愛媛県今治市、大三島の沖合に浮かぶ小さな島「竜神島(りゅうじんじま)」。この島には、白い竜神島灯台が建っており、高さ8.5メートルのその灯台は、瀬戸内海を行き交う船の道しるべとなり、航行の安全を見守り続けています。
そして灯台のすぐそばには、小さな祠(社)が静かに佇んでいます。
この祠は、600メートルほど離れた大島の名駒(なごま)地域に鎮座する「海神社・名駒(りゅうじんじゃ)」の御神体を祀ったもので、海を生業とする人々が航海の安全や豊漁を願い、長年にわたり信仰を捧げてきた神聖な場所です。
名駒とその歴史
名駒(なごま)は、古くから海と深く関わりながら発展してきた地域です。その名の由来は、鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて瀬戸内海一帯で勢力を誇った「伊予水軍」との関わりに遡ります。
伊予水軍は、河野氏や村上氏を中心とした海上武士団で、瀬戸内海の制海権を握り、交易や軍事活動を展開していました。
特に、能島・来島・因島の村上水軍は、独立性が強く、海上の安全を守る代わりに通行料を徴収する独自の立場を維持していました。
このような時代の中で、名駒では軍用の名馬が育てられていたと伝えられています。
そいsてその卓越した馬の存在が「名駒」という地名の由来となったと言われ、この地は戦国時代においても水軍の重要な拠点のひとつとして機能していました。優れた航海技術を持つ人々が集まり、海上交通の要衝として栄えたのです。
また、県の天然記念物に指定されている小さなみかん「名駒のコミカン」には、水軍に関連する伝承が伝わっています。
それによれば、能島や来島の水軍が倭寇時代に中国から持ち帰った種がこの地で根付いたとされています。以降、300年以上にも及ぶ栽培の歴史の中で、江戸時代には今治藩主の久松松平家へ、ひじきなどと共に献上されていました。
このように、名駒は古くから海とともに生き、海とともに文化を育んできました。その象徴ともいえるのが、「海神社・名駒」です。
本殿なき神社と島の御神体
海神社・名駒は、他の神社と比べても際立った特徴を持っています。
それは、御神体が沖合の「竜神島」に祀られているため、本殿が存在しないこと。そして、社殿は御神体のある竜神島の方向を向いて建てられていることです。
このため、氏子の人々は竜神島の方角へ、つまりは海に手を合わせて手を合わせて祈願しています。その姿は、まさに海への畏敬の念を表すものです。
古くから漁業や航海に携わる人々にとって、海は恵みの源であると同時に、時に荒ぶる厳しい存在でもありました。そんな海を敬い、海神の加護を願う心が、海神社の信仰として脈々と受け継がれているのです。
豊玉彦命と豊玉姫命
豊玉彦命(トヨタマヒコノミコト)は、日本神話における海の神であり、龍神としても崇敬されています。その娘である豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)は、龍宮に住む乙姫として知られ、海と深い関わりを持つ存在です。
また、長崎県の対馬では、豊玉彦命は龍の化身、豊玉姫命は白蛇の化身とされており、龍神信仰と密接な関係を持っています。
吉海町の二つの海神社
大島の吉海町には、読み方は違いますが豊玉彦命・豊玉姫命を祀る「海神社」が他にも存在します。
- 「海神社・幸新田(かいじんじゃ)」 :元禄6年(1693年)に堤防を築き、海水を堰止めて幸新田を創立した際、修験者・正謙が願主となり、庄屋百姓惣代連署で願い出た結果、今治藩主・松平玄蕃頭の命により元禄10年(1697年)9月11日に鎮護の神として勧請されたとされています。
- 「海神社・本庄(かいじんじゃ)」:津倉の入り江に竜神が現れ、「この海面を埋め立てよ。我は潮堰止めの神なれば、守護せん。この地崎に奉祀せよ」との御神託を受け、天保4年(1833年)9月8日に小社を造営し、竜神を勧請したと伝えられています。
一方、「海神社・名駒(りゅうじんじゃ)」は、明治42年(1909年)に美保神社、山神社、大穴牟遅神社を境内社として合併し、現在の海神社となりました。しかし、その創建時期については不明とされています。
海神社・名駒のルーツを探る
日本各地には、龍にまつわる伝承が多く残されています。その中でも、神社の名称に「龍(竜)」がつくものと、「海」がつくものがあることに注目すると、両者には深い関係があるのではないかと考えられます。
当サイトでは、この視点から“龍”をキーワードに「海神社(りゅうじんじゃ」の創建時期について仮説を立てました。
海神社(りゅうじんじゃ)の主祭神である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)は、龍宮の王「綿津見豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)」とも称され、海神(わたつみ)として古くから信仰されてきました。
一方で、豊玉彦命の娘である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)は、龍宮の乙姫とも呼ばれ、龍の化身とされる神格を持ちます。
日本神話において、豊玉姫命は山幸彦(ホオリノミコト)と結ばれ、地上において出産する際に本来の龍の姿を見られたことを恥じ、海へと帰ったと伝えられています。
そして、これらの神様は御神体として竜の名のつく竜神島(りゅうじんじま)に鎮座しています。
こうした「竜(龍)」にまつわる共通の要素を踏まえると、もともと「海神社・名駒(りゅうじんじゃ)」は「龍神社(竜神社)」と表記されていた可能性があります。
実際に、瀬戸内地域には、豊玉彦命や豊玉姫命を祀る「龍神社」と呼ばれる神社が複数存在しており、今治市では、豊玉姫命を祀る「龍神社・波止浜」(創建:1683年)、豊玉彦命を祀る「龍神社・九王」(創建:870年)などがあります。
また、この説の大きな裏付けとして、海神社・名駒の拝殿にはくずし字で書かれた「竜神宮」の神額が奉納されています。
このことから、海神社はかつて「竜神宮」や「龍神社」と称されていたものの、ある時期に「海神社」へと表記が変更された可能性があると考えられます。
では、なぜこのような名称変更が起こったのでしょうか?これについては、いくつかの要因が考えられます。
- 神仏習合と分離:日本では、神道と仏教が融合した「神仏習合」の時代が長く続きました。明治時代初期の「神仏分離令」により、神社と寺院の分離が進められ、多くの神社で名称や祭神の見直しが行われました。この過程で、「龍神社」から「海神社」へと名称が変更された可能性があります。
- 地域の文化や信仰の変化:地域の歴史や文化、信仰の変遷に伴い、神社の名称が変更されることがあります。例えば、海上交通の安全を祈願する信仰が強まった地域では、「龍神」よりも「「海神(わたつみ)」としての性格が強調され、名称が「海神社」に改められた可能性があります。
しかし、これらの説はあくまで推測の域を出ず、創建時期や竜神島にいつ、どのようにして御神体が祀られたのかも不明です。そのため、今後もさらなる調査が必要であり、古文書や神社の由緒書、地域の伝承をもとに検証を進めていく必要があります。
竜神島が導く名駒の未来
確かなことは、御神体が祀られている竜神島が、そこに立つ灯台と同じように、今も変わらず名駒の海を見守り続けているということです。灯台が暗闇の中で航海の安全を導くように、竜神島もまた、名駒地域の氏神として古くから信仰の拠り所となり、人々の心を照らし続けてきました。
そして、現在も竜神島は、信仰の光としてこの地に生きる人々を導き、海とともに歩む未来を静かに見守り続けています。