笠松山(標高328メートル)の山頂に、静かに佇む「笠松観音堂(かさまつかんのんどう」。このお堂は、山龍西福寺の本尊である千手十一面観音が祀られ、長い歴史の中で多くの人々の信仰を集めてきました。
笠松観音堂の創建に関わったとされるのが、南朝の総大将・新田義貞の四天王の一人であり、伊予における南朝勢力の中核を担った武将・篠塚重広(しのづか しげひろ・篠塚伊賀守広重)です。
重広は「世田山合戦」で笠松山城拠点に、北朝軍と激しい戦いを繰り広げました。
笠松観音堂の創建は南北朝時代にまでさかのぼりますが、笠松山の歴史とも密接に関わっているため、それ以前の時代から振り返っていきます。
笠松山
笠松山は、古くから信仰の場所として崇められてきました。山頂には巨大な岩があり、これはかつて神が宿るとされる「磐座(いわくら)」として崇拝されていたと考えられています。
磐座信仰(いわくらしんこう)とは、自然の岩や山そのものを神聖視し、神が降臨する場所として崇める信仰のことで、日本の古代神道において重要な役割を果たしてきました。特に、神道では「神が天下る岩」として、こうした磐座は聖地として守られてきました。
笠松山の山頂に残る巨石も、そのような古代信仰の名残であり、山そのものが神聖な場所として人々の崇拝を受けてきたと考えられます。
平安時代中期
笠松山は、古くから雨乞いの信仰の場所であったと考えられます。
平安時代中期(900年~1050年)には、伊予の氏族である河野氏の「河野為世」が二人の息子(宮原為永と新居季成)を伴い、笠松山に隠棲しました。
この際、笠松山の松を見た為世は、次のような歌を詠んだと伝えられています。
「私しに ふる雨そいぐ 笠松の 竜水木の あらん限りは」
この歌からも、笠松山が雨乞いの信仰の場であったと考えられます。
鎌倉時代
時代は進み、平安時代末期から鎌倉時代(1185年~1333年)へと移ります。
1185年(文治元年)、壇ノ浦の戦いで源氏方が平家を滅亡させた際、河野家の伊予河野通信(こうのみちのぶ)が水軍を率いて源義経と共に戦いました。
その功績により、源頼朝は鎌倉に新たな政権を樹立し、河野通信は伊予国の統治権を正式に認められました。
また、頼朝の妻「北条政子」の実の妹を妻に迎えるなど、源氏と河野氏は共に戦った戦友だけではなく、親戚関係としても固く結びつくことになりました。
しかし、鎌倉幕府の安定は長くは続きませんでした。なんと頼朝とその弟・義経の間に深刻な対立が生じたのです。
義経の鎌倉入りを禁じられただけではなく、追討命令まで出されました。
各地を転々としながら逃亡生活をしていた義経でしたが、最終的に平泉の地で自害しました。
義経が失脚した頃、義経の同調者や支持者が厳しく取り締まられました。この中で、深い絆を持つ河野通信にも疑惑の目が向けられ、厳しい統制を受けるようになりました。
源頼朝の死後、源氏の家督は頼家、続いて実朝へと引き継がれましたが、鎌倉幕府を支える中心勢力である御家人間には、勢力争いと対立が次第に激化しました。
そして頼家は頼朝の義兄弟「北条時政(ほうじょう ときまさ)」によって失脚させられ、実朝も暗殺されてしまいました。
こうして、わずか三代で源氏の直系が断絶したことにより、鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることとなりました。
しかし、頼朝以来の古参の御家人たちは、北条氏が執権として実権を掌握し、幕府運営を独占していく姿勢に不満を抱き始めました。
一方で、朝廷側も北条氏が幕府の頂点に立ったことを快く思っておらず、次第に両者の間には緊張が高まっていきました。
このような背景を元にして起きた出来事が、1221年(承久3年)の「承久の乱」です。
「承久の乱」朝廷 VS 武家
承久の乱は、日本史において初めて朝廷と武家政権が直接衝突した戦いであり、武士が政治の主導権を握るきっかけとなる重要な出来事でした。
1221年(承久3年)、朝廷の威信回復と武家政権に対抗する意志を固めた「後鳥羽上皇(ごとばじょうこう・後鳥羽上皇」は、上皇は、全国の武士や寺社勢力に呼びかけ、幕府に対抗する軍勢を組織して挙兵しました。
しかし、幕府は東国の御家人を動員し、北条義時の指揮のもとで迅速に対応しました。幕府軍は圧倒的な戦力で上皇方の軍勢を撃破し、わずか1か月ほどで京都を制圧しました。
この戦いの結果、後鳥羽上皇は隠岐へ流され、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は自ら配流を受けて土佐へと移されました。
さらに、幕府が京都に「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置し、朝廷の動向を監視する体制を整えたことで、朝廷は幕府の許可なしに自由に国政を行うことができなくなりました。
二つに別れた河野氏
ちなみに、この戦で河野通信は、幕府側(北条氏)ではなく朝廷(後鳥羽上皇)側で参戦しました。これは義経との関係で幕府から不信を持たれたことに対する不満、さらに北条氏が強引に御家人を抑圧し始めたことへの反発が理由だったと考えられます。
また、通信の子である河野通政、通俊、孫の通秀も既に京都で上皇の側近として仕える西面武士となっていたため、通信は家族とともに上皇方に付く選択をしたのです。
一方で、通信のもう一人の子、通久は幕府側に残りました。これは、戦乱の世において河野氏一族が滅亡のリスクを避けるために選んだ生存戦略でした。
鎌倉幕府の滅亡
承久の乱がすみやかに鎮圧されたことで、幕府の支配体制が確立されたかのように見えました。しかし、その後、御家人たちの不満はますます高まっていきました。特に、鎌倉幕府の財政が圧迫される中、御家人の経済的困窮が深刻な問題となっていました。
1266年(文永3年)、モンゴル帝国(元)が日本に対して服属を求める使者を送ってきましたが、幕府はこれを拒否しました。
その後、1274年(文永の役)、1281年(弘安の役)と二度にわたって元軍が襲来し、いわゆる元寇(蒙古襲来)が勃発しました。この戦いでは、全国の武士が動員され、九州を中心に防衛戦が展開されましたが、日本軍は奇跡的に元軍を撃退することに成功しました。
しかし、元寇は通常の戦争とは異なり、敵の領地を奪うのではなく、本土防衛を目的とした戦いでした。そのため、戦に勝利しても新たな領地を獲得することができず、戦功を挙げた武士たちに対して十分な恩賞を与えることができませんでした。
戦には、武具の準備、兵糧の確保、馬の調達、家臣への報酬など、多大なコストがかかりました。それにもかかわらず、命懸けで戦った武士たちはそれに見合う見返りが得られたかったのです。
幕府に対する不満が全国で急速に高まっていく中で、内部でも北条氏い抑圧され御家人たちの不満が高まっていきました。
こうした状況の中、鎌倉幕府を打倒しようとする動きが全国に広がりました。
そして、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の討幕運動に呼応した足利高氏(後の足利尊氏)・新田義貞らが挙兵し、幕府に対して戦を仕掛けました。
この戦いでは、足利尊氏(あしかがたかうじ ・足利高氏)が京都の六波羅探題を制圧し、新田義貞(にったよしさだ・源義貞)が鎌倉を攻め落としました。
北条高時以下一族は東勝寺で自害し、約150年間続いた武家政権、鎌倉幕府が滅亡しました。これにより、再び朝廷に権力が戻り、後醍醐天皇による親政が始まりました。
南北朝時代の到来
後醍醐天皇は、長らく武士が握っていた政権を再び天皇のもとに取り戻し、公家による統治を復活させることを目指しました。そして、建武元年(1334年)、上皇・法皇の院政や摂政・関白を廃止し、天皇に政治権力を集中させる「建武の新政」を開始しました。
この新政では、鎌倉幕府の制度を廃止し、恩賞の決定権を持つ記録所の復活、訴訟を扱う雑訴決断所の設置などを行い、中央集権的な統治を進めました。また、全国の土地を再分配する方針を打ち出し、公家と武士の両方を統治しようとしました。
しかし、この新しい体制は、武士たちの期待とは異なるものでした。
特に鎌倉幕府の討幕に尽力した武士たちは十分な恩賞を受け取れず、不満を募らせていきました。また、政治の中心が公家に偏り、武士の立場が軽視されたことで、武士たちの間で朝廷への不信感が広がりました。
こうした中で、討幕の最大の功労者であった足利尊氏が後醍醐天皇の政治に反発し、武士たちの支持を集めながら独自の勢力を築いていきました。
そして建武3年(1336年)に、尊氏は後醍醐天皇を京都から追放して新たに光明天皇を擁立すると、暦応元年(1338年)に尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられました。
これによって京都に新たな武家政権「室町幕府」が誕生しました。
一方、後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、皇統の正当性を主張しました。こうして、日本は南朝(吉野の後醍醐天皇)と北朝(京都の光明天皇)に分裂し、日本全土を巻き込んだ騒乱の時代「南北朝時代(1336年〜1392年)」へと突入しました。
新田義貞の戦死と笠松山城
南北が別れる中で、南朝(後醍醐天皇)側についた新田義貞は、総大将として南朝勢力を率いましたが、「藤島の戦い(1338年)」で戦死してしまいました。
以降、南朝勢力を率いることになったのが実弟「脇屋義助(わきや よしすけ)」でした。義助は、新田義貞の副将として戦ってきた忠臣でもあり、兄の死後も幕府軍に対して徹底抗戦しました。
1341年には、西国の南朝方をまとめるために四国に渡り、一族の大館氏明(おおだち うじあき)や篠塚重広(しのづか しげひろ)とともに伊予(愛媛県今治市)へ向かいました。
しかし、翌1342年、脇屋義助は伊予の地で病に倒れ、国分寺(桜井地区)で急死しました。南朝勢力は大将を立て続けに失い、各地で苦しい戦いを強いられることになりました。
南北朝の争いはその後も長く続き、日本各地で激しい戦闘が繰り広げられました。南朝は劣勢に立たされながらも、各地の武士たちが局地戦を展開し、北朝方の足利幕府に抵抗を続けました。
しかし、時間が経つにつれて北朝方の支配が盤石なものとなり、南朝は徐々に追い詰められていきました。
そして1392年に、室町幕府の3代将軍・足利義満によって両朝の統一が実現され、南北朝時代は終わりを告げました。
これにより、長年続いた皇統の対立は一応の決着を見せ、日本は再び一つの朝廷のもとで統治されることとなりました。
世田山合戦と篠塚重広
この騒乱の中で「笠松観音堂」が創建されることになります。
1342年、南朝の重臣・脇屋義助が伊予の地で病没したという知らせが、北朝の武将・細川頼春に届きました。
これを最大のチャンスと捉えた頼春は、阿波(現:徳島)・讃岐(現:香川)から7000の兵を引き連れ、伊予へ侵攻を始めました。
はじめに川之江城を攻め落とすと、千町ヶ原の戦いで南朝軍を一掃し、そのまま椎ノ木峠を超えてこの地まで進軍し、この地で激突しました。
これが「世田山合戦(1342年)」です。
この戦で両軍にとっての鍵だったのが世田山城でした。この城は、「世田山城が落ちると伊予の国は亡ぶ」とまでいわれるほど、軍事的に極めて重要な場所で、脇屋義助の甥「大館氏明」が城主をつとめていました。
当然のごとく北朝軍は世田山城を最重要目標に掲げ、その猛攻によって世田山城は落城し大館氏明は自害することになりました。さらに、周囲の霊仙山城(れいせんざんじょう)、行司原城(ぎょうじばらじょう)も次々と落城しました。
「ここで座して討ち死にするのは無念」
篠塚重広は、世田山城が陥落するのを見てそう覚悟を決めると、兜の内側に秘めていた一寸八分(約5.5cm)の黄金観音像をそっと取り出し、笠松山の山頂に安置しました。
その後、城門を自ら開いて単独で敵の大軍の中めがけ突撃しました。この時、篠塚重広は次のように叫んだと伝えられています。
「外にては、定めて名をも聞きつらん!今近づいて、我を知れ!」
「畠山庄司次郎重忠に六代の孫!武蔵国に育って!!新田殿に一人当千と頼まれたりし篠塚伊賀守ここにあり!!!」
「討って勲功に預かれ!!!」
当時、篠塚重広の名を知らない者は両軍の中に一人としておらず、その強さはもはや日本全土にとどろいていました。そんな超武辺者が大声で名乗りをあげ、たった一騎で突撃してくるのは恐怖以外の何者でもなかったのでしょう。
敵兵はその迫力に圧倒され、戦意を喪失して道を開けてしまいました。篠塚重広は戦場で自分のためにつくられたような一本道を、一人で悠々と通り抜けて戦場を去っていきました。
世田山合戦北朝側の勝利に終わりしばらく経った後、山頂に登った村人たちが黄金の観音像を発見しました。そし深い敬意を抱き、この地に小さな社を建てて観音像を祀りました。
この社が、現在では「笠松観音堂」 として知られるようになりました。
その後の篠塚重広と笠松城
その後の篠塚重広は、伊予を離れて因島(現在の広島県尾道市)へと落ち延びました。しかし、その戦意は一向に衰えることなく、岡山県児島半島で再び挙兵し、足利軍への反撃を試みました。
しかしここでも敗れてしまいました。
それでも戦い続けた篠塚重広は、今度は丹後国(現:京都府北部)へ渡って再び挙兵しました。そして、ついに命を落としました。
また、笠松山城は岡氏の支配下に入り、室町時代の変動を乗り越えましたが、永禄11年(1568年)3月、土佐勢の侵攻を受けて落城。城主以下は帰農し、城としての役割を終えました。
正善寺との深い関係
現在の笠松観音堂は、「笠松山本堂再建 大正十年四月吉日」と刻まれた建立碑からもわかるように、1921年4月に再建されたものです。それ以前にも、時代とともに幾度も改築が行われ、地域の人々によって大切に守られながら、今日に至っています。
笠松観音堂には、かつて黄金の観音像が安置されていましたが、現在は管理を担う正善寺(朝倉地区)に保管されています。正善寺が笠松観音堂を維持していることは、境内にある建立碑の裏面に「篠塚本次」など7名の名前とともに、「正善寺」の名が刻まれていることからもわかります。
また、参拝者が記帳できる訪問者用のノートも同寺によって置かれており、現在も笠松観音堂を訪れる人々の記録が残されています。
話は少し変わりますが、正善寺はもともと笠松山にあった寺院で、南北朝時代の戦いの一つである世田山合戦とも深い関係があります。
しかし、その経緯については、正善寺の記事で詳しく触れていますので、ぜひそちらもご覧ください。