「延喜天満宮(えんぎてんまんぐう)」は、旧延喜村に鎮座する由緒ある神社で、日本全国に広がる天満宮(天満神社・天神社)の一社です。学問の神様として名高い菅原道真公をお祀りしており、知恵や学業成就を願う多くの人々の信仰を集めています。特に受験生や学問に励む人々にとって心の拠り所となり、毎年、多くの参拝者が合格祈願や学業成就を祈願するために訪れています。
祭神「菅原道真」
延喜天満宮の始まりは、平安時代の菅原道真公に由来します。
道真公は優れた学者であり政治家でしたが、901年に藤原時平の陰謀により失脚し、九州の大宰府に左遷されました。この左遷は事実上の流刑であり、家族や地位を失い、深い絶望の中で旅を続けることを余儀なくされました。
大宰府での生活は過酷であり、道真公は「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花、主なしとて春を忘るな」という有名な和歌を詠み、京の梅を懐かしんだとされています。延喜3年(903年)、無念の思いを抱いたまま大宰府で亡くなりました。
道真公の死後、京では天災や疫病が相次ぎ、その怨霊を鎮めるために全国各地に天満宮が作られました。その中でも、延喜天満宮は特に由緒ある神社の一つとされています。
道真公は讃岐国の国司として任じられていた際に、隣国伊予を視察し、仁和4年(888年)に今治地方を訪れました。その途中、この地で天王社、吉備津社に幣帛を奉納したという記録が残されています。この由緒に基づき、天慶5年(942年)9月25日、道真公の分霊を筑前国太宰府から勧請し、「延喜天満宮」が創建されました。
配神「白太夫」
この際、配神として「白太夫」も勧請されました。
白太夫は菅原道真公に付き従った老僕で、その名の通り若い頃から頭髪が白かったため「白太夫」と呼ばれていました。
道真公が903年に太宰府で亡くなった後、白太夫は道真公の遺品を土佐に流されていた長子の高視朝臣に伝えるために旅立ちました。
しかし、長旅の疲れと老齢のため、目的地に辿り着く前に体調を崩し、遺品を人に託して905年に79歳で亡くなりました。その後、高視朝臣は白太夫の遺品を祀り、これが霊璽(みたましろ)として崇められました。
「河野好方」
勧請を指揮したのが、現在の越智郡を治めていた「河野好方(こうのよしたか・越智好方)」です。
河野好方は、古代から続く越智氏(おちうじ)の一族に属し、後に続く河野氏の祖先とされる人物です。好方は地域の発展と平和を願い、社寺の建立や神仏の勧請を積極的に行いました。その一環として、942年に天満宮を創建し、学問の神である菅原道真公を祀りました。
この創建には、単なる信仰だけでなく、戦乱後の地域の安定を願う意味も込められていたと考えられます。
この時代、瀬戸内海一帯は藤原純友の乱(939年~941年)によって大きく乱れていました。藤原純友は、もともと伊予国の国司でしたが、次第に朝廷への不満を募らせ、ついには海賊を率いて反乱を起こしました。純友の勢力は西日本沿岸で略奪を繰り返し、やがて朝廷にとって深刻な脅威となりました。
これに対し、朝廷は941年に征夷大将軍・藤原忠文を派遣し、河野好方も朝廷軍に加わり討伐に参加しました。そして好方の活躍によって純友の勢力は鎮圧され、瀬戸内海の治安は回復しました。
藤原純友の討伐が終わった翌年(942年)に河野好方が天満宮を勧請していることから、学問の神である菅原道真公を祀ったのは、戦乱後の地域の安定を願ったものでもあったと考えられます。