「真光寺(しんこうじ)」は、白風元年(672年)、伊予の豪族・越智守興の強い願いを受け、道昭法師によって創建された法相宗のお寺です。
道昭法師が創建
道昭法師は遣唐使として中国に渡り、大慈恩寺で唯識の学匠である玄奘三蔵の門弟となり、法相宗の奥義を学びました。
当初は法相宗に属していた同寺でしたが、後に宇多天皇(867〜931年)の勅願により真言宗へと改宗され、「真言密教寺」と名を改められ、高野山金剛峯寺の直末寺となりました。
宇多天皇の勅願所として指定された真光寺は、天下の安静を祈願する重要な場として多くの人々の信仰を集め、当時の伊予地方においても大きな存在感を示しました。
最盛期の威厳と格式
最盛期の真光寺は非常に広大な敷地を有しており、寺院の広さは東西91間(約164メートル)、南北65間(約117メートル)に及び、多くの建物が建てられていました。本堂や塔、7つの僧房、そして11の末寺を抱え、この地方の密教霊場として威厳と格式を誇っていました。
さらに、当時としては非常に強大な「300貫」という寺領を誇り、その経済力はとても凄まじいものでした。この「300貫」という数字は、収入や土地の大きさを示す単位であり、1貫は約3.75キログラムに相当しますが、地域や時代によって価値は異なります。
江戸時代の頃には、1貫は米約150キログラム(1石の10倍)に相当するとされていました。このため、寺領300貫というのは、米の収穫量や租税収入を考慮しても、相当な富と資産を有していたことを意味します。
戦乱の世を乗り越えた寺院
このように繁栄を謳歌していた真光寺でしたが、承平4年(934年)から発生した藤原純友の乱(939年〜941年)の戦火に巻き込まれました。乱の激しい戦闘の中で、真光寺は多くの建物を焼失し、かつての壮麗さを失うこととなりました。
藤原純友の乱によって多くの建物を焼失し、大きな打撃を受けた真光寺でしたが、その後、再び復興の道を歩むことになります。
鎌倉時代(1185〜1333年)になると、府中高橋郷の出身僧である凝念国師が真光寺の復興に尽力し、一時期、東大寺戒壇院の列に入ることで、寺としての地位を取り戻しました。この復興により、真光寺は再び地域の信仰を集める場として栄えることとなり、越智氏の末裔である河野一族の信仰と財政的援助を受けて、さらに繁栄を続けました。
しかし、南北朝時代(1336〜1392年)には再び戦乱に巻き込まれました。この時期、南朝方の大館氏明や篠塚伊賀守といった諸将が真光寺の周辺に拠り、世田山城に籠城して府中を占拠し、勢力の挽回を図りましたが、興国三年(1342年)、北朝方の細川頼春が七千の兵を率いて伊予に攻め込み、真光寺はその本陣として使用されました。
四十余日にわたる激しい攻防戦の末、南朝方は敗北し、大館氏明も壮烈な最期を遂げました。彼の首級は真光寺で首実検に供され、その供養のため、現在も本堂東側に氏明公の供養塔が残されています。
さらに、戦国時代末期(1467〜1600年)には豊臣秀吉の四国征伐が起こり、真光寺は再び戦火に見舞われ、またしても多くの建物が焼失してしまいました。このように真光寺は度重なる戦乱で大きな被害を受けましたが、それでも信徒たちの強い支えによって再興されました。
明治維新以降(1871年〜)、神仏分離令や廃仏毀釈など、仏教寺院にとって厳しい時代が訪れましたが、真光寺はこれらの法難を乗り越え、地域の人々の信仰に支えられて存続しました。
そして現在も長い歴史を持つ寺院として、その伝統と教えを受け継ぎ続けています。