愛媛県今治市朝倉にある「満願寺(まんがんじ)」は、長い歴史を持つ古刹で、地元の人々には「こんぴらさん」の愛称で親しまれています。この寺は、もともと三論宗の寺院として設立され、後に真言密教に改宗した重要な霊場としての歴史を辿ってきました。
「光の秘宝」満願寺の創建伝説
満願寺の起源は伝説から始まります。
はるか昔、この地に住む村人がある日、山の中で光り輝くものを目にしました。その光は、何とも言えない神秘的な輝きであったため、村人はその光に崇敬の念を抱くようになり、毎日のように祀り物を捧げるようになりました。
やがて村全体がその光のある場所を聖なる場所とみなし、小さな祠が建てて村として信仰を始めました。この出来事が、後に満願寺の創設のきっかけとなったと伝えられています。
伝説によると、後に村人が見つけたその光り輝くものは、満願寺の本尊である金毘羅権現の後ろ祀られることとなりました。以降、この光は「絶対の秘宝」とされるようになり、厳重に隠されたため、誰の目にも触れることがなくなりました。
現在もこの秘宝の正体は謎のままで、満願寺にある神秘の存在として語り継がれています。
記録に残る満願寺の歴史
記録に残る満願寺の創設は、天平6年(734年)、南海道を巡錫していた道慈律師(どうじりっし)がこの地に立ち寄り、本尊「薬師如来」の開眼法要を行ったことが始まりとされています。
「道慈律師」
道慈律師は、大和国添下郡出身の人物であり、俗姓は額田氏。大宝元年(701年)に遣唐使「粟田道磨」に同行して唐(中国)に渡りました。
道慈律師が中国に渡った理由は、仏教の先進地であった唐での学びを深めるためでした。当時、唐の都である長安は文化・宗教の中心地で、多くの僧侶が訪れていました。
唐に無事到着した道慈律師は、長安にある有名な寺院「西明寺」に16年間留まり、仏教の教え、とりわけ「三論宗(さんりんしゅう)」の教えを学びました。
「三論宗」
中観派はインド仏教の中でも重要な哲学体系で、龍樹(ナーガールジュナ)によって体系化されたものです。
龍樹は、大乗仏教において重要な人物であり、その思想の中心には「空(くう)」の概念があります。「空」とは、すべてのものに実体がなく、固定された本質は存在しないという考えです。
これは、世界のすべての現象が互いに影響し合い、絶えず変化しているという考え方です。そして、人は物事への執着を手放すことで、悟りの境地に達することができるとされています。
この「空」の教えは、中国に伝わり、三論宗として発展しました。三論宗の名前は、三つの主要な経典『中論』『百論』『十二門論』に由来しています。これらの経典は、龍樹や弟子の提婆(アーリヤデーヴァ)によって書かれ、物事の実体を否定する「空」の思想を説いています。
三論宗では、物事には本質的な実在はなく、すべてが相対的なものであると考えます。この思想に基づき、固定的な考え方や価値観を超越し、あらゆるものが変化することを理解することで、人々は執着から解放され、心の平安に到達できるとされました。
この教えは中国だけでなく日本にも伝わり、奈良時代には日本の仏教にも大きな影響を与えました。南都六宗の一つとして、日本でも三論宗の教義が学ばれ、仏教思想の発展に寄与しました
「仁王経」
道慈律師が唐に滞在していた時、宮中で『仁王経(にんのうきょう・仁王般若経)』を講じる高僧百人の一人に選ばれたとされています。
『仁王般若経』は国家安泰や社会平和を祈るための重要な経典であり、国家を護る仏教の教えを説くものです。この経典を講じる役割を担う僧侶たちは、仏教的知識や徳を備え、国家に貢献することができる最高位の僧たちで構成されていました。
当時の唐は文化的・宗教的に高度に発展しており、数多くの国内外の僧侶が学びを求めて訪れる中で、外国人が宮廷で『仁王般若経』を講じる僧侶に選ばれるのは極めて稀なことでした。
「虚空蔵求聞持法」
さらに、唐に滞在中に中国密教の開祖「善無畏(ぜんむい)」から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を伝授されたとされています。
善無畏は、7世紀後半から8世紀初めにかけて活躍したインド出身の高僧です。母国のインドで密教を学んだ後、中国の唐の都・長安に渡って密教を伝えました。唐の皇帝であった玄宗(げんそう)からも厚く信頼され、その教えは唐の仏教界で非常に重要な位置を占めました。
「虚空蔵求聞持法」は、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とし、その無限の知恵と慈悲を得るための修行法です。虚空蔵菩薩は、仏教において無限の智慧と広大な慈悲を持つ存在として崇められており、この修行を通じて修行者はその知恵を授かり、仏教の教えを深く理解することができるとされています。
この修行は、1日に1万回の虚空蔵菩薩の真言(マントラ)を唱えるという厳しい行を100日間続け、最終的には100万回の真言を唱えることを目指します。
この修行を修めた者には、無限の記憶力が与えられるとされ、見聞きしたことは忘れなくなると伝えられています。
道慈律師が満願寺創設に携わる
養老元年(717年)、帰国した道慈律師は大安寺に住むようになりました。大安寺は当時、日本最大級の寺院の一つであり、多くの僧侶が修行していた重要な寺院です。道慈律師はこの大安寺を拠点として、三論宗の教えを広める活動を積極的に行いました。
道慈律師は、南海道を巡錫しながら教えを広めていた際に、現在の今治市の朝倉郷に立ち寄り、満願寺の創設に携わったと伝えられています。
このため、当時の満願寺は三論宗の寺院として奈良の大安寺を本山としていました。
弘法大師と真言密教への改宗
天長6年(829年)11月、真言密教の師「空海(弘法大師)」が本山である大安寺の別当に任じられたことで、満願寺は真言密教の教義を取り入れることになりました。
この時、満願寺は一寺を建立し、密教の教えを取り入れた「密寺」として歩みを進めたと伝えられています。
密教霊場としての繁栄
源平合戦後の文治元年(1185年)、鎌倉幕府は伊予国の守護職に佐木三郎盛綱を任命しました。この守護職が就任したことにより、朝倉郷にはその被官である長井斎藤氏が来住し、満願寺は守護所との強い関係を築きました。
守護や地頭の勢力を背景に、満願寺は密教の霊場としてさらに栄え、多くの信仰を集める寺となりました。
鎌倉末期には、満願寺は府中高橋郷(現:今治市高橋)出身の僧「凝然国師」の指導のもと、一時的に東大寺の戒壇院に属する寺院となりました。
その後、南北朝時代には大内義弘の子孫である石丸氏や河野氏の支流である井門氏など、伊予国の有力な武士からの信仰を得て、さらに繁栄していきました。
戦国時代における満願寺
戦国時代に入ると、満願寺は霊仙山城の城主・中川山城守親武の祈願所として重要な役割を果たしました。
戦国時代の伊予国では、地域の武将たちが満願寺に深い信仰を寄せ、南條氏、堀川氏、垣内氏、麻生氏といった有力な家々が満願寺を支えました。
しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐によって霊仙山城が落城すると、満願寺もその戦火に巻き込まれて焼失してしまいました。
再建と金毘羅大権現の信仰
寺が焼失した後も、慶長年間(1596〜1615年)に賢舜上人の手によって再建が進められました。この再建時、地域を戦乱や疫病から守るため、元禄5年(1692年)に、本堂の北方に位置する山頂に金毘羅大権現を勧請しました。
金毘羅大権現は、香川県琴平町の象頭山に天竺(インド)から飛翔して鎮座したとされる神です。この神は、山岳信仰と修験道が融合して生まれ、航海の安全を守る守護神として広く信仰されています。
満願寺に祀られた金毘羅大権現もまた、地域の厄除け守護神として広く信仰され、寺は再び信仰の中心地としての役割を果たすようになりました。
特に、毎年の正月、3月、5月、7月、10月、11月の10日には盛大な祭礼が行われ、競馬や植木市、農具市が立ち、近郷の善男善女が集まり、非常に活気に満ちた光景が広がっていたと伝えられています。
明治時代の神仏分離と満願寺の危機
明治期には明治政府の神仏分離政策によって廃寺の危機に陥りましたが、当時の住職・恭恵の機転により、不動堂に本尊を移し替えることで危機を脱しました。
しかし、国家神道政策の更なる圧力により、一度は廃寺に追い込まれました。それでも、地域の檀信徒たちの強い信仰心が寺を支え、再び満願寺は復興を遂げました。
現代へ繋がる信仰
戦時中、満願寺は武運長久や兵士たちの無事を祈る場所として、地元の人々にとって重要な祈りの場となっていました。その後、時代が変わるにつれて、現在では交通安全や家内安全を祈願する参拝者が多く訪れるようになりました。
地元の人々は、満願寺を親しみを込めて「金毘羅さん(こんぴらさん)」と呼び、大晦日やお正月には特に多くの参拝者が訪れます。年末年始の節目には、厄除けや無病息災、家族の安全を祈願する人々で寺の境内は賑わい、地域に根付いた信仰の象徴として、今も大切にされています。
現代の満願寺とその信仰
満願寺は、令和3年に33年に一度の本尊薬師如来と金毘羅大権現の開帳が行われ、その時にはさらに多くの参拝者が訪れました。この開帳を通じて、満願寺の信仰の深さと歴史の重みが改めて認識され、現在も地域の霊場としてその役割を果たしています。
金比羅堂の伝説
満願寺の金比羅堂には、不思議で神秘的な伝説が伝わっています。
ようやく静けさが戻ったある日、村の一角が光り輝いているのを目にした満願寺の僧侶が、恐る恐るその場所に近づいてみると、そこには金色の「幣」(ぬさ)が置かれていました。僧侶は「天から金幣が降りてきたのだ」と感銘を受け、伏して拝みました。そしてその金幣を大切に寺に持ち帰り、「これは金毘羅大権現の加護によるものだ」として、慎重にお祀りしました。
それから数年が経ち、ある日、山伏姿の僧侶が満願寺を訪れ、「こちらの寺が金毘羅大権現を崇拝していると聞き、その尊像を彫らせていただきたい」と申し出ました。満願寺の僧たちは快くこれを承諾し、その山伏は斎戒沐浴を行い、心身を清めて8日間かけて彫像を完成させました。山伏は「この像は一刀三礼の作です。末永く大切に祀ってください」と言い残し、その後姿を消してしまいました。
その後、この尊像は満願寺の金比羅堂に祀られ、「不動金比羅吉祥寺の尊像」として崇拝されています。これを機に、寺は院号を「金寿院」と改め、さらに霊験あらたかとされ、多くの善男善女が訪れる信仰の場所となりました。
暴力団追放運動「金羅騒動」
文久3年(1863年)に発生した「金毘羅騒動」は、今治藩と朝倉下村の若者たちが関わった暴力的な衝突事件です。この事件は、地域での暴力団的な存在を排除するための闘争として歴史に名を残しています。
当時、朝倉下村は幕府の直轄地(天領)であり、賭博が公認されていました。旧正月や縁日には、多くの丁場(賭博場)が立ち、賑わいを見せていました。
賭博場では若者たちが場所代を徴収し、秩序を保っていましたが、今治藩の相撲取り「虎ケ獄」が暴力に物を言わせて、不当に金を集め始めたことが事件の発端となります。
虎ケ獄は、現代で言う「暴力団(半グレ)」に似た存在だったと考えられます。虎ケ獄は、相撲取りとして鍛え抜かれた力や威厳を背景に、自身の力を乱用し、地域の規則を無視して金銭を得ようとしました。
この行為に怒ったのが朝倉の若者たちです。すぐに口論なってそのまま暴力沙汰に発展。刀や槍を使った大規模な喧嘩となりました。
この衝突では一人が即死し、三人が負傷する事態にまでエスカレートしました。
役人たちは仲裁を試みましたが、暴力の連鎖をを止めることはできませんでした。結果的に、主犯である虎ケ獄は今治へ逃走し、その後大阪で捕えられましたが、24歳で獄中死しました。
一方、朝倉側の9名は松山藩の北屋敷に投獄され、3年間の牢獄生活を送ることとなりました。この騒動は後に「金毘羅騒動」として知られるようにり、「暴力団追放運動」として今治の歴史に残りました。
天然記念「しぐれ桜」
今治市朝倉にある満願寺の「しぐれ桜」は、市の天然記念物に指定されている樹齢200年以上の歴史を持つ桜です。幹周りは111cm、樹高は7mに達し、毎年春になると淡いピンクの美しい花を咲かせ、その優雅な姿は訪れる人々を魅了しています。
もともとは石垣の上に根を張る親木と、石垣の下にあった若木の2本がありましたが、若木は残念ながら枯れてしまい、現在は親木1本。だけが残っています。
また、この桜は広島県宮島に伝わる「時雨桜」とも深い縁があります。宮島にあった「時雨桜」は1970年頃に失われましたが、その復活を願うプロジェクトが進行し、2009年には満願寺のしぐれ桜が接ぎ木され、宮島の大聖院に植樹されました。この絆により、満願寺と宮島の間には深い結びつきが生まれました。
数多くの見所
満願寺の境内には、その他にも数々の歴史的文化財があり、鎌倉時代に建立された「長井斉藤別当実盛の供養塔」や、戦国時代の「朝倉郷代官・井門長政の墓」、大内氏に関連する「石丸忠兵衛の墓」などが残されています。また、霊仙山城の中川山城守親武の客将「南條法橋入道兼保の墓」もあります。
これらの文化財から、満願寺がいかに多くの歴史的背景を持っているかが理解できます。
さらに、満願寺は信仰の場としても広く親しまれています。奥には「大師堂」があり、天保3年(1832年)に建立された「弘法大師像」が安置されています。霊験あらたかなこの場所は、参拝者にとって重要な場所であり、満願寺の奥の院に位置しています。絵馬堂の奥にある「満願寺古墳」は、この地が古代から重要な信仰の場所であったことを物語っています。
また、本堂には平安時代に作られた「薬師如来立像」が安置され、十二神将や日光・月光菩薩立像とともに祀られています。護摩堂には江戸時代に作られた「不動明王坐像」があり、これらの仏像が満願寺の歴史的価値を高め、信仰の象徴として尊ばれています。さらに、鐘楼堂や仁王門といった建造物も満願寺の壮麗な雰囲気を引き立てており、訪れる人々を魅了しています。