「毘沙門堂(びしゃもんどう)」は、水ノ上(朝倉上)に位置する庵です。現在は無住ですが、かつては地域の信仰の中心として栄え、多くの参拝者が訪れていました。
歴史が息づく毘沙門堂
毘沙門堂の歴史は古く、万治年間(1657年)には、すでに多くの墓が存在していました。中でも、越智鬼衛門道久の墓をはじめとする由緒ある墓石が残されており、地域の人々が長年にわたりこの地を大切に守ってきたことがうかがえます。また、尼僧の墓が多く見られることから、かつてこの地に女性の修行僧が集い、庵を拠点として活動していたと考えられます。
渡邉家が守り続けた「多宝寺毘沙門堂」
毘沙門堂は、正式名称を「多宝寺毘沙門堂」と言います。
これは、かつて竜門山城の家老職を務めた渡邉家(渡部家)の屋号(家号)「多宝寺」に由来します。
屋号(家号)とは、同じ姓を持つ家々を区別するために用いられた呼称で、特に武家、商家、農家などの旧家において、家の由緒や社会的立場を示す重要な意味を持っていました。
また、戦国時代から江戸時代にかけて、各地の有力な武家は、自らの守護仏を祀るために寺院や仏堂を建立することがありました。
これらの背景を踏まえると、この毘沙門堂は、水ノ上(伊予国越智郡朝倉上村水ノ上)に住んでいた渡邉家一族が、家の繁栄と一族の結束を願い建立したものと考えられます。
【本尊】毘沙門天
毘沙門堂の本尊は、堂の名前の通り毘沙門天像です。
毘沙門沙門天(びしゃもんてん)は、四天王の一柱であり、多聞天(たもんてん)とも呼ばれ、仏教において武神・守護神として信仰されてきました。
特に、戦国時代には武将たちの間で篤く信仰され、勝負運・戦勝の神として崇められました。戦国武将である上杉謙信が毘沙門天を深く信仰していたことは有名で、自らを「毘沙門天の化身」と称し、軍旗にも「毘」の一字を掲げていました。このことからも、毘沙門天は戦いの神であると同時に、武士の守護神としての側面が強い存在であることがわかります。
また、毘沙門天は財運をもたらす神ともされ、商人や庶民からも信仰を集めました。これは、毘沙門天がインドの財宝神であるクベーラ(Kubera)に由来するためで、日本では「七福神」の一柱としても数えられています。そのため、毘沙門堂においても、戦国時代には武家の信仰の対象として、また時代が進むにつれて商人や庶民の信仰の対象としても重要な役割を果たしてきたと考えられます。
毘沙門堂に安置される毘沙門天像は、多くの場合、甲冑を身にまとい、右手に宝塔、左手に鉾(あるいは三叉戟)を持つ姿で表現されます。これは、仏法を守護する力強さと、財運をもたらす徳を象徴するものです。地域によっては、独自の意匠が施された毘沙門天像が祀られることもありました。
盗難被害と復興
毘沙門天堂の本尊である毘沙門天像は、かつて像高約60センチの歴史ある小像で、制作年代は正確には不明ですが、比較的古いものでした。地域の人々に大切にされていましたが、2010年代に青銅の叩き金(呼び鐘)と共に盗まれてしまいました。
この事件は、西条市や今治市の無人のお堂を狙った組織的な犯行で、桜三里にあった骨董品を扱う業者を中心とする骨董業者ネットワークの数名による犯行でした。
犯人は逮捕されたものの、毘沙門天像や叩き金は行方不明になってしまいました。
長らく空になっていた厨子ですが、毘沙門堂を管理する光蔵寺の住職が、専門の仏師に依頼し、新たな毘沙門天像を制作していただきました。そして、光蔵寺本堂にてしばらく祀った後、同住職が開眼供養の作法を修し、正式に入仏させていただきました。また、盗まれた青銅の叩き金(呼び鐘)も同住職が新たに購入し、お堂に寄進されています。
現在の毘沙門天像は樟木製で、台座の裏には盗難事件の経緯が墨書きされ、後世に伝えられるようになっています。