「吉祥寺・吉祥禅寺(きちじょうじ・きちじょうぜんじ)」は今治市新谷に位置する静かな禅寺で、海禅寺の第4代住職であり、復興に尽力した萬化月龍和尚の弟子である蘭庭彗秀和尚が、寛永年間(1624年~1644年)に創設しました。
椿の名所
吉祥寺の裏にある鷹取山(たかとりやま)は知る人ぞ知る椿の名所として知られています。
この椿は1980年代から坂野泰堂住職が育てたもので、その数は何千本にもわたり、五百種類以上に及びます。毎年2月下旬には美しい花を咲かせ、多くの人々を魅了します。
事前に連絡すれば、訪れることが可能です。また、2004年からは吉祥禅寺と今治椿同好会が共同で「椿まつり」を開催しており、多くの観光客が訪れています。
さらに、目通り2.7メートル、樹高30メートル、樹齢170年以上と推定される大きなモミの木があり、これは古老の話によれば落雷で主幹が折れ、そこから三本の芽が伸びたものです。
裏山の歴史的価値
鷹取山は、ただ椿の名所として知られているだけでなく、歴史的にも重要な場所です。
昭和5年から昭和6年(1930年、1931年)頃、この裏山からは多くの土器や玉類、銅鏡が出土しました。
さらに、昭和39年(1964年)の水道工事でも須恵器が発見されており、考古学的な調査の結果、この周辺には古墳が存在することが確認されています。これらの遺物や古墳の発見から、吉祥寺の裏山が地域の歴史や文化に深く結びついていることがわかります。
鷹取山に伝わる伝承
鷹取山には、お産のご利益があるとして知られている 「鷹取殿(たかとりでん・鷹取神社)」があり、戦国時代にまつわる伝承が語り継がれています。
天正年間(1573〜1591年)、今治市の鷹取山に築かれた標高314メートルの「鷹取山城」の城主は、正岡紀伊守(まさおか きいのかみ)でした。天正十三年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐の際に、伊予国(現:愛媛県)の攻略を任された小早川隆景(こばやかわ たかかげ)が城を夜討ちし、激しい戦闘が繰り広げられました。
しかし、鷹取山城は簡単には落ちず、しびれを切らした小早川軍は和議の申し入れを行い、正岡紀伊守に「つづら」(大きな箱)を送りました。
このつづらが罠でした。
城内に送られてきた最初のつづらを開けると、中から蜂の群れが飛び出しました。兵士たちは突然の蜂の襲撃に次々と刺され、城内は大混乱に陥りました。この予想外の攻撃に、兵士たちは対応できず、混乱が続きました。
その後、また新たなつづらが城に届けられます。前回の蜂の恐怖が強く残っていた兵士たちは、「また蜂が入っているに違いない」と考え、今回は慎重に処分するために火をつけました。
しかし、今回のつづらには火薬が仕込まれており、つづらは大爆発を引き起こします。つづらの中身は蜂ではなく、まさに現代でいう爆弾が仕掛けられていたのです。この爆発によって城はさらに大きな被害を受け、兵士たちは混乱の極みに達しました。
さらにこれを合図にして小早川軍が一気に攻め込み、ついに鷹取山城は落城してしまいました。
落城したその夜、正岡紀伊守とその夫婦、家族、そして忠実な家臣たちは、月明かりを頼りに吉祥寺の裏手にそびえる鷹取山へと逃げ込みました。城を守り続けた彼らは、最期の望みをかけて山中に身を隠しましたが、追手の包囲から逃れる道はもはや残されていませんでした。やがて、正岡紀伊守とその妻は覚悟を決め、共に切腹する決意を固めました。
夫妻がこの運命を受け入れる中、奥方は「国家安康、災難削除、人畜平安を守護する」という誓いを立てました。
さらに奥方は妊娠しており、そのお腹には新しい命が宿っていました。奥方はその子供のことを思い、「わが霊は、永遠に妊婦を守護し、安産を遂げさせ、男児には『福徳知恵』を、女児には『端正麗姿』を与える」とさらなる誓いを立て、自ら命を断ちました。
それから時が流れ、吉祥寺の住職であった寛嶺(かんれい)の夢枕に、正岡紀伊守の奥方が現れました。奥方は静かに語りかけ、供養を求めました。翌朝、住職はその夢を忘れず、正岡夫婦のために墓石を作って供養を行いました。
その後、夫婦の墓石は何度か修繕や刻み直しが行われましたが、奥方の法名が刻まれた側にだけ、不思議なことに白い線が現れたといいます。人々はこの白い線を、奥方が生前に巻いていた腹帯の白い布の跡ではないかと考え、地域の人々の間で語り継がれています。
やがて紀伊守夫妻の墓石は「安産の仏様」として崇拝されるようになり、鷹取殿と名付けられた小さな社殿が建てられ、本尊として祀られるようになりました。
この墓石には、安産を願う多くの参拝者が訪れ、そのご利益を受けたと伝えられています。
その数は計り知れず、鷹取殿には、安産や子授けのご利益に感謝する人々が奉納した小さな着物や写真、赤ちゃんのよだれかけが所狭しと並べられています。これらは、無事に子供を授かり育てることができた人々の感謝の思いが形となったもので、現在でもその信仰は続いており、多くの参拝者が鷹取殿を訪れています。
「鷹取祭」
鷹取殿は、正岡紀伊守の末裔である清水一族が長年にわたってその霊を供養してきました。現在では吉祥寺がその役割を引き継ぎ、大切に守っています。
毎年、旧暦の四月十三日には「鷹取祭」という祭りが行われ、地域の人々が集まって安産や家族の健康を祈ります。この祭りは、地元に根付いた大切な行事として今も続いており、地域の人々にとって大切な祈りの場となっています。
安産の伝承と吉祥寺の信仰
吉祥寺は鷹取殿の歴史と伝承を背負い、鷹取山全体が霊域とされています。また、境内にはお経を埋めた「経塚碑」も残されており、歴史的な重要性も高い場所です。
吉祥寺の本尊はもともとは阿弥陀如来でしたが、後に災難消除や家運上昇、安産、厄除け、転禍招福のご利益があるとされる「聖観音菩薩」へと変わりました。こうして、吉祥寺は安産や子授けを願う多くの人々にとって、今も変わらぬ信仰の場として大切に受け継がれています。