今治タオルの「量産」を可能にした「麓常三郎(ふもと つねさぶろう)」の技術革新が、地域産業の土台を築く中、タオルの「品質」や「デザイン」の面から、その価値に磨きをかけた人物がいました。
それが、もう一人の中興の祖「中村忠左衛門(なかむら ちゅうざえもん)」です。
三大産地の形成と発展と歴史
日本のタオル産業は、愛媛県今治市、大阪府泉州市、三重県津市を三大産地として発展してきました。
しかし、現在では今治市と泉州市の二大産地となり、この二つの地域が日本のタオル産業を牽引し、今日に至るまで成長を遂げてきました。
特に泉州地域は、日本のタオル産業発祥の地として知られ、今治よりも早くタオルの生産を開始し、日本のタオル業界を牽引してきました。
日本タオルの歴史と泉州タオルの始まり
タオルの歴史は、古代文明の発展とともに形を変えながら進化してきました。
石器時代には、動物の毛皮や草の繊維を編んだものが布の役割を果たしていましたが、古代エジプトではリネン(亜麻布)が広く使われ、さらに中世トルコでは織物技術が飛躍的に発展し、タオルに近い形が生まれました。
19世紀に入ると、産業革命によって織機が改良され、タオルは大量生産が可能となり、欧米を中心に一般家庭にも普及していきます。
日本にタオルが伝わった正確な時期は定かではありませんが、1858年(安政5年)に日米修好通商条約が結ばれたあと、欧米を訪れた日本人によって紹介されたと考えられています。
明治5年(1872年)の大阪税関の記録には「浴用手拭い 2ダース 7円60銭」と記されており、これが日本におけるタオル輸入の初記録とされています。
当時の日本では「タオル」という概念はまだなく、庶民が日常的に使っていたのは「手拭い(てぬぐい)」でした。そのため、輸入されたタオルは「西洋手拭」と呼ばれ、珍しい舶来品として扱われていました。
この西洋手拭は、手拭いと比べて肌触りが柔らかく、吸水性にも優れていましたが、当初は高価で、庶民には手の届かない贅沢品でした。
実際、当時タオルを所有していたのは一部の富裕層に限られており、入浴時や洗顔などの実用品としてではなく、襟巻き(スカーフのようなもの)として使用されることが多かったといいます。
日本でタオルが本格的に普及したのは、それよりもずっと後の時代になります。
国内での生産体制が整い、価格が庶民の手に届くようになって、ようやく人々の暮らしの中に浸透していきました。
「タオル」という呼び名が定着したのは大正初期。
さらに、入浴や洗顔といった日常生活に欠かせない品として広く使われるようになったのは、戦後の高度経済成長期(1950年代〜)に入ってからでした。
日本初のタオル
日本で初めてタオルが製造されたのは、明治5年(1872年)。
その一歩を踏み出したのは、大阪・中之島でメリヤス業を営んでいた井上伊八の妻、井上コマという女性でした。
当時の日本には、まだ「タオル」という概念がなく、日常生活で使われていたのは専ら「手拭い」でした。
しかし、イギリスから輸入されたタオルを手にした井上コマは、その柔らかな肌ざわりと高い吸水性に強い感銘を受けます。
「これを日本でも作ることはできないだろうか?」
そう考えたコマは、独自に研究を重ね、当時使用されていた竹織機を応用して、タオルの製造に挑戦します。
そして明治13年(1880年)、ついに日本で初めて、国産タオルの製造に成功しました。
この製法は「竹織り」と呼ばれ、細い竹條を経糸とともに織り込み、織り上がった後にそれを抜き取ることで、タオル特有の輪奈(ループ)を形成するという、画期的な技術でした。
とはいえ、この方法は手作業の工程が多く、大量生産には向いていなかったため、やがて機械化・近代化の波の中で、より効率的な製造技術の確立が求められていくことになります。
日本最初のタオル産地「泉州」
それから約5年後の明治18年(1885年)、大阪・泉州地域の木綿織物業者、里井圓治郎(さとい えんじろう)は、ある一枚のタオルに出会います。
それは、大阪の雑貨商・新井末吉がドイツから仕入れたもので、高い吸水性と柔らかな肌ざわりを備えた輸入タオルでした。
その品質の高さに衝撃を受けた里井は、「これこそが、これからの日本人の暮らしに欠かせない布になる」と確信します。
しかし、当時の日本にはまだタオルの製織技術が確立されておらず、国内生産を行うためには、織機の開発と新たな技術の導入が必要でした。
里井は、タオルの構造や織りの技術を徹底的に研究し、何度も失敗を繰り返しながらも、粘り強く試作を重ねていきました。
そして、明治20年(1887年)。
ついに、日本で初めて「テリーモーション」(タオル特有の輪奈〈ループ〉を織り出す技術)を応用した織機、「打出機(うちだしき)」の開発に成功します。
「テリーモーション」
「テリーモーション」とは、1811年頃にフランスで開発された技術であり、タオル特有の輪奈(パイル)を均一に形成するための織機の動作を指します。
テリーモーションの基本原理は、以下のような動作で成り立っています。
- 上糸(パイル糸)を少したるませる
- 地経糸(じだていと・下糸)と緯糸(よこいと)を絡ませながら打ち込む
- ループ状のパイルを作ることで、ふんわりとしたタオル地を織り上げる
この技術を導入した「打出機」の登場により、泉州地域では安定した品質のタオルを、効率よく大量に生産できる体制が整いました。
ここに、日本初の本格的なタオル産業が誕生したのです。
「後晒し製法」
さらに、泉州地域では、里井圓治郎が開発した製織技術をもとに、「後晒し(あとざらし)製法」という独自の生産方式が確立されました。
後晒しとは、未晒しの糸(生成りのままの糸)でタオルを織り上げた後、仕上げの工程として「晒し」を行う製法です。
織り上げた直後のタオルは、白とはほど遠い生成り色をしており、吸水性も十分ではありません。
そこで、大量の水と手間をかけて何度も晒しを行い、糸に残る油分や不純物を徹底的に取り除くことで、タオル本来の柔らかさと高い吸水性を引き出していきます。
この製法によって仕上がった泉州タオルは、真っ白で吸水性に優れ、洗濯を重ねるごとに風合いが増し、肌触りがさらに良くなるという特徴を持つようになりました。
また、泉州では「織り」と「晒し」の工程を分業し、それぞれの専門工場が役割を担う効率的な生産体制が築かれていきました。
この分業システムにより、泉州タオルは高品質かつ安定供給が可能な商品として評価され、全国各地へと広がっていったのです。
後晒し製法の課題と、職人たちの努力
泉州タオルを支えた「後晒し製法」は、高い品質を生む画期的な技術である一方で、いくつかの課題も抱えていました。
まず、製造工程の分業化です。
織る作業は多くの場合、農家や職人の家庭内で行われていましたが、「晒し」の工程は専門の工場に依頼しなければなりませんでした。
このことにより、生産には手間と時間がかかり、工程ごとの連携も必要とされました。
さらに、晒しを終えたタオルは、水洗いののちに天日干しされるのが基本でした。高い干し竿にタオルを吊るし、太陽の光と風で自然乾燥させるという方法です。
しかし、乾燥設備がまだ整っていなかった当時、工員たちは常にタオルの状態を見守る必要がありました。
乾いたそばから一枚ずつ霧吹きで湿らせ、シワを伸ばして幅を均一に整える……。この作業は昼夜を問わず続けられ、ときには深夜まで及ぶ重労働となることも珍しくなかったといいます。
このように、泉州タオルの製造は品質の高さと引き換えに、大きな労力と時間を要する産業でもありました。
泉州の劣化コピーからの脱却
明治27年(1894年)に阿部平助の手によってタオルの生産が始まって以降、今治でも「後晒し(あとざらし)」が主流となっていました。
しかし、この製法は泉州の真似をしたもので、技術が未熟だったため、本場の泉州に比べて品質が劣り、いわゆる劣化コピー品のような扱いを受けていました。
加えて、泉州と同様に早くからタオル産業に取り組んでいた三重県にも後れを取り、今治のタオルは、しばらくのあいだ“二番手・三番手”の立場に甘んじることを強いられていました。
そんな状況に風穴をあけ、今治タオルを本格的に“産業”として軌道に乗せたのが、 もう一人の「中村忠左衛門(なかむら ちゅうざえもん)」でした。
農家から繊維業へ…。中村忠左衛門の歩み
明治15年(1882年)4月15日、愛媛県越智郡別宮村(現・今治市)に生まれた中村忠左衛門は、広大な田畑を有する農家の五男として育ちました。
代々農業を営んできた中村家は、地域でも名の知れた地主であり、豊かな自然と土地に恵まれた環境の中で、忠左衛門もまた農業に従事する日々を送っていました。
しかし、忠左衛門は農業という枠にとどまらず、時代の変化を敏感に察知していました。
明治時代の中頃、日本は近代化の波にさらされ、地方でも産業構造の転換が進んでいた時代。忠左衛門もまた、「農業だけではこの先の暮らしは成り立たない」という危機感を抱くようになります。
1905年(明治38年)、中村忠左衛門は、兄弟五人で均等に出資し合い、綿織物を製造する「中村合名会社」を設立しました。
これが忠左衛門にとって繊維業界への第一歩となったのです。
当時の今治では、「伊予綿ネル」が地域を代表する繊維製品として広く生産されており、設立当初の中村合名会社もまた、綿布の製造を主力として事業を展開していました。
しかし、泉州や三重といった先進産地との競争が激しさを増す中で、今治の織物業界全体が次第に厳しい局面に立たされていきました。
そうした状況の中、忠左衛門は今治の織物産業の将来に危機感を抱き、このままではいずれ行き詰まるという思いから、新たな方向性を模索しはじめました。
そして明治43年(1910年)、ついにタオル産業への転換を決断。まだ開拓されていなかったこの市場に、自らの未来を賭けたのです。
この挑戦を機に、忠左衛門はタオルの製織技術の研究に没頭し、今治の風土や生産環境に合った独自のタオルづくりを追い求めるようになります。
“先晒し”が変えた今治の繊維産業
そして大正初期、大阪を訪れた忠左衛門は、市場であるタオルに出会い、大きな衝撃を受けました。
忠左衛門の目に飛び込んできたのは、従来の「後晒し(あとざらし)」ではなく、糸をあらかじめ晒してから織る「先晒し(さきざらし)」によって作られたタオルだったのです。
この製法で作られたタオルは、後晒し品と比べて色合いが鮮やかで、仕上がりも見違えるほど美しく、品質の高さがひと目でわかるものでした。
忠左衛門は、すぐにその製造プロセスにも注目しました。
後晒しでは、織り上げたタオルを専門工場に運び、漂白や精練を行う必要があるのに対し、先晒しでは糸の段階で晒すため、工程の簡素化が図れ、手間もコストも大幅に削減できるという利点があったのです。
「この技術こそが今治のタオル産業の未来を切り開く鍵になる」
そう直感した忠左衛門は、ただちに今治に戻り、先晒し製法の試験導入を開始。自社工場で実際に製造を行いながら、その効果を一つひとつ丁寧に検証していきました。
こうして生まれたのが、縞柄のタオルです。
このタオルは、美しい仕上がりと手頃な価格という大きな魅力を兼ね備えており、大阪市場ではたちまち高い評価を得て、注文が相次ぐようになりました。
さらに、この時期には今治への力織機の導入が進み、生産効率が大幅に向上しました。また、加えて、忠左衛門の成功を見た同業者たちも次々と先晒し製法を取り入れ、忠左衛門自身も同業者にこの技術を広めていきました。
その結果、「先晒し製法」が今治のタオル業界に急速に普及し、タオルの生産量が急速に拡大していきました。
デザイン革新とジャカード織機の導入
さらに忠左衛門は、単なる生産効率の向上にとどまらず、タオルそのものの品質やデザイン性の向上にも強い関心を持っていました。
当時のタオルは、無地や縞模様のシンプルなデザインが主流であり、悪く言えば単調なデザインでした。
そこで忠左衛門は、これまで培ってきた「先晒し製法」の利点を活かし、糸の一部をあらかじめ染めることで、より多彩な製品を生み出せるのではないかと考えました。
しかし、単に染色技術を活用するだけでは、高度なデザイン性の追求には限界があることにも気づいていました。
そこで、織りの技術そのものに革新を加えるべきだと考えた忠左衛門は、新たな技術導入に踏み切ります。
大正15年・昭和元年(1926年)、 技師・菅原利鑅(すがわら としかね)が開発した 「ジャカード織機」を、今治で初めて導入したのです。
紋織りタオルと今治ブランドの確立
ジャカード織機の導入により、従来は白一色だったタオルに、複雑な模様や繊細なデザインを織り込むことが可能となりました。
こうして誕生したのが、全く新しい価値を持つ「紋織りタオル(紋タオル)」です。
その仕上がりは、まるで一枚の美術品のように美しく、今治タオルは単なる日用品ではなく、上質で洗練された高級品として認識されるようになっていきました。
さらに、高品質でありながら手頃な価格での提供を実現したことにより、今治のタオルは全国各地で注目を集め、広く愛用される存在となっていきます。
特に、大阪市場や東京市場のような巨大な市場で高く評価され、今治タオルは「品質」と「デザイン性」を兼ね備えた製品として認識されるようになりました。
特に、大阪や東京といった大都市圏では、今治タオルの「品質」と「デザイン性」が高く評価され、その名は全国へと広がっていきました。
この成功こそが、今日の「今治タオル」ブランドの礎となり、次代へと続く発展の道を切り拓く、決定的な一歩となったのです。
「高品質×低価格」今治タオルの新たな価値
さらに、忠左衛門はタオルの製法にさらなる革新を加え、先晒し単糸縮みタオルを考案しました。この縮みのデザインは、時代のトレンドを押さえた洗練されたスタイルで、流行に敏感な消費者の心をつかみました。
加えて、高品質でありながら価格を抑えたこの製品は、日常使いの実用性とデザイン性を兼ね備えたものとして、たちまち人気を集めるようになっていきました。
こうした製品の登場によって、今治タオルは「上質で手が届くタオル」としての評価を獲得し、着実に全国市場へと広がっていったのです。
戦争特需がもたらした繊維業界の変革
そして、今治タオルの成長をさらに加速させたのが、第一次世界大戦(1914年〜1918年)でした。
それまで欧州から輸入されていた繊維製品が、戦争の影響で供給不足に陥り、日本が新たな供給国として注目される機会が到来したのです。
国内では軍需産業の活発化に伴い、繊維製品の需要も急増。タオル産業にとって、まさに大きな転換点となりました。
この戦争特需は、今治で白木綿や綿ネルの手織りを担っていた中小の織物業者にとって、大きな追い風となります。
さらにこの頃には、明治43年(1910年)に麓常三郎が開発した「二挺式バッタン織機」が広く普及しており、従来の手織機に比べて生産効率が飛躍的に向上。
大量生産が可能となったことで、タオル製造への転換が一気に進みました。
こうした技術革新と外的需要の高まりが重なったことで、今治のタオル生産は急激に拡大。やがて今治は、日本を代表するタオル産地としての地位を確立していくことになります。
「四国のマンチェスター」工業都市・今治
明治43年(1910年)、今治で生産されたタオルは年間わずか1万ダースでした。しかし、大正4年(1915年)には21万ダース、売上も15万円にまで急増します。
タオルは徐々に人々の暮らしに浸透し、家庭用としてだけでなく、観光地のお土産や企業の景品など、多様な場面で重宝されるようになり、国内市場での需要も安定して広がっていきました。
そこに、第一次世界大戦(1914〜1918年)の戦争特需が追い風となります。欧州からの繊維製品の供給が滞る中、日本は新たな供給地として国際的に注目を集めました。
この流れの中で、今治のタオル産業も急速に発展。中国・東南アジア・アメリカなど海外市場への輸出が本格化し、今治ブランドは世界へと広がっていきます。
その結果、大正8年(1919年)には生産量が59万ダース、売上は84万円に達し、今治は日本有数のタオル産地としての地位を確固たるものとしました。
そしてこの飛躍的な成長を背景に、今治は「四国一の工業都市」と呼ばれ、さらには、かつてイギリスの産業革命を支えた繊維都市・マンチェスターになぞらえられ、「四国のマンチェスター」と称されるようになりました。
晩年の忠左衛門
晩年の中村忠左衛門は、今治のタオルづくりを支えるだけでなく、日本全体のタオル業界の未来にも目を向け、「日本タオル工業連合会」の創立に携わるなど、全国の産業のためにも力を注いでいきました。
この取り組みにより、日本のタオル業界は組織としての一体感を持ち、品質の向上、流通体制の整備、市場の拡大といった課題に本格的に取り組める体制が整えられていきました。
忠左衛門の志と行動力は、今治という一地方にとどまらず、日本のタオル産業全体を支える礎となったのです。
そして、昭和20年(1945年)4月14日。
第二次世界大戦末期の激動の中、忠左衛門は63歳で静かにその生涯を閉じました。
その遺骨は、今治市高地町に葬られ「今治タオルの中興の祖」として、産地に息づく精神の象徴として今もなお称えられています
中村忠左衛門の精神を受け継ぐ「中忠株式会社」の歩み
中村忠左衛門が築き上げた技術と精神は、今治タオルの発展に大きく貢献し、その志は現在も脈々と受け継がれています。
その伝統を守りながらも、新たな挑戦を続けているのが、地元で“なかちゅう”の愛称で親しまれている「中忠株式会社」です。
第二次世界大戦
中村忠左衛門が設立した「中村合名会社」は、今治のタオル産業を支える中核企業として成長を遂げ、やがて国内市場のみならず、朝鮮や満州といった海外市場にも進出し、事業を大きく拡大していきました。
品質と生産量の両面で成長を遂げた今治タオルは、忠左衛門の積極的な市場開拓によって全国へと広がり、当時の日本におけるタオル業界を牽引する存在となっていきました。
しかし、1937年(昭和12年)の日中戦争、そして1941年(昭和16年)の太平洋戦争の勃発は、会社にとって大きな転換期となりました。
戦時下の中忠と今治タオル産業の試練
戦時中、日本政府は戦争遂行のために「戦時統制経済」を導入し、民間企業の多くを軍需産業へと転換させていきました。
この流れの中で、中村忠左衛門が創業した中村合名会社も、1943年(昭和18年)頃に「中村航空機」へと改称し、軍需産業へと移行しました。
それまでタオルを製造していた工場には100台以上の織機が設置されていましたが、政府の命によりすべての織機が海軍へ供出され、鉄資源として再利用されました。
工場ではタオルの製造を完全に停止し、代わって航空機の主翼や尾翼、胴体部品などの製造が開始されました。
戦局が進むにつれて深刻な労働力不足が発生し、女子勤労動員や学徒動員によって、若い女性や学生たちが軍需工場に動員されるようになります。
また、同年には政府主導による不要不急産業の統廃合が加速し、今治のタオル業界にも大きな打撃が及びました。
戦前には79社を数えていたタオル業者は、わずか23社にまで減少。織機の台数も4009台から803台へと激減し、さらに綿糸などの原材料供給も厳しく制限されたことで、タオル生産は事実上ストップする事態に追い込まれました。
そして追い討ちをかけるように、昭和20年(1945年)7月26日、今治市は3度にわたる大規模空襲を受け、市街地のおよそ80%が焼失。
タオル工場や繊維関連施設も壊滅的な被害を受け、生き残った業者はわずか9社、稼働可能な織機は275台にまで減ってしまいました。
多くの職人が職を失い、今治のタオル産業はまさに存亡の瀬戸際に立たされたのです。
こうした戦火の中、中村航空機の工場も大きな被害を受け、航空機部品の製造は完全に停止。戦争の終結とともに、軍需産業からの撤退を余儀なくされました。
終戦後の「中村株式会社」としての再出発
終戦を迎えた1945年、日本全土は焦土と化し、今治のタオル産業も例外ではありませんでした。工場や設備の多くが焼失し、職人たちも職を失い、まさに存亡の危機に立たされていました。
しかし、戦前から受け継がれてきた職人の技術と、タオルづくりに懸ける情熱は、決して消えることはありませんでした。多くの困難を抱えながらも、関係者たちは復興への一歩を着実に踏み出していきます。
その中で、中村合名会社は1946年(昭和21年)に「中村株式会社」として再スタートを切りました。
資本金は100万円。物資も人手も不足する中での厳しい再出発でしたが、職人たちの粘り強い努力と確かな技術に支えられ、今治のタオル産業は少しずつ、その力を取り戻していったのです。
「シャディ中忠」贈り物としての今治タオル
1985年(昭和60年)に中村株式会は、ギフト販売大手「シャディ株式会社」と提携し、資本金2,000万円で「シャディ中忠」が設立されました。
この新会社は、タオルメーカー兼産地問屋として、今治のタオル産業の発展に寄与しながら、全国規模での流通拡大を目指しました。
贈り物としてのタオルの価値を高めた「シャディ中忠」の存在は、今治タオルを“贈答品”へと押し上げる原動力となり、今治という地域ブランドそのものの認知度を高めることにもつながりました。
中村忠左衛門の名を継ぐ「中忠株式会社」
そして、2011年(平成23年)。
長年にわたり資本提携を続けていたギフト大手・シャディ株式会社から株式を取得し、今治の老舗タオルメーカーは再び独立の道を選びました。
それは単なる経営体制の変化ではなく、創業者・中村忠左衛門の名を冠した「中忠株式会社(中忠)」としての、新たな時代への船出でした。
「より良いタオルを世に送り出す」
中忠株式会社は中村忠左衛門が掲げた「より良いタオルを、世に送り出す」という精神を受け継ぎ、今治タオルの伝統を守りながらも、時代の変化に寄り添うものづくりを追求し続けています。
なかでも、創業者の名を冠したフラッグシップライン「中村忠左衛門コレクション」は、厳選された素材と熟練の職人技によって仕上げられた逸品として、贈答用や高級ラインでも高い評価を受けています。
厳選された素材、研ぎ澄まされた技術、そして創業者の理念。
いまもなお、中村忠左衛門の精神は、今治の地で、静かに、そして力強く息づいているのです。