから人々の暮らしとともに歩んできた歴史ある場所が点在しています。その中でも、「一本松社(いっぽんまつしゃ)」は特に地域の象徴ともいえる存在です。
この社は、一本松古墳の上に建てられた社で、神社名は文字通り、古墳の上に立っている一本の大きな松『一本松』に由来しています。
初代一本松『根上がり松』
実は現在の一本松は2代目で、初代は『根上がり松』と呼ばれた名木でした。
『根上がり松』は、推定樹齢350年とされる大木で、樹高は31メートルに達し、幹の周囲は9メートルもの太さを誇っていました。
枝は南北41メートル、東西30メートルにも広がり、四方へと大きく張り巡らされた根は、南北18メートル、東西20メートルの範囲に及んでいました。
この松は台地の上に生えていたため、根は地表に露出し、四方八方に広がって地を這うような形状をしていたため『根上がり松』と名付けられました。
その大きさと優雅な姿は、県文化財専門委員の視察を受けた際にも、「県内一の名木」と高く評価され、に愛媛県の天然記念物(昭和30年に指定)に指定されたほどでした。
目印としての役割
その圧倒的な存在感と堂々たる姿は遠方からでも容易に確認でき、まるで地上を覆う巨大な傘のように見えたといわれています。
「根上がり松」は別名「山口の一本松」とも呼ばれていました。これは、その一本松としての威容が遠方からでも眺めることができたため、地名と合わせて名付けられたものです。
地元の住民や旅人たちは、その堂々たる姿を目印として道を歩み、まさにこの地の象徴としての役割を果たしていました。この松は、もともと旧道の一里塚や並木の一部として植えられたとも伝えられています。
また、古墳の脇には、慶応三年(1867年)に作られたとされる「金比羅大門江廿四里、多伎宮江拾二丁、和霊宮江六拾丁」と刻まれた道程を示す石碑が現存しています。
この石碑は、かつて旅人が目的地までの距離を知るために利用したものであり、江戸時代の交通の名残を今に伝えています。このような道程石碑の存在からも、当時、この地が旅人の往来の要所であったことがうかがえます。
そして、根上がり松もまた、その独特な姿とともに、道標としての役割を果たしていた可能性が高いと考えられています。
根上がり松の逸話
『根上がり松』にはその姿に関するある逸話が残されています。
昔、ある殿様が領内を巡視していた際、この松の根元に腰を下ろして一息つきながら、案内役を務めた地元の庄屋(または村人)に「この松の樹齢はどのくらいか?」と尋ねました。
村人は即座に「千八年になります」と答えました。
殿様は「千年というのは理解できるが、なぜ八年を付け加えたのか?」と問い返しました。すると村人は、「松は千年を過ぎると枝が下がり始めます。この松は八年前から枝が下がり始めましたので、そのように申し上げました」と説明しました。
この話を聞いた殿様は、たいそう感心し、村人の知識と観察眼を称賛したと伝えられています。
根上がり松の伐採
初代「根上がり松」は、地元の人々によって大切に手入れされ、消毒などの保存作業が行われていました。しかし、周囲に舗装道路ができ、住宅が増えたことで、根や枝に大きな負担がかかるようになりました。
さらに、1980年代に全国的に猛威を振るった松食い虫の被害がこの松にも及びました。村の当局や教育委員会は対策を講じ、県事務所や県林業試験場の協力のもと、防除作業を何度も試みましたが、残念ながらその効果は得られませんでした。ついに1980年(昭和55年)6月25日、双樹のうち一方は枯死が避けられない状態となり、県教育委員会および林業試験場の指導のもとで伐採が決定されました。
残された一本も、支えを失った形で立ち続けましたが、6月1日に発生した台風の強風と大雨に耐えきれず倒れました。こうして、長い歴史と伝統を誇った「根上がり松」は、朝倉の地から姿を消しました。
県の天然記念物に指定されてから25年もの間、朝倉のシンボルとして多くの村民に親しまれていたこの松の消失は、地域にとって大きな損失となりました。
古墳の発掘調査
その後、松食い虫被害により枯れた松の処理が進められる中、地元山口地域の了承を得て、県の指導のもとで古墳の発掘調査が行われました。
この調査は、財団法人愛媛県埋蔵文化財調査センターの専門員である坂本安光先生と井原主事の指導のもと、細心の注意を払って実施されました。
調査の結果、倒れた松の根元から貴重な銅鏡が発見されました。発掘された銅鏡は「四面四獣鏡」と呼ばれるものであり、さらに多数の土器の破片も見つかりました。これらの発見は、地域の歴史を考察する上で非常に重要なものでした。
出土した銅鏡は、視察に訪れた前愛媛大学教授の西田先生によって「四面四獣鏡」であると確認され、慎重に保管されることが決定されました。
そして、この発見を機に、この古墳は「一本松古墳(根上がり松古墳)」と正式に命名され、地域の歴史的価値が改めて認識されることとなりました。
一本松社の建立
この発掘を契機に、山口地域では古墳跡の保存と活用を目的として、昭和57年11月に社を建て、出土した銅鏡を御神体として祀ることとなりました。
これが「一本松社」です。
こうして、一本松古墳(根上がり松古墳)は地域の歴史を後世に伝える場となり、一本松社は歴史と信仰の象徴として、現在も大切に守られています。
二代目「根上がり松」
さらに、同年の、昭和57年(1982年)には県林業試験場で育成された「根上がり松」の二世の苗木が植えられました。
長い年月をかけて成長し、風雪に耐えながら立派な姿を見せていましたが、残念ながらそのうち一本は再び枯れてしまい、現在は一本のみが残っています。
それでも、その一本はしっかりと大地に根を張り、訪れる人々に歴史の重みと自然の力強さを感じさせています。