「西宝院(さいほういん)」の起源は、かつて波方にあったとされる東照寺(とうしょうじ)、さらに波止浜の塩田の歴史と深い関係があります。
来島村上氏と東照寺
その昔、波方町養老には村上水軍の御三家の一つ「来島村上氏」の別館「養老館」があり、その近くには場所には、天台宗を宗派とする東照寺がありました。
東照寺の境内には、天台宗の流れをくむ修験道「本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)」の道場と、格式高い屋敷が建てられており、そこには西宝院という僧侶が住んでいました。
西宝院は東照寺の住職として修験の教えを広め、地域の信仰を支える存在でした。
また、この道場では来島村上氏の御祈願が行われ、武士たちにとって精神的な拠り所となっていたと伝えられています。
来島村上氏、伊予国から豊後へ
しかし、時代の激しい変化の中で、来島村上氏はこの地を去らなければいけなくなります。
関ヶ原の戦い(1600年)、来島村上氏は初めは西軍に属しましたが、情勢の変化を見極め、決戦直前に東軍へ内通しました。
戦後、一旦は本領安堵を受けたものの、最終的には所領を没収され、豊後国森藩に1万4,000石で移封されました。
新たな領地である森藩は、現在の大分県玖珠郡周辺に位置し、山間の地形が特徴的な内陸の土地でした。
この転封により、来島村上氏は、代々一族が築いてきた伊予国(現在の愛媛県)での歴史と、水軍として海を自由に駆け抜けた栄光の時代に終止符を打つこととなりました。
そして、来島村上氏は「久留島(くるしま)」と改姓し、内陸の陸上領主として新たな道を歩み始めました。
その後、日本は約300年にわたる平和な江戸時代へと移行していきました。
波止浜の塩田と西宝院の歴史
江戸時代に入った頃、波止浜は松山藩の所領として瀬戸内海に面した重要な港町として発展していきました。
松山藩は、関ヶ原の戦いの功績によって伊予国に封ぜられた加藤嘉明を初代藩主とし、その後、蒲生忠知を経て、寛永11年(1634年)以降は松平家が藩主となり、幕末まで統治を続けました。
松平家は徳川家と親しい家柄で、幕府から特に信頼されていた大名家です。
藩は領内の産業を振興し、財政を支えるためさまざまな政策を進めました。
そんな松山藩が注目したのが塩でした。
波止浜の港周辺には「筥潟(はこがた)湾」と呼ばれる広大な入り江が広がっており、この地域は遠浅の干潟が特徴的であり、その地形が塩作りに理想的な条件を備えていました。
塩は生活必需品であると同時に、藩の財政を支える重要な現金収入源となり、波止浜の港は塩の積み出し港として栄えていったのです。
波止浜塩田の開祖・長谷部九兵衛
この波止浜の塩田開発と港町の整備において、重要な役割を果たした人物のひとりが、後に波止浜塩田の開祖とされる「長谷部九兵衛(はせべ きゅうべえ)」です。
九兵衛は代々松山藩に仕える家に生まれ、塩の名産地として名高かった広島県竹原に足を運び、厳しい封建社会の中で密かに塩田技術を学び取りました。
当時、塩の製造法は藩の重要な機密であり、他藩の技術を盗むことは命がけの行為でした。
そこで、九兵衛は身分を隠して労働者として潜入し、過酷な労働に耐えつつ技術を学び、こっそりと絵図を記して故郷に持ち帰ったのです。
帰郷後、松山藩はその努力と熱意を認め、塩田開発の計画を正式に許可し、藩の支援を受けながら九兵衛は塩田建設に取り組みました。
「龍神社」塩田の成功と地域の繁栄を祈願
塩田開発が着実に進んでいく中で、塩田の成功と地域の繁栄を祈願するための神社が必要とされるようになりました。
そこで、海流や自然の調和を司る神として古くから信仰されてきた龍神信仰に基づき、「八大龍神宮」が波止浜の地に勧請されました。
天和3年(1683年)、社殿が完成し、厳かな儀式のもとで御神体が本殿に遷座されました。
この神社は後に「龍神社(波止方)」と改称され、塩田と波止浜の町の発展を見守る守護神として、また地域の象徴的存在として深い信仰を集めるようになりました。
「西宝院」塩田で働く人々を支える寺院
同じ天和3年、波止浜の塩田もついに完成を迎え、南北約270間(約491メートル)に及ぶ大堤防による入浜式塩田の運用が始まりました。
この工法は潮の満ち引きを利用し、自動的に海水を塩田内に引き入れる画期的な仕組みで、波止浜の塩田は当時最先端の製塩施設の一つとなりました。
波止浜は本格的な塩の生産拠点として歩みを始め、この塩田の成功は松山藩の経済を支える重要な基盤となりました。
波止浜の塩は瀬戸内海を通じて各地へと広がり、港町は塩の生産と流通の拠点として大きく発展していったのです。
その一方で、塩田で働く人々や町民の精神的な支えとなる寺院の存在が強く求められるようになりました。
元禄16年(1703年)、こうした流れの中で東照寺が解体され、その一部が塩田開発の祈祷に関わった縁(えん)から現在の地に移され、本山修験宗の僧・清京法印が住職を務めることになりました。
この際、かつて東照寺の住職を務めたことがある「西宝院」の名を継ぎ、新たに「西宝院」と名付けられました。
以後、西宝院は塩田と港町の人々の心の拠り所として長く信仰を集める寺院となっていったのです。
波止浜の形成と西宝院の役割
天明3年(1783年)、商業集落である波止町と塩田集落の浜分の二つの地域が合併し、「波止浜」という地名が生まれました。
そして、文化4年(1807年)以降には西宝院の諸堂が整備され、波止浜の塩田と港町を支える寺院としてその存在感を高めていきました。
文政元年(1818年)から天保5年(1834年)にかけて、波止浜はさらに大規模な塩田地帯へと発展し、塩田を基盤とす地域経済が確立しました。
これにより、瀬戸内屈指の塩の生産地として繁栄を極めていった波止浜は、自立できるほどの力をつけ、明治13年(1880年)には波方村から正式に分村し、「波止浜村」として独立。
明治22年(1889年)には町村制の施行により杣田村・高部村・来島村と統合され、さらに明治41年(1908年)には町制を敷き、「波止浜町」となりました。
その後、時代の流れとともに波止浜を支え続けた塩田産業は衰退し、明治35年(1902年)、代わって造船産業が波止浜の新たな基幹産業として発展しました。
波止浜の港は、塩の積み出し港としての役割から、船舶の建造や修理を担う造船港へとその姿を変えていったのです。
そして昭和30年(1955年)、波止浜町は今治市に編入合併され、現在の波止浜の形となったのです。
現代における西宝院
こうして、かつて塩田の町として栄えた波止浜の歴史とともに歩んできた西宝院は、塩田産業の終焉とともにその直接的な役割を終えることとなりました。
しかし、西宝院は今もなお、海と港町の暮らしに寄り添う寺院として、地域の人々から篤い信仰を集め続けています。