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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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皇子明神社(今治市・朝倉地区)

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「皇子明神社(こうじみょうじんじゃ)」は、愛媛県今治市にある由緒ある神社で、地域の歴史と深い関わりを持つ神聖な場所です。長い歴史の中で、多くの人々に信仰されてきました。

創建の由来と謎

神社の資料によれば、皇子明神社の創建は南北朝時代の貞治年間(1362年〜1368年)にさかのぼります。

当時、世田山城の城主であった河野道朝(こうの みちのり)は、城が落城した後、この地へ落ち延びて山谷を開拓し、河野家の祖先を祀るために神社を創建したと伝えられています。

この落城の背景にあるのが、「世田山合戦(せたやまかっせん)」と呼ばれる戦いです。

「白峰合戦」

世田山合戦は、南北朝時代における四国の覇権をめぐる激しい戦いのひとつで、北朝方の細川頼之(ほそかわ よりゆき)と南朝方の細川清氏(きようじ)が激突した中で起こりました。

発端は、貞治元年(1362年)に勃発した「白峰合戦(しらみねかっせん)」です。

細川頼之と清氏は同族でありながら立場を異にし、讃岐の宇多津と高屋(現在の坂出市林田)で長く睨み合いを続けました。当初は、北朝方である頼之にとって不利な状況が続いていました。

頼之は劣勢を挽回すべく、同じ北朝方に属する伊予の有力豪族・河野通盛(こうの みちもり)に援軍を要請しました。

河野氏は、伊予国を中心に中世期に繁栄した名門で、通盛は足利尊氏に味方して伊予守護の地位を得ており、当時の伊予に強い影響力を持っていました。

しかし、通盛はこの要請に応じず、静観を決め込みます。

頼之は孤軍奮闘の末、最終的に白峰合戦で勝利を収め、讃岐・土佐の守護に任命されました。

これにより、すでに掌握していた阿波・伊予とあわせて、四国全土を統治する地位を確立し、「四国管領」と称されるようになります。

この後、頼之は伊予統一を目指し、通盛が出兵を拒否したことを大義名分として幕府から討伐の命を得て、貞治3年(1364年)、ついに伊予へと軍を進めました。

こうして始まったのが「世田山合戦(せたやまかっせん)」です。

「世田山合戦」

世田山合戦は、その名の通り、世田山を主戦場として繰り広げられた戦いです。

標高339メートルの世田山は、伊予国における戦略的な要衝であり、隣接する笠松山(357メートル)とともに、越智平野(今治平野)を見下ろす高地に位置していました。

このため、古来より両山には城が築かれており、河野氏はそれらを軍事拠点として陣を構えていました。そして、この合戦において世田山城を守っていたのが、河野通朝(こうの みちとも)でした。

河野軍は、およそ二か月にわたって細川軍の猛攻に耐え、必死の籠城戦を続けましたが、圧倒的な兵力差の前に次第に追い詰められていきます。

そして、貞治3年(1364年)11月6日、世田山城はついに陥落。河野通朝は討死し、河野氏の勢力はこの戦いを境に大きく後退しました。

この合戦は、細川頼之が四国での覇権を確立する転機となり、以後の四国の歴史に決定的な影響を与える出来事となりました。

河野道朝の謎

しかしここで、一つの矛盾が浮かび上がります。

伝承によれば、皇子明神社は河野道朝によって創建されたとされていますが、河野道朝は、世田山合戦において討死したと伝えられているのです。

では皇子明神社はいったい誰が創建したのでしょうか?

これはあくまで推測ではありますが、戦に敗れた河野家の一族がこの地に落ち延び、隠れ住みながら山谷を開拓し、祖先を祀るために社を築いたのではないでしょうか?

もしかしたら皇子明神社は、河野家再興の祈りと、戦の記憶を静かに伝える社なのかもしれません。

もう一つの創建の伝説と斉明天皇

実は、皇子明神社の創建には、もう一つの伝説が伝えられています。

それは、飛鳥時代に起きた「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」と、その時代を生きた人物たちの運命的な物語とが、深く結びついているというものです。

「白村江の戦い」

「白村江の戦い」は、663年に朝鮮半島の白村江(現在の韓国・錦江河口付近)で行われた、日本・百済連合軍と、唐・新羅連合軍との間の大規模な海戦です。

この戦いの発端は、660年に百済が新羅に滅ぼされたことにあります。

当時、百済は日本にとって仏教・文字・制度・工芸技術など多くをもたらした重要な友好国であり、政治的にも文化的にも極めて深い結びつきがありました。

百済の王族や遺臣たちは日本に再興支援を要請し、それを受けた斉明天皇は、皇太子・中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに水軍を派遣しました。

この派遣軍は数百隻の艦船と数万におよぶ兵力を擁し、百済の遺民勢力とともに再興を目指します。

しかし、百済の旧敵である新羅はすでに強大な中国・唐と軍事同盟を結んでおり、唐は陸海あわせて約13万人の大軍を朝鮮半島に派兵していました。

そのうちの一部が、白村江に集結して日本連合軍と対峙したのです。

海戦の激突と日本の敗北

663年、日本と百済の連合軍は、白村江で唐・新羅の連合軍と激突します。

戦いは数日にわたる激戦となりましたが、唐軍の重装備や火矢、弩(ど)を備えた大型戦艦の機動力、そして新羅の地の利を活かした協調戦術により、日本軍は壊滅的な敗北を喫します。

多数の兵が戦死し、船団は焼き払われて沈没、指揮官や兵士の多くが捕虜となるなど、百済再興の希望は完全に断たれました。

この敗北により、日本は百済との友好関係を失い、同時に朝鮮半島における影響力を完全に喪失しました。

しかし、この戦いは日本にとって単なる敗北ではありませんでした。この苦い経験は、日本に「国の形」を根本から問い直させる契機となったのです。

水軍大将「小千守興」

白村江の戦いを目前に控えた西暦661年、日本では朝鮮半島における軍事行動に向けて、国を挙げての準備が進められていました。

その中で、斉明天皇の目に留まったのが、伊予の豪族「小千(越智)守興(おちのもりおき)」でした。

小千守興は、当時飛鳥の宮中に仕える衛士であり、同時に伊予水軍を率いる将としても名を馳せていた人物です。

伊予水軍は、瀬戸内海一帯において海上交通の安全を守るとともに、交易・軍事・通信において極めて重要な役割を担っていました。

航路の掌握と交易品の保護、海賊の制圧や軍船の運用を通じて、この水軍は地域の経済と治安を支える中核的存在でもありました。

その中で小千守興は、強い統率力と航海術、そして海戦への適応力において傑出した指導者として高く評価されていたのです。

白村江の戦いでは、制海権をめぐる大規模な戦闘が予想されており、日本側にも熟練した水軍の存在が不可欠とされていました。

このため、斉明天皇はその才を見込み、小千守興を日本水軍の指揮官「水軍大将」に任命しました。

九州への出陣と戦いの始まり

同年(661年)2月10日、斉明天皇は小千守興らとともに、朝鮮半島への遠征の第一歩として、飛鳥の難波津を出航しました。

この出航は、単なる軍事行動の開始にとどまらず、国家の威信をかけた歴史的な船出でもありました。

大山祇神社への戦勝祈願

航海の途中、斉明天皇一行は、守興が代々信仰を寄せてきた伊予の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に立ち寄り、戦勝祈願として「禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)」を奉納したと伝えられています。

この鏡は、唐代の中国で製作された精巧な白銅製の鏡で、葡萄唐草と禽獣の文様が緻密に刻まれた逸品です。
その意匠の荘厳さと美しさは、まさに王権と祈願の象徴にふさわしく、戦の安全と勝利を願う斉明天皇の深い祈りが、この奉納品に込められていたと考えられます。

この国宝級の鏡は、今日においても神社の重要な伝承の一つとして語り継がれており、古代の記憶を静かに物語り続けています。

朝倉郷への滞在

航海の途中、斉明天皇は伊予の朝倉郷に立ち寄ったと伝えられています。

当時、朝倉郷は遠浅の海が広がる自然の良港であり、戦略的にも重要な拠点でした。

さらに、この地は伊予水軍を率いる小千守興の拠点でもあったため、安心して滞在できる環境が整っていました。

小千守興が警戒を厳重に行う中、斉明天皇は約2か月半から3か月間この地に滞在し、多くの神社や寺院を建てて戦勝を祈り、来る決戦のための準備をこの地で整えたとされています。

そしてこの滞在中に起こったある出来事が、後の子守神社創建の物語へと繋がっていきます。

「夏姫物語」戦の世に咲いた恋

この航路には、斉明天皇のそばに一人の美しい女性が同行していました。彼女の名は、夏姫(岩塚夏)。宮中で天皇に仕えていた釆女(うねめ)の一人です。

釆女とは

古代日本の宮廷には、「釆女(うねめ)」と呼ばれる女官たちがいました。

彼女たちは、天皇や皇后の身の回りの世話を務める下級女官であり、その多くは地方豪族の娘たちの中から、美貌と健康、教養を備えた者が選ばれ、朝廷に“貢進”されていました。

夏姫(岩塚夏)も、そうした釆女のひとりでした。

夏姫は伊予国(現在の愛媛県)に根を張る名家・岩塚氏の娘で、斉明天皇の御願によって建立された「両足山天皇院車無寺(現・無量寺)」の普請奉行を務めた岩塚土佐守重之の姉にあたります。

その家柄と器量、そして気品の高さから宮中に召し出されたといわれています。

当時の記録や伝承によれば、当時18歳で夏姫の美しさは宮廷内でも名を馳せるほどであり、斉明天皇は片時もそばから離さなかったといわれるほどの寵愛をうけていました。

小千守興とのラブロマンス

そんな夏姫には、特別な人がいました。

それが、伊予水軍を率いる「小千守興(おち もりおき)」です。

ふたりは幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあり、守興は早くから夏姫に想いを寄せていました。

一方、宮廷に上がった夏姫も、成長した守興の凛々しい姿に心を惹かれ、二人の心は徐々に近づいていきました。

そして、斉明天皇の航海に随行する中で、ふたりの絆は急速に深まりました。

地元である朝倉郷に滞在していたある日、ふたりは屯田川(頓田川)の土手や行宮の物陰で言葉を交わし、互いの想いを確かめ合うようになります。

若く、純粋なその愛情は、やがて周囲の人々にも知られるようになりました。

その様子を知ってか知らずか、斉明天皇はふたりに結婚を勧めました。この御助言をきっかけに、幼馴染の二人はついに夫婦となり、深い愛情で結ばれることとなりました。

戦乱の中で引き裂かれる愛

しかし、戦いの日は、すでに間近に迫っていました。

ほどなくして、小千守興は斉明天皇の命を受け、五千の兵を率いて軍の先鋒として出征することになります。
朝倉郷から、戦へと向かう愛しい人の背を、夏姫はただ、黙って見送るしかありませんでした。

こうして、ふたりは引き裂かれるようにして、別れの時を迎えます。
わずかな時間のなかで育まれた幸福は、戦乱という荒波に呑まれ、無情にも断ち切られてしまったのです。

戦乱の世に生まれた命

守興が出征してから間もなく、夏姫は自らの身に起きた変化に気づきました。なんと新たな命が宿っていたのです。

この知らせを受けた斉明天皇は、夏姫の体調を深く案じ、出産を支えるための館を新たに築きました。

それが「産月館(うめかつきやかた)」です。

館の周囲には、夏姫に仕える召仕(めしつかい)たちの住まいも設けられ、地域全体で彼女を支える体制が整えられました。

こうした周囲の深い配慮と見守りのなか、夏姫は無事に男の子を出産することができました。

しかし、この子の父である小千守興は戦地に向かっていたため、すぐに戻ってくることはできません。

そこで斉明天皇は、特別な配慮をもってこの子を猶子(ゆうし)として迎え入れ、「小千皇子(おちおうじ)」と名付けました。

さらに斉明天皇は、小千皇子の健やかな成長を願い、両足山天皇院車無寺(現:無量寺)にて安らかな成長を祈願しました。

この御祈願を契機に、車無寺は「両足山安養院車無寺」としても広く知られるようになったと伝えられています。

悲劇の結末

一方、夏姫は出産を経て次第に体調を崩し、徐々に衰弱していきました。

そんな中、斉明天皇は出征の準備を進めるさなか、661年(斉明7年)、九州の「朝倉宮(あさくらのみや)」にて崩御されます。

この知らせは夏姫にとって大きな悲しみとなり、唯一の支えを失った彼女の心は、深い不安に揺らぎはじめました。

さらに追い打ちをかけるように、白村江の戦いでは日本軍の敗戦が伝えられ、夫・小千守興の消息もついに知れることはありませんでした。

愛する人の生死すら分からぬまま、夫の安否を案じ続ける日々は、夏姫の心と体を容赦なく蝕んでいきました。

そして、ついに夏姫は、幼い息子(小千皇子)を残してこの世を去りました。

しかし…悲劇はそれだけでは終わりませんでした。

夏姫の死後、小千皇子は車無寺で手厚く育てられていましたが、生まれつき病弱であり、ほどなくして亡くなってしまったのです。

「皇子明神社」の創建

母を追うようにして儚く命を終えた小千皇子の死は、この地に深い哀しみを残しました。やがて人々は、母と子の魂を慰め、その霊を静かに祀る場所を求めるようになっていきます。

こうして、峠の地には小千皇子を祀る社が建てられ、「皇子神社(皇子明神社)」と呼ばれ、氏神として崇められるようになりました。

「子守神社」の創建

一方、母である夏姫もまた、その献身と哀しみを忘れることなく、里人たちは浅地の地に社を建て、神として祀りました。

この社は「子守神社」と名付けられ、母の優しさと強さを象徴する存在として、子どもを守る神様として広く信仰を集めるようになります。

さらに、峠の別の地には、夏姫を「熊神社」としても祀るようになり、その敬意と祈りは、地域信仰の中心として今に至るまで息づいています。

「越智姓」

これら両社の氏子の方々は、特別に「越智姓」を名乗ることを許され、この姓は、地域の歴史と伝承の象徴として今日まで受け継がれていきました。

「折敷に揺れ三文字紋」

皇子明神社の近くに暮らす家々には、「折敷に揺れ三文字紋(おしきにゆれさんもじ)」の家紋が多く見られます。

この家紋は、越智姓を名乗る家々に共通して受け継がれており、そこからは、かつてこの地における越智氏の影響力の大きさが静かに伝わってきます。

神社名

皇子明神社(おおじみょうじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市朝倉上甲122番地

電話

0898-56-3063

主な祭礼

例大祭(5月7日)

主祭神

天津彦火瓊々杵命

境内社

熊神社・杵築神社

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