「円久寺(圓久寺・えんきゅうじ)」は戦国時代の天正年間(1573年〜1586年)に、河野氏に仕えた河野十八将の一人、中川親武(なかがわ ちかたけ・中川山城守親)によって創建されました。
寺院の境内にある「山城堂」には、中川親武の墓が祀られており、訪れる人々はその生涯と激動の時代を感じ取ることができます。
戦国末期の状況
時代は戦国末期。日本各地の戦国大名たちが勢力争いを繰り広げ、その覇権をめぐる戦乱が絶え間なく続いていました。
この頃の伊予を含む四国は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が勢力を拡大していました。元親は本拠地の土佐から、戦略的な婚姻や軍事行動を通じて、阿波・讃岐を次々と勢力下に置き、四国統一に向けた動きを本格化させていました。
さらに天正10年(1582年)、織田信長は四国攻めを計画し、三男の織田信孝を総大将として派遣しようとしました。
しかし、四国にはこれらに対抗する勢力も存在していました。それが、長年にわたり伊予を統治してきた河野氏でした。河野氏は、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍と連携しながら、伊予の防衛に努めていました。
特に、村上水軍の一角を担う来島水軍は、河野氏の海上戦力として重要な役割を果たしていました。しかし、戦国の世の流れの中で、河野氏は徐々に圧力を受け、勢力を維持することが困難になっていきました。
河野氏と毛利氏の関係
天正9年(1581年)、河野氏は中国地方の覇者である毛利氏と縁組を成立させ、河野氏は毛利氏の支援を受けることになりましたが、すでにその実態は毛利氏の庇護下にある状態でした。
河野氏は単独での勢力維持が難しくなり、毛利氏に頼らざるを得ない状況に陥っていたのです。
一方で、毛利氏自身も織田信長の圧力を受けており、中国地方の防衛に忙殺されていました。そのため、毛利氏は伊予に対して積極的な支援を行う余裕がなく、結果として河野氏は孤立していきました。
中川親武
その頃の中川親武は、松山の藤原村(現:伊予鉄市駅付近)に住んでおり、ある事情から僧侶となり、温泉郡(現在の松山市中心部)の岩子山のふもとに「圓久寺(円久寺)」を建立し、一族の菩提を弔いながら静かに暮らしていました。
しかし、伊予の戦局が激しさを増す中で、その平穏な日々は長くは続きませんでした。
道後湯築城の城主である河野通直(こうの みちなお)は、家臣である中川親武に「霊仙山城」を拠点に再び武器を取ることを命じたのです。
霊仙山城の築城と円久寺の建立
霊仙山は標高155.9mの山で、山頂には山城(霊仙山城)が築かれ、防衛の拠点として機能していました。
霊仙山城の築城期や築城者については明確な記録が残っていませんが、南北朝時代にはすでに存在していたとされる「国分山城(現:愛媛県今治市国分4丁目)」を本城とする支城の一つであったと考えられています。そのため、霊仙山城も南北朝時代にはすでに築かれていた可能性が高いとされています。
この城を拠点に、守ることになった中川親武は、伊予の防衛を担い、河野氏の家臣として重要な役割を果たしました。
霊仙山城は天然の山城として堅固な地形を持ち、敵の侵攻を防ぐのに適した地でした。親武は、城の防御機能をさらに強化し、周囲の情勢を監視しながら、伊予防衛の最前線としてこの城を活用しました。
その際、親武はこの城の近くにも同じ名前の「円久寺」を建立し、薬師如来を安置しました。これは、戦乱の世における人々の安寧を願い、戦や病で苦しむ者の救済を祈る場としての役割を果たすためでした。また、円久寺は親武自身の菩提寺としての意味合いも持ち、武士として戦いに身を投じる中で、精神的な拠り所ともなっていたと考えられます。
「霊仙山城の戦い」来島村上氏の離反
天正10年(1582年)、四国の戦局が大きく動く中、河野氏に仕えていた村上水軍の一角である来島村上氏 来島城主・来島通総(くるしま みちふさ)が、織田信長の家臣「羽柴秀吉(はしばひでよし)」の勧誘を受けて織田側につきました。
この裏切りにより、河野氏の海上防衛は崩れ、陸上の防衛にも大きな影響を及ぼしました。来島勢は河野氏の支城を次々と攻撃し、その領域を削り取っていきました。そして、ついに標的は戦略的にも重要な拠点である霊仙山城へと向けられました。
親武は、城の堅牢な地形を最大限に活用しながら奮戦しましたが、繰り返される猛攻の前についに城は落ち、親武も壮絶な戦いの末に討ち取られてしまいました。
この戦いの後、霊仙山城は一時的に来島勢の統治下に置かれましたが、河野氏の力が完全に消えたわけではなく、親武の弟である中川通任(なかがわみちとう・常陸介通任)が跡を継ぎこの地を治めました。
本能寺の変と四国攻めの中断
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が勃発し、織田信長が明智光秀の謀反によって自害しました。この突然の政変により、織田家が進めていた四国攻めの計画は突如として中断されました。
この事件を受け、羽柴秀吉は急遽京都へ戻り、明智光秀を討つために山崎の戦いへと向かいました。織田政権の中枢が混乱したことで、信長の指揮下にあった各地の戦線は一時的に停滞し、四国攻めも例外ではなく、進軍計画は完全に中止されました。
この政変は、長宗我部元親にとっては危機を脱する大きな転機となりました。四国攻めが中断されたことで、元親は織田軍の脅威から一時的に解放され、再び四国統一へ向けた動きを強めることができました。
しかし一方で、伊予の河野氏にとっては、より不利な状況を生み出すことになりました。本能寺の変により、河野氏は織田方からの支援を完全に失い、さらに同盟関係を結んでいた毛利氏も、織田家の混乱に対応するため伊予への支援を十分に行えなくなったのです。
これにより、河野氏は孤立無援の状態となり、伊予における統治体制は崩壊寸前となりました。
霊仙山城の廃城
本能寺の変後、信長の意志を注いだ秀吉は天下統一の動きを再び加速させ、天正13年(1585年)に再び四国攻めを開始しました。
この戦では、秀吉の家臣である小早川隆景が伊予侵攻を担当し、圧倒的な軍勢を率いて次々と河野氏の城を落としていきました。霊仙山城もこの戦火に巻き込まれ、通任は必死の抗戦を試みましたが、強大な豊臣軍の前には抗しきれず、ついに落城しました。
こうして、霊仙山城は最終的に廃城となり、河野氏も豊臣秀吉の四国攻めによって滅亡しました。伊予の地は完全に秀吉政権の勢力下に置かれ、長きにわたる伊予の戦国時代は終焉を迎えました。
実は中川通任はこの戦いで亡くなっておらず、讃岐(現:徳島)に隠れ住んでいました。1615年(慶長20年)の大阪夏の陣で討死しました。
通任のお墓は円九寺にはなく、現在もどこにあるのかわかっていません。
円久寺の由緒
一方、桜井地区の宮ヶ崎にある円久寺の由緒によれば、晩年の親武は、腹痛や筋肉痛に長く苦しみながらも、戦乱の中で生き抜いていました。そして、天正5年(1577年)旧暦12月7日、ついに陣中で病に倒れ、54歳で生涯を閉じたとされています。
晩年の親武は、腹痛と筋肉痛に苦しむことが多く、天正5年(1577年)に陣中でその生涯を閉じました。臨終の際、親武は薬師如来に対して、自分と同じように腹痛や筋肉痛に悩む人々を救うために取り次ぎを行うことを誓願しました。
この誓願によって、円久寺の薬師如来は「山城薬師」として広く知られるようになり、多くの参拝者が訪れる霊験あらたかな仏として崇められるようになりました。
戦乱と自然災害による苦難と復興
その後、円久寺は戦乱や自然災害によって何度も衰微しましたが、麻生、世良、渡辺、秋山、石丸、加藤、村上、長井家などの家臣たちが忠義を尽くし続け、寺を支え続けました。
寛文2年(1662年)、円光寺の二代目住職である一閑恩中は、多くの信者の支援を受け、円久寺を地域の信仰の中心地として再興しました。
世良家出身の四代目住職、清室和尚は出家し、住職として円久寺の中興に尽力しました。
文化年間(1804年〜1818年)に一度焼失してしまいましたが、十六代目住職の藤原画雲和尚と多くの信者たちの支援によって再び再興を目指しました。
昭和元年(1926年)には山城堂を建立し、昭和6年(1931年)には庫裡(くり)を、そして昭和40年(1965年)には現在の本堂が完成しました。
この再興により、円久寺は現代に至るまで、地域の信仰の中心としてその姿を保ち続けています。
円久寺の復興を見事に成し遂げた画雲和尚は、昭和55年(1980年)9月2日に89歳で亡くなりましたが、その偉大な貢献に対し、最高位の戒名が贈られ、ご遺体は歴代の和尚たちと同様に、山城堂の西隣にあるお墓に祀られました。
山城姫の伝説
円久寺の歴史を彩る存在として、山城守親武の娘である山城姫の伝説が残されています。
山城守親武には「山城姫」と呼ばれ、地域の人々に愛されたお姫様がいました。山城姫は、その気品と美しさで広く知られ、地元の人々にとってとても大切にされていました。
1585年、小早川勢が霊仙山城を攻撃した際、山城姫は城を守るために長刀を持って立ち上がりました。家臣や領民たちの前で毅然とした姿を見せ、圧倒的な敵軍に対して最後まで勇敢に抵抗しました。
戦乱の時代、若い女性が戦の場に立つことは非常に珍しく、その勇敢な行動は家臣や領民たちを奮い立たせました。
しかし、最終的には城は落城してしまいました。
敗北が迫る中で、山城姫は捕虜となることを潔しとせず、自ら命を絶ちました。その誇り高い生き様は後世に語り継がれ、地域の人々の間で伝説となりました。
山城姫を偲ぶ日
円久寺では毎年旧暦3月4日に、山城姫の縁日として法要が営まれています。この法要では、山城姫の霊力にあやかり、病気平癒や開運を願う多くの参拝者が集まります。
歴史を訪ねて
円久寺には、天正9年(1581年)に描かれたとされる中川山城守親武の肖像画が大切に保存されており、この地域の歴史を語る上で欠かせない貴重な文化財として後世に受け継がれています。
登山道にある史跡
また、円久寺の北側に広がる墓地の奥から続く登山道を進むと、「十二社」山城姫を祀っている「御姫堂」 があります。
「十二社」は、円久寺や山城堂、山城姫、麻生本家、そして檀家のご先祖全体を見守るための場として南山腹に祀られていましたが、暴風の影響で壊れてしまいました。
現在の「十二社」は、耐久性のあるコンクリート構造で昭和57年(1982年)に再建されたものです、
そのため和57年(1982年)に耐久性のあるコンクリート構造でが再建されました。
登山道を山頂へと進むと、かつての霊仙山城の城跡にたどり着きます。城跡には、土塁や堀切といった戦国時代の防御施設の名残が静かに息づいており、当時の戦いの緊張や武将たちの息遣いを感じることができます。