明治時代、日本で流通していたタオルのほとんどはイギリスなどからの輸入品であり、一般の庶民にとっては贅沢品のひとつとされていました。
国内での生産はほとんどなく、主に欧米の高級ホテルや外交の場で使用される特別なものと考えられていました。
当時、日本ではまだ綿織物の技術は発展していたものの、タオルのようなパイル織り(生地の表面にループ状の糸を織り込む技術)は未発達であり、国内での安定供給は難しい状況でした。
そんな中で、今治の繊維業界の救世主となったのが「阿部平助(あべ へいすけ)」でした。
今治タオルの礎を築いた男
今治市(旧・越智郡室屋)の商家に生まれた阿部平助は、家業である綿替木綿商を受け継ぎながらも、常に時代の流れに敏感な人物でした。
当時、保温性に優れた「綿ネル」が衣類や寝具の素材として重宝されており、需要も安定していました。
平助はそこに可能性を見出し、1890年(明治23年)ごろから、綿ネルの製織を本業に据えるようになります。
事業は順調に成長を遂げていきましたが、平助はそこで満足することはありませんでした。
さらなる可能性を模索していたその頃、平助の耳に入ってきたのが、大阪・泉州地方でタオル生産が盛んになっているという話でした。
従来の綿織物とは異なる新しい市場にビジネスチャンスを感じ取った平助は、すぐに行動に移しました。
越智郡風早町(現・今治市風早町)にある自ら所有する貸家を改造し、試験工場として活用。
そして、1894年(明治27年)12月には、泉州から購入した「打出織機(うちだしょっき)」と呼ばれるタオル用の手織機4台を据え付け、タオル生産に向けた試験操業を開始したのです。
これが、今治タオルの歴史の始まりでした。
今治の織物産業を支えた兄弟
しかし、この試みは決して順風満帆ではありませんでした。翌年の1895年(明治28年)、突如として発生した火災によって工場は全焼し、事業の存続が危ぶまれる事態に直面しました。
それでも阿部平助は諦めることなく、綿布織機を購入し、1896年(明治29年)、弟の阿部光之助(あべ みつのすけ)と共に「阿部合名会社」を設立しました。
主力となる綿ネル製造を本格的に開始すると同時に、打出織機を導入し、タオル事業にも積極的に取り組むようになりました。
平助はタオル事業の発展に情熱を注ぎ、品質の向上と生産拡大に尽力しました。一方、光之助は今治の政財界でその影響力を高め、伊予綿練同業組合長を務めるなど、地域の産業振興に貢献しました。
こうして兄弟二人が率いる阿部合名会社は、今治の綿業界だけではなく、地域の発展にも大きく貢献する存在となっていきました。
一方、大きな課題にも直面していました。
現在の今治タオルの礎
明治30年(1897年)に売上高1万7760円64銭9厘を記録しましたが、そのうち半分が綿ネルで、タオルはわずか9%にとどまていたのです。
当時、タオルの需要は急速に拡大していましたが、生産技術や設備の不足により、供給が追いつかず、市場の成長に対応しきれない状況が続いていました。
こうした課題を克服し、事業のさらなる拡大を目指すため、阿部合名会社は積極的な設備投資を進めていきました。
1898年(明治31年)には大阪支店を開設し、販売網を広げるとともに、1900年(明治33年)には今治で初めて蒸気機関を利用した力織機を導入。これにより生産効率が飛躍的に向上し、事業の近代化が一気に加速しました。
さらに、1910年(明治43年)には大阪で開発された最新のタオル専用織機を導入し、今治での本格的なタオル生産を再スタートさせました。
この決断こそが、今治でのタオル産業にとって大きな転機となり、後に世界的なブランドへと成長する「今治タオル」の礎になりました。
逆境に挑んだ今治のタオル産業
しかし、それ以降のタオル産業の成長は多くの壁に阻まれました。
その最大の課題の一つが、当時の市場環境でした。国内ではタオルがまだ一般家庭に普及しておらず、贅沢品として認識されていたため、需要が限定的だったのです。
さらに、工員の技術がまだ未熟で、高品質なタオルを安定的に生産することが困難でした。
加えて、泉州のタオル産業が輸出を軸に発展していたのに対し、今治は地理的な制約から海外市場へのアクセスが不利でした。このため、事業の拡大には限界があり、競争力を高めることが難しくなりました。
タオル産業からの撤退、そして未来へ
こうした厳しい状況の中でも、今治でのタオル産業のさらなる発展を目指し、阿部合名会社は1913年(大正2年)に阿部株式会社へと改組し、経営基盤の強化を図りました。
しかし、市場環境や技術的な課題を乗り越えることは容易ではありませんでした。タオル生産に対する熱意を持ち続けながらも、1916年(大正5年)、ついにタオル生産を断念する決断を下しました。
これは、単なる撤退ではなく、今治の繊維産業をさらに発展させるための戦略的な転換でした。本業である綿ネル生産を強化するため、英国製動力織機50台を導入し、繊維業の近代化を推進しました。
これにより、生産性が飛躍的に向上し、国内市場での競争力を高めるとともに、今治の織物産業全体の発展を促す契機となりました。
さらに、この近代化は単に今治の企業の成長にとどまらず、愛媛県における工業の近代化を加速させ、地域経済に大きな影響を与えるものともなりました。
阿部兄弟の挑戦と遺産
それから17年後の昭和8年(1933年)1月16日、阿部光之助は74歳でその生涯を閉じました。そして、その5年後の昭和13年(1938年)11月16日、阿部平助もまた87歳で静かに人生の幕を下ろしました。
二人の功績は今治の産業の発展において非常に大きく、阿部平助は「今治タオルの父」、阿部光之助は「今治商工業の父」と称されるようになりました。
特に阿部平助は、今治の織物産業の礎を築いた人物として、今治繊維リソースセンターが管理運営する「テクスポート今治」に銅像が建てられ、その偉業が称えられています。
円光寺に眠る先駆者たち
阿部兄弟が生きた時代は、綿ネル産業が繁栄と衰退を繰り返しながらも、今治の織物業が次なる時代へと歩みを進める過渡期でもありました。
やがて戦後の復興とともに、今治の織物産業は再び変革の時を迎え、伝統の技術を活かした新たな挑戦が始まります。
そして、その技術の継承の先に生まれたのが、現在の「今治タオル」なのです。
そんな二人のお墓は、一族とともに「円光寺(今治市・今治中央地区)」にあります。 変わりゆく時代の中で、阿部平助と光之助は、今治の繊維産業の発展を見守り続けているのです。