「明積寺 (みょうしゃくじ)」は真言宗醍醐派の寺院で、慶長年間頃(1596〜1615年)に第一世憲献上人によって開山されました。現在、明積寺は今治市北鳥生町に位置しています。地名の由来は南北朝時代の豪族、鳥生貞実が衣千山城に拠ってこの地を領していたことから発生したとされています。このため、明積寺は鳥生地方の祈祷寺として現在の場所に建立されました。
当時は神仏習合の時代で、明積寺と三島神社が同じ境内に祀られていました。昭和50年に三島神社が大修理された際に、棟札が発見され、そこには『明積寺別当寺、三島新宮大明神』と記されていました。これにより、三島神社が明積寺の別当神社として新田の地に建立されていたことが明らかになりました。
『飴買い幽霊』
次に、明積寺中興の祖とされる俊範上人の時代に、一世の名僧と謳われた学信和尚が享保7年(1722年)に誕生しました。学信和尚の出世には多くの奇々怪々なる伝説があり、その中の一つが『飴買い幽霊』の幽霊伝説です
物語は江戸時代中頃のある寒い日に始まります。その日、今治市のある家で葬式が行われました。参列者はわずか4~5人という寂しい葬式でした。しかし、その翌日から不思議な出来事が起こり始めました。
今治市旭町に住むあめ屋の惣兵衛さんの店に、白い着物を着た青ざめた女性がすうーっと音もなく入ってきました。彼女は一文銭を入れた茶碗を差し出し、飴を求めました。惣兵衛さんはおそるおそる飴を渡し、女性は静かに消えるように去っていきました。この出来事は六晩続きましたが、七日目の夜には一文銭を持たずに現れました。何か言いたそうな様子に惣兵衛さんは同情し、飴を多めに渡しました。彼女はしきみの葉を一枚置いて立ち去り、その後、惣兵衛さんは彼女の後を追いました。
女性は蒼社川を渡り、北鳥生町三丁目の明積寺に入り、そこでポッと消えました。じっと耳を澄ますと、新しい墓の下から赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。和尚さんを起こし、近くの人々と共に墓を掘り起こすと、生まれたばかりの男の赤ん坊が亡くなった母親のそばで泣いており、その赤ん坊は惣兵衛さんが作った飴を無心にしゃぶっていました。和尚さんが調べると、赤ん坊が生まれる直前に母親が亡くなっていたことがわかりました。棺おけに入れてあった六文銭はからっぽになっていました。
和尚さんは、この赤ん坊を天から授かった子供だと考え、乳母をつけて大事に育て上げました。この赤ん坊は後に名僧として、学問、書道、絵画に秀でた学信和尚として知られるようになりました(1722~1789)。
これが明積寺に伝わる『飴買い幽霊』の伝説です。
この物語は『飴買い幽霊と赤ん坊図』として今治城の天守閣にも展示されているので、今治城にも足をお運びください。
明積寺には「学信和尚生誕の地」の碑が建てられており、彼の偉業と伝説を今に伝えています。寺院の本堂内陣には、御本尊として千手観世音菩薩が安置され、左側には大日如来、右側には弘法大師が奉祀されています。
現在の本堂は昭和五十五年に再建されました。明積寺の歴史と伝説は非常に深く、この地を訪れることで日本の仏教文化と伝統を感じ取ることができます。皆さんもこの伝説を思い描きながら、明積寺の静かな雰囲気を楽しんでいただければと思います。