「白山大神社(はくさんだいじんじゃ)」は、霊仙山から続く山塊の満願寺山に鎮座している神社で、建久年間(1190年~1199年)に創建されたとされています。
白山大神社はもともとは現在の地でなく、かつて朝倉ダムがある一帯に存在した「庄内村(しょうないむら)」の黒谷に鎮座していました。
朝倉ダム
朝倉ダムは、愛媛県西条市黒谷と今治市朝倉上の境界に位置するダムで、左岸(西側)が西条市、右岸(東側)が今治市にあたります。今治平野南部の農地を潤す農業用水の供給を目的として、1981年に建設されました。豊かな山間の自然に囲まれたこのダムは、地域の農業と暮らしを支える重要な存在となっています。
庄内村
庄内村は、桑村郡(のちの周桑郡)に属していた村でしたが、1955年(昭和30年)に三芳村、楠河村、庄内村の3村が合併して三芳町となり、自治体としては消滅。
その後、東予町、東予市を経て、平成の市町村合併により西条市の一部となりました。
つまり、現在の黒谷(庄内村)は西条市に属しています。
朝倉地区(今治市)ではなく西条市であることが、この地域の行政上の大きなポイントです。
「平成の合併」今治市ではなく西条市へ
実は、平成の合併の話が進む中で、朝倉村(現:今治市の一部)は今治市と合併する方向で進んでいました。
しかし、旧東予市(現:西条市東予地区)と接している黒谷地域では、東予市方面に出かける際に朝倉村(今治市)を通過しなければならなかったため、「朝倉村から独立して今治市に編入したほうがいいのではないか?」という意見が出ました。
住民は何度も議論を重ねましたが、意見がまとまることはなく、最終的に今治市ではなく「東予市(現:西条市)」に組み込まれることとなったのです。
黒谷の地理と水系
愛媛県西条市黒谷は、朝倉ダムを含む山間部の地域に位置しています。この地域は、西条市東予地区を流れる大明神川とは別の水系に属しており、今治平野へと流れ込む頓田川の上流域にあたります。
頓田川は、朝倉上から宮ヶ崎(桜井地区)を経由し、国分(桜井地区)と高市(富田地区)の間を蛇行しながら燧灘(瀬戸内海)へと流れる2級河川で、地域の人々にとって貴重な水源となっています。
一方で、頓田川は急峻な地形を流れるため、急激な増水が発生しやすく、古くから大雨のたびに氾濫し、周辺の村々に大きな被害をもたらしてきました。
水害を越えて…白山大神社再建の記憶
ある年の大水害の際に、黒谷に鎮座していた白山大神社もまた、大水害による頓田川の氾濫によって社殿が流されてしまうという悲劇に見舞われました。
白山大神社は地域住民の信仰の中心であり、この災害は住民にとって大きな衝撃となりましたが、住民たちはあきらめることなく、力を合わせて本殿を川から引き上げ、現在の満願寺山中腹へと遷座し、新たに祀り直しました。
これが、現在に続く白山大神社になります。
「白山大神社の歴史」朝倉に根付く長井氏の氏神
白山大神社は、愛媛県今治市朝倉に根付いた長井氏(長井家)の氏神であり、全国各地の長井氏より篤く信仰されていました。
長井氏の起源
長井氏の起源は、平安時代後期にさかのぼります。
日本では大化の改新が行われ、天皇を中心とする中央集権国家体制の礎が築かれました。この政治改革において、功績を挙げた中臣鎌足は「藤原」の姓を賜り、以後、栄華を極める藤原氏の始祖となりました。
その十代目にあたる藤原叙用(ふじわら のぶもち)は、伊勢神宮に仕える重要な役職・斎宮寮頭(さいくうりょうのかみ)を務めました。
これにちなみ、「斎宮(さいくう)」の「斎」と、藤原の「藤」をとって「斎藤(さいとう)」と名乗るようになったと伝えられています。 この時点で、のちに全国に広がる斎藤氏の系譜が形作られたのです。
その後、斎藤叙用の子孫である**越前権守・河合斎藤助宗(かわいさいとうすけむね)**の子、**実遠(さねとお)**が歴史の表舞台に登場します。
康平5年(1062年)、東北地方で勃発した「前九年の役」において、実遠は源頼義・義家父子の軍に従い、陸奥の安倍氏討伐に尽力しました。
この武功によって、源氏の有力な家臣(被官)として取り立てられた実遠は、恩賞として武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市周辺)を与えられ、そこに住み始めました。
実遠は新たな地において、「長井斎藤」と名乗り、ここに長井斎藤氏(後の長井氏)が誕生しました。
そしてこの長井斎藤氏こそ、後に伊予国(現在の愛媛県)へ渡り、白山大神社を祀るに至る長井氏の遠い祖先にあたります。
長井斎藤別当実盛公
長井氏の一族の中でも、特に名高い武将が長井斎藤別当実盛(さいとう さねもり)です。
斎藤実盛は、天永2年(1111年)、越前国河合荘(現在の福井県)に生まれ、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠とする武士となりました。
若き日は、相模国を拠点とする源義朝に仕えていましたが、やがて地政的な判断から、上野国へ進出していた義朝の弟・源義賢のもとに仕えるようになります。
久寿2年(1155年)、源義平が叔父・義賢を急襲して討ち取る「大蔵合戦」が勃発すると、実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻りました。
しかし、旧主・義賢への恩を忘れることなく、義賢の遺児である幼い駒王丸(後の木曽義仲)を保護し、信濃国の中原兼遠のもとへ送り届けたと伝えられています。
その後、保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)において、実盛は義朝に従い、京都で奮戦しました。
義朝滅亡後は、関東に落ち延び、のちに平家に仕えることとなります。
治承4年(1180年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると、実盛は平家方として従軍し、若き平維盛を補佐して頼朝追討に向かいました。
しかし、富士川の戦いでは、実盛が東国武士の強さを警戒するよう進言した結果、平家軍が過剰に恐れて総崩れとなり、大敗を喫することになります。
寿永2年(1183年)、実盛は再び平維盛とともに北陸へ進軍し、木曽義仲討伐に向かいました。
しかし、加賀国の篠原の戦いで味方が総崩れとなる中、老齢の身でありながら一歩も退かずに奮戦し、義仲方の手塚光盛に討たれました。
この戦いに際して、実盛はあらかじめ白髪を黒く染め、「最期の戦いこそ若々しくありたい」という覚悟をもって出陣していました。
そのため、討ち取られた直後には誰の首か分かりませんでしたが、義仲が首を洗わせるとみるみる白髪が現れ、かつて自らを救ってくれた恩人・実盛だと知った義仲は、人目をはばからず流して嘆いたと伝えられています。
この実盛の忠義と武勇、そして悲劇的な最期は、長井氏にとって大きな誇りとなり、後世まで語り継がれていくことになりました。
伊予における長井氏の始まり
実盛の壮烈な最期の後も、その血筋は力強く生き延びました。
文治元年(1185年)、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、全国に守護・地頭を配置して、武家による統治体制を整えていきました。
このとき、伊予国の初代守護職に任じられたのは、頼朝の重臣で近江源氏(源氏の流れを汲む近江国に住みついている一族)の「佐々木盛綱(ささきもりつな・佐々木三郎盛綱)」でした。
しかし、盛綱はすでに五ヶ国の守護地頭職を兼ねていたため、伊予国の統治に十分な力を割くことができませんでした。
そこで、家臣であり長井斎藤実盛公の嫡孫である「長井斎藤景忠」に、その任を委ねました。
こうして、伊予における長井氏の歴史が始まりました。
伊予国に祀られた長井氏の氏神「白山神社」
伊予国にした景忠は、伊予府中(現在の愛媛県今治市)朝倉郷に居館を構え、さらに現在の朝倉ダムの東に位置する竜門山(龍門山)の山頂に龍門山城を築いて、黒谷盆地を掌握する兵站補給基地としました。
同時に、黒谷の秘境に長井氏の氏神・白山神社を祀り、さらに式内布都神社には祖父の井斎藤実盛公を合祀しました。
また、雲仙山満願寺には斎藤別当実盛公を供養するための供養塔を建立し、祖霊を厚く弔いました。
世田山合戦と長井氏の選択
南北朝時代(1336年〜1392年)、日本は京都に立つ北朝と、吉野に立て籠もった南朝に二分され、全国各地で壮絶な戦いが繰り広げられました。伊予国も例外ではなく、この動乱に巻き込まれていきます。
伊予国においては、古くからの有力豪族である河野氏が、当初南朝方に近い立場を取っていました。しかし、北朝方の勢力が次第に強まる中で、河野氏もまた、微妙な立場を迫られるようになります。
この時、四国で勢力を拡大していたのが、北朝方の有力武将、細川頼之(ほそかわ よりゆき)でした。
細川頼之は阿波・讃岐を掌握したのち、四国全体の統一を目指し、伊予にも触手を伸ばしてきます。
貞治元年(1362年)、頼之は讃岐で同族の南朝方、細川清氏との間に白峰合戦を戦い、これに勝利。
続いて、伊予における勢力拡大を図る中で、白峰合戦の際に援軍を出さなかった河野通盛(こうの みちもり)を咎め、これを討つべきだと幕府に訴えました。
貞治3年(1364年)、正式な討伐命令を得た細川頼之は大軍を率いて伊予国へ侵攻。
こうして、四国の覇権を賭けた戦い「世田山合戦(せたやまかっせん)」が始まりました。
しかし、圧倒的な兵力差と、戦術の巧妙さを武器に細川軍が優勢に立ち、世田山城はついに陥落。
病床にあった河野通盛は戦いの最中に没し、その子・通朝も討死するという悲劇に見舞われ、河野氏は伊予国から一時的に姿を消すことになります。
この戦いで、長井氏は河野氏ではなく細川氏に加勢していたため、後の時代に再興した河野氏によって伊予を終われ、近江国(現在の滋賀県)の近江源氏・佐々木氏に再び仕えはじめました。
小谷城落城、そして長井氏の故郷へ
長井氏が身を寄せていた近江国(現在の滋賀県)は、戦国時代には浅井長政(あざい ながまさ)の勢力下におかれていました。
もともと近江国では、佐々木氏が守護職を務めていましたが、室町時代以降、戦乱の中で守護の座を失い、様々な分家筋が各地で独立していきました。
中でも朽木氏は、足利将軍家との強い結びつきを保ち、将軍に直属する「奉公衆」として代々仕えていました。
しかし戦国時代に入ると、近江北部は浅井氏の台頭によって大きく勢力地図が塗り替えられ、朽木氏は浅井長政の従属下に置かれることとなりました。
浅井長政は、当初は織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を正室に迎えるなど、親密な関係を築いていました。
ところが、信長が長年敵対していた浅井氏の盟友・朝倉義景(あさくら よしかげ)を攻めたことで、浅井氏は態度を一変。
朝倉氏とともに織田信長に敵対する道を選んだのです。
こうして織田軍と浅井・朝倉連合軍との間に熾烈な戦いが始まりました。しかし、信長の圧倒的な軍事力を前に、浅井長政は次第に追い詰められていきました。
そして、元亀3年(1572年)から天正元年(1573年)にかけて、信長は浅井氏の本拠である小谷城(おだにじょう)を包囲。
壮絶な攻防戦の末、ついに小谷城は落城し、浅井長政は自刃。ここに浅井氏は滅亡しました。
これにより、近江国一帯は完全に織田家の支配下に置かれました。
この状況の中で、長井氏は再び伊予国へと戻ることを決め、かつての故郷「黒谷盆地(現在の今治市朝倉地区)」に移住することとなったのです。
江戸時代
こうして、国黒谷盆地へと帰郷した長井氏は、江戸時代に入ると、この地にしっかりと根を下ろしていきました。
長井氏は、地域の有力な土豪(地方豪族)として地位を確立し、一族はそれぞれ高大寺(こうだいじ)、古谷(ふるたに)、孫兵ヱ作(まごべえさく)、旦之上(だんのうえ)、吉岡(よしおか)、徳能(とくのう)といった地域に分かれて分家しました。
そして、各地で庄屋職などの要職に就き、地域社会の行政や農政を担いながら、領民たちを束ね、地域の安定と繁栄に貢献していったのです。
伊予へと移住した長井氏と白山信仰
そんな長井氏の歩みとともに、この地で静かに息づいてきたものがあります。
それが、故郷である北陸地方から遠く持ち運んできた「白山信仰」、そしてその象徴ともいえる白山大神社です。
白山信仰とは
白山信仰とは、日本の三霊山(富士山・立山・白山)の一つである白山を神体山とする信仰です。
白山を神として崇める背景には、日本人にとって身近な存在であった「水」への信仰が深く関わっています。
白山は日本海側に豊かな水をもたらす源であり、その雪解け水が川となって大地を潤し、農作物を育む恵みとなりました。
こうした自然の恩恵に対する感謝の念が「白山信仰」の基盤となり、やがて白山は水の神として信仰されるようになり、五穀豊穣や生活の安定を願うものとして、時代とともに日本各地に広がっていきました。
白山信仰の広がりと修験道
白山の霊力に惹かれた修験者たちは、この神聖な山を修行の場として選び、厳しい山岳修行を重ねながら、深い霊験を得ました。
そして彼らは、その力と教えを携えて全国を巡り、各地で白山信仰を説き、多くの白山神社を創建していきました。
こうして白山信仰は、北陸地方を中心に、東海、関西、中国、四国地方へと波紋のように広がり、やがて日本全国に深く根付いていったのです。
霊水への信仰と白山信仰の深化
また、白山を源とする霊水は、単なる自然の恵みとしてではなく、神聖な力を宿すものと考えられてきました。
この霊水は病を癒し、心身を清めると信じられ、白山信仰と修験道の結びつきをより強くする要因となりました。
水を通じて自然の力と直接つながるという感覚は、多くの人々の信仰心を深く根付かせるものとなったのです。
長井氏と白山大神社
伊予に根を下ろした長井氏もまた、故郷・北陸地方から受け継いだ白山信仰を篤く信仰し、この地にその精神を根付かせました。
そして、黒谷盆地の静かな地に白山神社を祀り、これを一族の守護神として大切に崇めたのです。
険しい参拝道と安全対策について
白山大神社へ向かう道は、満願寺、八幡大神社、石打峠からのルートがありますが、いずれも整備が行き届いておらず、藪が生い茂る厳しい山道です。
また、社殿周辺も木々や草に覆われ、目視で確認するのも難しく、迷いやすい状況となっています。
マムシに注意
山間部には毒蛇であるマムシも生息しているため、常に足元に注意を払い、長靴や厚手のズボンを着用するなど、万全な防護策を講じることが重要です。
イノシシの出没
さらに、この地域ではイノシシの出没も多く、不用意に近づくと非常に危険です。接触を避けるためにも、鈴やホイッスルなどで音を立てて自分の存在を知らせながら行動することを心がけましょう。
加えて、狩猟期間中(11月15日〜翌年2月15日)は、ハンターが山中で活動している可能性があります。
このため、絶対に参道から外れないことが大原則です。
しかし、実際には参道そのものがほとんど見えず、獣道のようになっているため、迷ってしまうリスクも非常に高くなっています。
安全な参拝のため
- できるだけ明るい色の服装を着用する
- 単独での行動は避け、複数人で行動する
- 可能であれば、土地勘のある人に同行してもらう
- 常に無理のない計画を立て、安全第一を心がける
白山大神社は、長きにわたって地域の人々の信仰を集めてきた大切な聖地です。
その自然と伝統を守るためにも、訪れる際は万全の準備と慎重な行動を心がけましょう