「須賀神社・朝倉上(すがじんじゃ)」は、白地地域の氏神として親しまれている神社で、「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を主祭神としています。
建速須佐之男命とは?
建速須佐之男命は、日本神話に登場する「須佐之男命(すさのおのみこと)」の別名であり、『日本書紀』では「素戔嗚尊」とも表記されます。
「建速(たけはや)」の名には、力強く速やかに行動するという意味が込められており、須佐之男命の勇猛果敢な性格をより強調した呼び名とされています。
誕生と三貴神
須佐之男命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)と並ぶ、日本神話における重要な存在、「三貴神(さんきしん)」の一柱です。
父神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、黄泉の国から戻った際に行った禊祓い(みそぎはらい)の中で、鼻をすすいだ際に生まれたと伝えられています。
天照大神が太陽、月読命が月を司るのに対し、須佐之男命は海原や暴風雨を司るとされ、自然の荒々しい側面を象徴する神格を持っています。
須佐之男命の神話
須佐之男命は、勇猛さと荒々しさを併せ持つ神として描かれています。
高天原では、姉である天照大神とたびたび衝突し、乱暴な振る舞いが原因で、最終的に高天原を追放されることとなりました。
地上に降り立った須佐之男命は、出雲の国、斐伊川(ひいかわ)のほとりで、八岐大蛇(やまたのおろち)に苦しめられていた櫛名田比売(くしなだひめ)を救うため、大蛇を退治します。
この戦いの際、大蛇の尾から現れたのが、後に「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれる霊剣でした。
この剣は、やがて「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と名を改められ、三種の神器のひとつとして、天皇家に伝えられることになります。
多面的な神格と信仰
須佐之男命は、単なる荒ぶる存在ではありません。
地上で国土を開拓し、水流を治め、田畑を整えたことから、英雄神、農業神、開拓神としての一面も持ちます。
このため、古代から現代に至るまで、暴風雨を鎮める神五穀豊穣をもたらす神疫病除け・厄除けの神として、全国各地で広く信仰されてきました。
とくに、出雲国の「須佐神社(島根県)」、京都の「八坂神社(祇園祭で有名)」などにおいて、地域の守護神として厚く祀られています。
「瀧宮」「牛頭天王」との関係
かつて須賀神社・朝倉上は「瀧宮(たきのみや)」や「牛頭天皇(ごずてんのう・牛頭天王)」と称されていました。
一見すると別々に見えるこの二つの名称ですが、実はどちらも須佐之男命の信仰と深く結びついています。
「瀧宮」
「瀧宮」という名は、もともと水源や滝に由来する清浄な場所を示し、古代から水神・農業神・厄除けの神として須佐之男命を祀る神社に多く用いられてきました。
例えば、香川県綾歌郡綾川町滝宮にある「滝宮神社(たきのみやじんじゃ)」も、かつては「牛頭天王の祠(ほこら)」と呼ばれ、須佐之男命を主祭神として信仰を集めていました。
須賀神社・朝倉上の入口にも小さな川と滝が流れており、その地形的特徴から「瀧宮」と名付けられたと考えられます。
祇園精舎の守護神「牛頭天王」
牛頭天王は、もともとインドの「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の守護神とされており、中国を経て日本に伝わる過程で神仏習合が進み、須佐之男命と同一視されるようになりました。
祇園精舎は、釈迦が説法を行った仏教寺院であり、その正式名称は「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」といいます。
祇園精舎は『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一説がよく知られています。
かつて、祇園精舎には、「無常堂(無常院)」と呼ばれる施設があり、ここは終末期を迎えた僧侶が最後のひとときを過ごす場所だったといわれています。
亡くなると、建物の四隅に配された鐘が鳴らされ、それが一人の命が消えたことを知らせる合図となりました。
この鐘の音は単なる響きではなく、「生あるものは必ず滅する」という仏教の根本的な教えを人々に思い起こさせるものでした。
こうした背景から、祇園精舎の鐘は、人生の儚さや世の無常を象徴するものとなり、日本では『平家物語』の冒頭の一節として広まりました
この「祇園精舎の鐘の声」は、単に鳴り響く音ではなく、死を知らせ、無常を説く鐘の音だったのです。
祇園精舎の守護神であった牛頭天王(ごずてんのう)は、この無常観とも深く関わっています。
疫病や災厄が猛威を振るう時代に、人々はその脅威を「無常」の一環として受け入れつつも、牛頭天王の加護によって厄災を免れようと祈りました。
その信仰は日本に伝わり、疫病を鎮める神としての役割が強調され、京都の八坂神社(旧称:祇園社)をはじめ全国の祇園信仰に発展していきました。
滝宮の地名と祇園信仰
「滝宮」「滝ノ宮」「滝之宮」といった地名は、徳島や香川をはじめ各地に点在しており、多くの場所で八坂神社(または祇園社、天王社)が祀られています。
かつて「滝宮」とも称された「須賀神社・朝倉」は、牛頭天王と同一視される須佐之男命を祀っており、こうした全国的な祇園信仰の影響を受けていたと考えられます。
また、須賀神社・朝倉上の本殿には「義音神社」という名称が刻まれ地域の人々から「義音さん(ぎおんさん)」として親しまれてきました。
この名前の由来は明確ではありませんが、その響きは「祇園(ぎおん)」と通じており、祇園信仰に由来していたと考えられます。
さらに、「義音」という言葉には、かつて釈迦が説法を行った祇園精舎の鐘が響かせたという「無常の音」を想起させる側面もあり、人の世の儚さと、そこに寄り添う祈りの心が、この社名に重ねられている可能性も考えられます。
須賀神社・朝倉上の創建と神話
須賀神社・朝倉上の創建年代は明らかではありませんが、社伝によれば、須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)から、天班駒(あまのふちこま)という神聖な神馬に乗って天降りした地と伝えられています。
このような須佐之男命の降臨伝承は、出雲地方を中心に日本各地に広く伝わっています。
特に、出雲国風土記や各地の神社縁起には、須佐之男命が地上に降り立ち、国土を巡り歩き、水を治め、地を拓き、社(やしろ)を建てたという伝承が数多く記録されています。
たとえば、島根県出雲市の須佐神社(すさじんじゃ)は、須佐之男命が最晩年を過ごし、自ら鎮まったとされる霊地として知られています。
また、熊野大社(出雲市)も、須佐之男命に由来する古社として、古くから篤い信仰を集めてきました。
このように、須佐之男命の「天降り」と「地に根ざした信仰」は、単なる神話ではなく、各地の暮らしや文化に深く結びつき、今日まで語り継がれています。
須賀神社・朝倉上もまた、こうした須佐之男命の霊跡のひとつとして、地域の人々の敬愛と祈りを受け継いできたと考えられます。
飛地境内社・客天神社
須賀神社・朝倉上には、飛地境内社(とびちけいだいしゃ)として「客天神社(きゃくてんじんじゃ)」が鎮座しています。
飛地境内社とは、本社と祭祀を共有しながらも、地理的には本社の境内を離れた場所に祀られている特別な神社を指します。
客天神社も、本社である須賀神社の管理に属しつつ、離れた地に独立した社殿を構えており、本社と深い信仰的なつながりを保っています。
客天神社では、「弓祈祷(ゆみきとう)」と呼ばれる独自の神事が現在も行われており、地域に伝わる貴重な文化財として須賀神社・朝倉上と共に大切に守られ続けています。