延喜(えんぎ)の地に鎮座する「延喜天満宮(えんぎてんまんぐう)」は、古くから地域の人々の心の拠り所として親しまれてきた神社です。
四季折々の風景のなかで、地域の人々とともに歩んできたこの神社は、かつては延喜村の鎮守として篤く信仰され、明治期の近代社格制度においては「村社」に列せられました。
「村社」とは、明治政府によって全国の神社に序列を与えた制度のなかで、地域に根ざした由緒ある神社として認められた存在です。
延喜天満宮もまた、そうした「村の氏神さま」として、日々の営みや年中行事を見守り続けてきました。
この制度は戦後に廃止されましたが、その精神は今なお息づいており、延喜地域の人々と共に、今も暮らしの中で寄り添い続けています。
伊予を訪れた学問の神様「菅原道真」
「延喜天満宮」は、他の天満宮(天満神社)と同じく、学問の神として名高い「菅原道真(すがわらのみちざね)公」を御祭神としています。
菅原道真公(845〜903年)は、平安時代を代表する学者であり、詩人、政治家としても卓越した人物でした。
貴族としてはさほど高い家柄の出身ではありませんでしたが、並外れた学才と教養によって朝廷からの注目を集め、「学問の神様」として後世にまで崇敬されています。
学問と文化を導いた右大臣
道真公は幼少期から優れた記憶力を発揮し、漢詩や中国の古典に親しみました。
わずか11歳で詩を詠んでその文才が注目され、20代には当時の最難関試験である「文章得業生試」に合格し、その知識と才能が世に知られるようになりました。
宇多天皇が道真公の才能を高く評価し、道真公を学問と文化の発展に寄与させるとともに、側近として重用したことが大きな転機となりました。
道真公はその博識と誠実さによって宮廷での信頼を深め、最終的には右大臣に昇進しました。この昇進は当時の社会では非常に稀なことであり、学才と人格がいかに尊ばれたかを物語っています。
詩人としても多くの優れた作品を残し、「菅家文草」などの著作を通じて漢詩の名作が伝わっています。
道真公の詩は自然への賛美や人間の感情を見事に表現しており、後世の人々に深い感銘を与え、日本文学の傑作とされています。
菅原道真公が讃岐に赴任
仁和2年(西暦886年)、中央(京・京都)にて学者・政治家として名声を博していた菅原道真公は、讃岐国(現・香川県)の国司(長官)「讃岐守」に任命され、同国の国府へと赴任しました。
以後、延喜2年(西暦890年)までの4年間、讃岐国の政治を担い、租税制度の整備や地方行政の刷新に尽力しました。
公正で誠実な統治を行い、民衆にも信頼される国司として知られるようになったとされます。
また、学識豊かな人物として教育や文化の振興にも努めたと伝えられています。
「伊予国を視察」この地で奉幣の儀
その在任中、仁和4年(西暦888年)の春。
讃岐守として政務にあたっていた菅原道真公は、地方行政の状況を把握するため、隣国・伊予国(現・愛媛県)を巡視(視察)しました。
これは、当時の国司に課された重要な職務のひとつであり、隣接する国の治安や税務の状況、寺社のあり方を確認し、朝廷に報告する責任がありました。
この巡視の途中、道真公は伊予国府(現:今治市)のこの地に立ち寄り、駕籠を止めて下車されたと伝えられています。
そして、当地に鎮座していた天王社(てんのうしゃ)や吉備津社(きびつじんじゃ)などに対して幣帛(へいはく)を奉る儀礼を執り行い、五穀豊穣や国土安泰を祈願されたといいます。
幣帛の儀
幣帛とは、神々に捧げる供物の総称であり、古来より日本の神道祭祀において重要な役割を果たしてきました。
幣(ぬさ)は布帛(ふはく)、すなわち白布や絹を意味し、帛はこれに類する織物や副次的な供物を含みます。また、米・酒・塩・鏡・玉などの品々も、神聖な贈り物として用いられました。
これらは、神々の御霊(みたま)を慰め、鎮め、感謝や祈願の意を表すために奉納されるものであり、特に律令制の時代には、国家的な祭祀制度のもとで国司や中央官人による奉幣が制度化されていました。
古代律令制度においては、地方を治める国司に対し、配下の神社・仏閣の状況を巡視・監督し、必要に応じて幣帛を奉ることが義務づけられていました。
これは単なる儀礼にとどまらず、政治と宗教が深く結びついていた当時の「祭政一致」的な統治の一環だったのです。
道真公もまた、こうした職責を果たすべく伊予国府の神社に幣帛を奉り、地域の平安と民の安寧を願われたと考えられます。
道真公を襲った不遇の運命
讃岐での任を終え、京へ戻った後も、菅原道真公は朝廷において高く評価され、学問の才のみならず政治手腕にも優れた人物として重用されました。
宇多天皇・醍醐天皇の信任を受け、右大臣にまで昇進するなど、政界の中枢で重要な役職を歴任しました。
しかしその栄光の陰で、道真公には不遇な運命が待ち受けていました。
昌泰4年(901年)、藤原時平の陰謀により無実の罪を着せられ、九州の太宰府に左遷されることとなってしまったのです。
この左遷は、道真公にとって事実上の流刑と同じであり、都から隔離され、過酷な生活を余儀なくされました。
太宰府での過酷な生活
太宰府への道中は、すべての費用が自費で賄われ、到着しても俸給や従者は与えられず、政務を行うことも禁じられていました。
用意された住まいは雨漏りのする粗末な小屋で、衣食住の心配がつきまとう厳しい暮らしが続きました。
それでも、道真公は「いつか再び都に戻りたい」という強い願いを抱きながら、孤独と苦難の生活に耐え続けました。
しかし、次第に身体は衰え、心身の疲労が積み重なり、ついに延喜3年(903年)2月25日、道真公は太宰府で病に倒れ、無念の中でその生涯を閉じました。
道真公の死と人々の祈り
道真公の無念の死は、朝廷のみならず全国の人々に深い衝撃を与えました。
特に、かつての教え子や官人たち、そして道真公のを敬愛していた民衆のあいだでは、「この死は不当であり、道真公は冤罪であった」という思いが強く広がっていきます。
このような世論の動きは、やがて道真公の霊を慰めるための信仰へと発展していきました。
まず延喜3年(903年)、道真公の没後まもなく、太宰府の墓所の上に小さな社が建てられ、霊を慰める祀りが始まりました。
さらに延喜5年(905年)には、道真公の門弟であり、忠実な学僧であった味酒安行(うまさけのやすゆき)が、その墓所の上に廟(みたまや)を建立しました。
この廟はのちに「安楽寺」と称され、道真公を祀る寺院としての歴史を刻み始めます。
そして、この出来事は全国に広がる天神信仰のはじまりでもありました。
菅原道真公の怨霊伝説と都の災厄
この頃、平安京では不吉な出来事が相次ぎ、これらが道真公の怨霊の祟りではないかと恐れられるようになりました。
まず、道真公の弟子でありながら失脚に加担した藤原菅根が、延喜9年(908年)に雷に打たれて急死。
続いて、政敵であった藤原時平も翌年、39歳の若さで病没します。
さらに延喜13年(913年)には、道真公の後任として右大臣に就いていた源光が、狩猟中に落馬によって亡くなりました。
これらの突然の死に加え、都では洪水、長雨、疫病などの天災が次々と発生。人々はこれらの災厄を、道真公の怨霊による「祟り」と恐れ始めたのです。
太宰府天満宮の創建と鎮魂の始まり
このような状況を重く見た醍醐天皇は、延喜19年(919年)、道真公の霊を鎮めるため、太宰府の安楽寺境内に社殿を建立するよう勅命を下しました。
これが、後の太宰府天満宮の前身となります。
太宰府天満宮は、道真公の霊を慰め、都の安寧を取り戻すための国家的な鎮魂の場として整備されていきました。
しかし、それでも災厄は止まることなく続いていきます。
さらなる災厄と天皇の死
延喜23年(923年)、醍醐天皇の皇子である保明親王が病没しました。
保明親王は、道真公を失脚させた藤原時平の甥にあたる人物であり、その死はただの偶然とは思えないとする声がすでに広がっていました。
さらにその2年後、延長3年(925年)には、保明親王の子であり、皇太孫に任じられていた慶頼王までもが病死します。
これにより、皇統に連なる若き皇族の命が相次いで絶たれたことが、都の人々に不安と不吉の影を落としました。
そして極めつけとなったのが、延長8年(930年)の出来事です。
この年の7月、平安京・清涼殿に落雷が直撃し、朝議の最中であった大納言・藤原清貫をはじめ、かつて道真公の左遷に関与した高官たちに死傷者が続出しました。
雷は天神の怒りの象徴とされており、やがてこの事件が「雷神となった道真公の怨霊の怒り」と信じられるに至ります。
都は騒然とし、恐怖と動揺が広がる中、醍醐天皇もこの事件を深く案じ、心を病んで病床に伏すようになります。
やがて天皇は、皇太子寛明親王(のちの朱雀天皇)に譲位。
しかしそのわずか1週間後の10月23日、亡くなりました。
雷の一撃からわずか数か月、天皇の死という国家の根幹を揺るがす出来事が起こったのです。
菅原道真の名誉回復と怨霊鎮魂
「これはまさしく、無実の罪で死した菅原道真公の祟りである」
醍醐天皇の死は、朝廷にとって極めて深刻な出来事でした。
皇族の崩御が続き、災厄や不吉な出来事が相次ぐ中で、ついには天皇さえも亡くなったことで、「道真公の怨霊を鎮めなければ、さらなる災厄が朝廷や都に降りかかるのではないか」という危機感を持つようになったのです。
そこで朝廷は、道真公の怨霊を鎮め、都の平安を取り戻すために、道真公の名誉を回復するための措置に踏み切ります。
まず、道真公にかけられたすべての罪を赦免し、生前の職位であった右大臣の地位を回復させました。
さらに正二位の位を追贈し、道真公が再び都の中枢において重要な存在であると正式に認められました。
また、道真公の子どもたちは京に呼び戻され、住居と役職を与えられ、家系が再び平安京で栄えるよう配慮されました。
こうして、道真公の一族は平安京においてその存在が認められ、社会的な地位を取り戻すことになりました。
「北野天満宮」の誕生
それでもなお都では災厄が続き、異変が収まることはありませんでした。
朝廷は、さらなる対策として道真公を神格化し、正式に都の守護神として祀ることを決意します。
天暦元年(947年)、御神託に従い、道真公の霊を鎮めるために平安京の北西、鬼門にあたる北野の地に小祠を建てました。
ここに「雷天神(からいてんじん)」として道真公を祀り、怨霊が都を守護する神に変わることを願い、都の平穏と安寧が戻ることを祈りました。
火雷天神は火や雷の強力な力を象徴する神として、都を守護する存在とされました。
こうして怨霊として恐れられていた道真公の霊は逆に都を守る神格として敬われ、祀られることで次第に災厄も収まり、都に安定がもたらされていきました。
この小祠は後に「北野天満宮」として大きな神社へと発展し、道真公を祀る天満宮の総本社とされるようになりました。
さらに北野天満宮は、九州の太宰府天満宮とともに全国にある天満宮・天神社の総本社とされ、道真公への信仰の中心的存在となっていきました。
「天満大自在天神」怨霊から神様へ
こうして、神格化された道真公は、「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号を授けられました。
「天満」とは
「天満」とは、「天空に満ちる」という意味を持ち、菅原道真公の霊力が空の果てまで及ぶほど強大であることを象徴しています。
これは、雷神として畏れられていた道真公の怨霊を、逆に都を守護する天の加護の神として再定義し、天に満ちる力強い存在として祀り上げたものです。
この名は、やがて「天満宮」「天満神社」などの社名の由来となり、全国に広がる天神信仰の礎となりました。
今日、私たちが親しみを込めて「天神さま」と呼ぶのも、この「天満大自在天神」の略称にあたります。
「大自在天」
「大自在天(だいじざいてん)」とは、仏教における最高位の天部の神であり、全宇宙(=三千大千世界)を自在に支配する神とされています。
元来は古代インドにおけるシヴァ神(マハーデーヴァ)の仏教的受容によって成立した神格で、ヒンドゥー教では破壊と再生を司る神、仏教においては色界の最上位に住する絶対的な存在として位置づけられました。
この「大自在」とは、“何ものにも縛られず、あらゆることを思いのままに成す力”を意味し、仏教における他の諸天(帝釈天や梵天など)をも凌駕する存在とされています。
そしてこの「大自在天」の名を、日本の朝廷が菅原道真公に与えたことは、神仏習合の思想を体現するものでもありました。
当時の日本では、神と仏の区別は明確でなく、神道の神も仏教の諸尊として読み替えられる(本地垂迹)思想が一般的でした。
怨霊信仰と仏教的加持祈祷が融合した環境の中で、道真公の怒りを静めるには、単なる神格化では足りず、仏教的にも最高位の神に昇格させる必要があったのです。
菅原道真公=学問の神
こうして神様として祀られた道真公は、その高い学識と誠実な人柄、そして清廉な生涯から、やがて「学問の神様」としても信仰されるようになります。
江戸時代に入ると、全国各地に寺子屋や藩校が整備され、学問は武士階級のみならず町人や農民の子どもたちにとっても身近なものとなっていきました。
このような教育の普及とともに、「菅原道真公=学問の神様」という信仰は庶民のあいだにも急速に広がっていったのです。
当時の人々は、「努力すれば出世できる」「学問によって人生を切り拓ける」という思いを抱き、まさに学問のシンボルである道真公に祈りと希望を託すようになったのです。
やがて、天満宮や天神社では「筆始め」「学業祈願」「進学祈願」などの祭事が行われるようになり、受験や就学を控えた子どもたちを連れて参拝する風習が各地で定着していきました。
延喜に道真公の分霊が招かれる
こうした道真公の霊を鎮めるための取り組みは、都だけにとどまらず、朝廷は同時に諸国にも道真公の御霊を祀るよう命じました。
この命により、各地の神社や寺院で道真公が祀られるようになり、都における北野天満宮と同様に、天神信仰は全国へと広がっていきました。
中でも、道真公とのご縁が深い延喜の地では、北野天満宮の創建よりも早い天慶5年(942年)9月25日に、この地を治めていた・河野好方(こうの よしかた)によって、筑前国太宰府より菅原道真公の御分霊を迎えられ、天満宮(現在の延喜天満宮)が創建されました。
配神「白太夫」
この時、菅原道真公と深い関わりをもつ白太夫(しらたゆう・しらだゆう)も、配神としてあわせて勧請されたと伝えられています。
白太夫とは、平安時代中期に伊勢神宮・外宮(豊受大神宮)に仕えていた神職で、渡会春彦(わたらいのはるひこ)、度会春彦、松木春彦(まつきのはるひこ)など、複数の名で伝えられています。
若くして白髪であったことから「白太夫」と称され、その名で広く知られるようになりました。
そんな白太夫と菅原道真公との縁は、道真公の誕にまでさかのぼります。
道真公の父・菅原是善(これよし)は、長男・次男を相次いで失い、家の継続を深く案じていました。
そこで是善は、家臣・島田忠臣を通じて、伊勢神宮外宮に仕えていた白太夫に安産祈願を依頼します。
その祈りが通じたのか、是善はついに待望の男子(菅原道真公)を授かることができました。
この加護に深きう感謝した是善は、白太夫を京に迎え入れ、道真公の養育係・師役「傅役(もりやく)」として仕えさせました。
この時より白太夫は、単なる神職の域を越え、菅原家の家臣的立場となり、道真公に対しても師として、また側近として深く関わるようになります。
その後、幼少の道真公に学問を授け、その人格形成にも関与した白太夫は、生涯にわたって道真公に忠義を尽くし続けます。
それは、道真公が太宰府へ左遷されることになり、多くの関係者が遠慮する中でも揺らぐことはありませんでした。
この時、白太夫は高齢にもかかわらずただ一人付き従い、太宰府でも道真公を支え続けました。
延喜3年(903年)、道真公が太宰府で亡くなると、白太夫はその遺品である御剣と御鏡を、道真公の長男・菅原高視(すがわら の たかみ)のもとへ届けるため、旅に出ました。
菅原高視は、父である道真公が太宰府へと左遷された影響を受け、自身も都から土佐国(現在の高知県)へと左遷されていました。
しかし、老齢の白太夫にとって、遠く土佐への旅はあまりにも過酷なものでした。
延喜5年(905年)1月9日、道中で体調を崩した白太夫は、信頼する人物に遺品を託したのち、79歳で静かにその生涯を閉じました。
その後、高視は託された御剣と御鏡を、父・道真公の魂を宿す御霊代(みたましろ)として丁重に祀りました。
このことが、白太夫が神格化されるきっかけとなったといわれています。
以後、白太夫は道真公の忠臣として各地の天満宮に配神として祀られ、誠忠の象徴として崇敬を集めてきました。
「河野好方」
河野好方は、河野氏の祖先とされる古代から続く越智氏(おちうじ)の一族で、越智好方(おち よしたか)とも称されています。
越智氏は、特に大三島を拠点として、瀬戸内海の海上交通を掌握し、古代から中世にかけて伊予地域の統治と海上警備の要を担ってきました。
その中で河野好方は、伊予押領使(いよのおしりょうし)という地方武官の立場で地域の治安維持にあたり、後の「河野水軍」の前身となる海上勢力を率いて活躍しました。
そんな河野好方が創建したのが延喜天満宮です。
この天満宮が創建されたのは、天慶5年(942年)。
これは、愛媛県宇和島市沖の「日振島(ひぶりじま)」を拠点に瀬戸内海一帯を揺るがせた藤原純友の乱が鎮圧された翌年にあたります。
藤原純友は、もとは中央に仕える官人でしたが、官位の昇進もままならず、不遇の末に失意のうちに伊予へと赴任。
やがて在地の不満分子や元官人らと結びつき、瀬戸内の海賊勢力を束ねて朝廷に戦いを挑みました。
この反乱に対して、河野好方(越智好方)は伊予押領使として討伐軍の一員となり、配下の村上氏らと連携して純友に立ち向かいました。
最終的に、純友は九州・大宰府を焼き討ちした後、天慶4年(941年)に朝廷軍に敗北し、伊予の地へと逃れましたが追撃を受けて討たれたました。
もっとも、その最期については詳細が明らかでなく、
「捕らえられて処刑された」とする記録や、「伊予の山中で自害した」と伝える地域伝承も存在し、はっきりとした詳細はわかっていません。
しかし、こうした悲劇的な最期や、中央から見捨てられた地方官人としての歩みは、無実の罪により都を追われ、失意のうちに亡くなった菅原道真公の生涯と重なります。
さらに、一説によれば、純友は伊予国・越智郡高橋郷(現・今治市)の出身であり、越智氏の分流である「高橋氏」の出自、すなわち高橋純友であったとも伝えられています。
仮にこの説が事実であるとすれば、延喜天満宮の創建には、都で不遇のまま配流され、後に神格化された菅原道真公のように、非業の最期を遂げた藤原純友の魂をも慰めようとする、深い鎮魂の想いが込められていたとも考えられるのです。
延喜の地に静かに鎮座するこの社には、ただ戦勝や安寧を願う祈りだけではなく、不遇の人々への鎮魂と共感の心が今もなお息づいているのかもしれません
義民・八木忠左衛門の記憶
境内には、吉備津神社、須賀社、御鉾社などのほかにも、義民・八木忠左衛門を祀る三島神社が鎮座しています。
村人の信頼された一人の庄屋
江戸時代中期の貞享年間(1684〜1687年)、延喜村(現在の愛媛県今治市)に、村人たちから厚く信頼されていた、ひとりの立派な庄屋がいました。
それが、八木忠左衛門(やぎ ちゅうざえもん)です。
忠左衛門は、村人の生活を第一に考える、慈悲深い庄屋で、飾り気のない性格と、筋の通った義の精神で、誰からも頼られる存在でした。
しかし、そんな忠左衛門にも、どうにもならぬ大きな試練が訪れます。
飢饉と重税
貞享3年(1686年)。
今治地方は害虫の大量発生や天候不順の影響によって、深刻な大飢饉に襲われました。
延喜村も例外ではなく、田畑は枯れ、収穫はほとんど得られず、村は深刻な状況に陥りました。
忠左衛門は私財を投げ打って村人を救おうと奔走しましたが、もはやどうにもならない状態。
さらに、この危機に追い打ちかけたのが、代官所からの厳しい年貢の取り立てです。
忠左衛門は何度も「年貢の減免」や「扶助米の供給」を願い出ましたが、代官たちはまったく耳を貸しはくれなかったのです。
命懸けの直訴
度重なる嘆願も退けられ、村民の生活は限界を迎えていました。
飢えに苦しむ者、病に倒れる者、ついには死者までもが出始める中、庄屋としての責務と人としての良心との板挟みのなかで、忠左衛門はついにある行動に出ました。
それが直訴です。
忠左衛門は、自らの名を伏せ、藩(当時この地域は松山藩領)に設けられていた「目安箱」に、匿名の訴状(目安書)を投じたのです。
そしてその書面には、飢餓に苦しむ村民の実情、冷酷な代官の振る舞い、そして切実な年貢の減免を願う言葉が綴られていました。
江戸時代の一部の藩や幕府では、民の声を拾うために「目安箱」と呼ばれる投書箱が設置されていました。
形式的には「民のための制度」とされていましたが、実際には、体制を批判するような内容や、代官を飛び越えた訴えは重罪と見なされるのが通例でした。
とくに、名を伏せての直訴は“無礼討ち”や打首刑の対象となる場合がありました。
つまり忠左衛門は、自身が死罪に処されることを覚悟のうえで、延喜村の村人のために動いたのです。
逃亡生活と村での拷問
思いがけない直訴状に驚いた藩の役人たちは、直ちに調査に乗り出しました。
そしてその訴状の文意の鋭さと筆跡の端正さから、「これは庄屋・八木忠左衛門の筆によるものではないか」と目をつけ、忠左衛門を捕らえるための追手を差し向けました。
「いま自分が捕らえられれば、村人たちは完全に見捨てられてしまう」
そう考えた忠左衛門は、身を隠す決意を固め、日頃から篤く信仰していた讃岐・金毘羅大権現(現・香川県琴平町)への参詣を装い、愛する一人息子の小太郎と共に村を出ました。
同行したのは、愛する一人息子の小太郎でした。
一方、忠左衛門の行方がつかめない追手たちは苛立ちを募らせ、延喜村に残る妻や下男・下女に対し、激しい拷問を加えて居場所を吐かせようとしました。
「忠左衛門の居所を申せば、銀百枚を与える。だが隠し通せば――この鉄板を、村人全員に踏ませる!」
真っ赤に焼かれた鉄板を見せつけられた村人たちの間に、不安と動揺が広がる中、八木某という村人がついに口を割ってしまいます。
帰国の誘い、そして騙し討ち
その後、金毘羅大権現の奥の院で、大願成就を祈っていた忠左衛門のもとに、八木某がやってきてこう告げました。
「訴状はご家老様の目に留まり、延喜の民百姓に深く同情された。代官の非道も暴かれ、謹慎処分になった。今や村人たちは皆、忠左衛門様のお帰りを待ち望んでおります」
この言葉を信じた忠左衛門は、小太郎と一緒に帰国の途につきました。
しかし、桑村郡中村(現・東予市三芳町)に差しかかったところで、それが嘘であったと知らされました。
激しいく動揺した忠左衛門は、なんとか立花郷(立花地区)まで逃れますが、待ち伏せしていた追手たちによってついに捕らえられてしまいました。
最期の言葉、義の死
貞享3年(1686年)6月29日。
忠左衛門と小太郎は、桑村郡紺原村(現・今治市大西町)の刑場(現:古寺地蔵尊)で、打首に処せられることとなります。
その最期の時、役人に「言い残すことはないか」と問われた忠左衛門は、静かに、しかし力強くこう言い残したといいます。
「延喜の百姓を頼む」
それは、己の命の尽きる瞬間にあってなお、民の未来を案じる、深い慈愛と覚悟のこもった言葉でしたが、刑は淡々と執行されてしまいました。
その後、忠左衛門とその一人息子・小太郎の首は、竹槍に刺され、無残にもさらし首とされました。
民のために命を賭して尽くした忠左衛門。
本来ならば「英雄」と讃えられるべきその人物が、罪人として扱われている姿は、あまりに残酷な現実として村人たちの心に突き刺さりました。
まるで自らの父を、あるいは幼い我が子を奪われたかのように、村人たちは人目もはばからず涙を流し、手を合わせ続けました。
しかし、忠左衛門の命がけの訴えは無駄ではありませんでした。
その後、藩は年貢の減免と救済措置を講じ、村人たちはようやく飢えと苦しみから解き放たれることとなったのです。
忠左衛門は死してなお、民を救ったのです。
忠左衛門の祀られた祠と、伝え続けられる記憶
忠左衛門と小太郎の亡骸は、公式には「罪人」としての扱いであったため、丁重に葬られることは許されませんでした。
しかし村人たちは、ひそかに延喜の乗禅寺の裏山に遺体を葬りました。
墓碑は粗末な石で、現在は風雨に晒され文字もほとんど読み取れなくなっていますが、そこには村人たちの深い敬愛の念が刻まれています、
さらに、延喜村をはじめとする野間郡一帯の農民たちは、忠左衛門を「義民と称え、ひそかに地蔵尊(現:古寺地蔵尊)を建立してその菩提を弔いました。
そして、延喜村の人々はさらにその徳を讃え、忠左衛門を三島明神(みしまみょうじん・三島神社)として、つまり神として祀ったのです。
この三島神社は、延喜天満宮の飛地境内社となり、現在は延喜天満宮の境内へと遷座され、今も地域の鎮守としてその御霊を伝えています。
忠左衛門の魂が生き続ける延喜の地
こうした忠左衛門の行いは、決してただの過去の出来事として風化することなく、今もなお延喜の人々の記憶に深く刻まれています。
その象徴が、現在も受け継がれている伝統行事「延喜の子供相撲」です。
これは、この地で毎年奉納される神事相撲であり、村のために命を賭して直訴した忠左衛門の徳を顕彰するものです。
子供たちが一心に相撲を取る姿は、かつてこの地域を守ろうとした忠左衛門の魂と、民を思うその心が重ねられているようです。