「円久寺(圓久寺・えんきゅうじ)」は、桜井の「宮ヶ崎十八寺社参拝コース」の一つであり、天正年間(1573〜1586年)に中川山城守親武によって創建されたと伝わっています。境内には、創建者である中川山城守親武の墓が『山城堂』と呼ばれて祀られており、参拝者が遺徳に感謝し、供養のために訪れる大切な場所となっています。
「山城薬師」としての薬師如来と歴史
当時、宮ヶ崎(旧桜井町)の霊仙山に城を構えていた中川山城守親武は、その武勇で名を馳せていた河野十八将の一人でしたが、ある理由で僧侶となり、温泉郡の岩子山のふもとに「圓久寺(円久寺)」と名付けた寺を建立しました。
河野氏は伊予国(現在の愛媛県)の有力豪族で、鎌倉時代には源氏に味方し、室町期には道後に湯築城を築き本拠を移しました。河野氏の兵力は瀬戸内最大規模の水軍となり、河野水軍とも呼ばれました。この時期、大海賊「村上水軍」も瀬戸内で活発に活動していましたが、両者は対立することはなく、村上水軍は河野氏の配下におさまっていました。ただし、村上水軍はあくまで独立した海賊であり、完全に従属していたわけではありませんでした。
円久寺は、一族の菩提を弔うための場所となり、その後、霊仙山に城を移した親武は、同じ名前の寺(圓久寺)を再び建立し、薬師如来を安置して深く信仰しました。
晩年の親武は、腹痛と筋肉痛に苦しむことが多く、天正5年(1577年)に陣中でその生涯を閉じました。臨終の際、親武は薬師如来に対して、自分と同じように腹痛や筋肉痛に悩む人々を救うために取り次ぎを行うことを誓願しました。
この誓願によって、円久寺の薬師如来は「山城薬師」として広く知られるようになり、多くの参拝者が訪れる霊験あらたかな仏として崇められるようになりました。
戦乱と自然災害による苦難と復興
中川山城守親武の死後、弟である常陸介豊澄がその遺志を継ぎ、霊仙山城の指揮を執りました。しかし、1585年に小早川勢の攻撃を受けて城は落城。この時、円久寺もその影響を受けて次第に衰退の道を辿ることとなりました。
その後、円久寺は戦乱や自然災害によって一時的に衰微しましたが、寛文2年(1662年)に再興の機会を迎えます。この再興に尽力したのは、円光寺の二世住職である一閑恩中であり、多くの信者からの支援を受けて、円久寺は再び地域の信仰の中心地として復興しました。しかし、文化年間(1804年〜1818年)に一度焼失するという不幸が円久寺を襲いました。
それでも、地域の人々の協力によって再び復興し、昭和40年(1965年)には現在の本堂が建立されました。この再興により、円久寺は現代に至るまで、地域の信仰の中心としてその姿を保ち続けています。
山城姫の伝説
円久寺の歴史を彩る存在として、山城守親武の娘である山城姫の伝説が残されています。1585年の小早川勢による霊仙山城への攻撃の際、山城姫は城を守るために奮戦しました。若くして立ち上がった姫は、家臣たちとともに最後まで抵抗し、圧倒的な敵軍に対して勇敢に戦いましたが、ついに城は落城の運命を辿りました。
捕虜となることを潔しとせず、山城姫は自ら命を絶ちました。その美しさと誇り高い生き様は、地域の人々の記憶に深く刻まれ、彼女の勇気と覚悟は今もなお語り継がれています。山城姫の物語は後世に伝説として残り、円久寺と霊仙山城の歴史において、重要な位置を占めるものとなっています。
円久寺には、天正9年(1581年)に中川山城守親武を描いたとされる肖像画が保存されており、この絵は同地区における貴重な文化財として大切に保管されています。さらに、昭和25年(1950年)には、霊仙山で遊んでいた二人の少女が、白鉢巻をした美しい姫の姿を目撃したとされています。
この話を聞いた地元の伊十郎氏は、自らの病気の治癒を願って山城姫に祈り続け、その結果病は快方に向かいました。伊十郎氏はその後、感謝の意を込めてお堂と通夜堂を建立し、山城姫の姿を拝んだと伝えられています。
毎年旧暦3月4日には、山城姫の縁日として円久寺で法要が営まれています。この法要では、山城姫の霊力にあやかり、病気平癒や開運を願う多くの参拝者が集まります。円久寺と山城姫の伝説は、地域の人々にとって、信仰の対象であり、心の支えとなり続けているのです。
このようにして、円久寺は中川山城守親武と山城姫の歴史と共に、地域の文化的・宗教的な中心として現代に至るまでその役割を果たしており、今後もその歴史を後世に伝え続けていくことでしょう。