「西蓮寺(さいれんじ)」は、文亀元年(1501年)に現在の伊賀山、かつて相の谷古墳群があった場所に創建されました。創建当初は小さな小屋のような規模の寺院でしたが、海を見渡せる高台という地理的な特徴から、海上の安全や豊漁を願う漁民たちから厚い信仰を集め、地域の人々にとって大切な存在となっていました。
その後、時代の移り変わりとともに寺院は現在の場所に移転しましたが、西蓮寺は引き続き地域の信仰の中心として、人々の心の支えであり続けています。
境内に残る名残
西蓮寺の境内には、かつての歴史を感じさせる名残がいくつか残されています。その一つが、伊賀山から移された石造層塔です。この層塔は、かつて寺が伊賀山にあった時代の名残であり、当時の姿を今に伝える貴重な遺構です。
さらに、今治村の庄屋であった「南家(みなみけ)」の墓も、西蓮寺の境内に移されています。南家は地域における有力な家系であり、その歴史的背景は、寺と地域との深い結びつきを物語っています
樹齢約400年の壮大な榎木
かつて西蓮寺には、樹齢約400年の壮大な榎木(えのき)の大木がそびえていました。この木は江戸時代初期に寺が現在の場所に移転した際に植えられ、地域の人々の生活に深く根付いていました。榎木は縁起の良い木とされ、小正月には「餅花(もちばな)」の木として使われました。餅花は、榎木の枝に小さな餅や紙飾りを結びつけて稲の豊作や家族の健康を祈る行事です。
また、榎木に房ようじと絵馬を捧げて歯の病の祈願をしたり、榎木の空洞にたまった水を「霊眼水(れいがんすい)」として眼病の祈願をすることも行われました。その堅い木材は庭木や公園樹、建築材、器具、家具、機械材、薪炭材としても重宝されました。
秋の訪れと共に、赤茶色に熟す榎木の実は、かつて子どもたちにとって格別のごちそうでした。その甘さが広く愛され、戦前の時代から地元の風景に溶け込んでいました。この大木は、1945年の今治空襲という激動の時代を乗り越え、地域の象徴として堂々とその姿を保ち続けました。しかし、年を経て樹木の腐朽が進行し、ついに安全性を確保するための伐採が避けられない状況となりました。
伐採は多くの人々にとって感慨深い決断でした。長年の風雪に耐えてきたこの大木を失うことは、地域の歴史がひとつ幕を閉じるかのような悲しみを伴うものでした。それでも、地域の安全を守るために必要な選択であることは皆が理解しており、地元住民にとって心苦しいながらも避けられない現実でした。
伐採作業は県内外から樹木医が集まり、長年人々を見守ってきた大木に敬意を払いながら慎重に行われました。地域の人々はこの決断を見守りながら、心の中で静かに別れを告げました。今は失われた大木ですが、その記憶は地域の歴史と共に受け継がれ、語り継がれていくことでしょう。
杉浦清氏の詩碑と正岡子規の句碑
境内には、杉浦清氏の詩碑「花は美しい」や、正岡子規の句「山茶花をうつくしとみてすぐ忘れ」が設置されています。これらの文学碑は、訪れる人々に詩や俳句の美しさを感じさせ、自然との調和を体現する場所となっています。
地域との文化的なつながり
西蓮寺は、歴史的な遺産としてだけでなく、地域の文化的な中心地としても知られています。地域のアーティストや音楽家を招いたイベントやワークショップが定期的に開催され、地域住民との交流を深めています。