愛媛県今治市朝倉に位置する「満願寺(まんがんじ)」、お寺でありながら地元の人々から「こんぴらさん」として親しまれています。
このお寺の起源は伝説から始まります。
遠い昔のこと、一人の村人がこの地で光り輝くものを目にしました。その神秘的な光に導かれ、村人はその場所に祀り物を捧げました。これが満願寺の始まりの始まりと言われています。
今では、金毘羅殿の背後に秘められたその秘宝の正体は誰も知りませんが、静かに人々の信仰と共に時を刻んでいます。
大宝元年(701年)になると、道慈律師が遣唐使として中国で三論の法を学び、帰国後に霊仙山で薬師如来の開眼法要を行ったことにより、寺が創建されました。当初は三論宗として創建されたものでしたが、後に空海(弘法大師)の影響で真言密教が導入されることになりました。
戦国時代には、霊仙山城主・中川山城守親武の祈願所として満願寺は重要な役割を果たしていました。しかし、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐によって寺は無情にも焼失してしまいました。
しかし、慶長時代に再建の努力が続けられ、再建された満願寺には金毘羅大権現(こんぴらだいごんげ)が厄除け守護神として勧請されました。
金毘羅大権現は、香川県琴平町の象頭山に天竺(インド)から飛翔して鎮座したとされる神です。この神は、山岳信仰と修験道が融合して生まれ、航海の安全を守る守護神として広く信仰されています。その由来はサンスクリット語の「クンビーラ」(鰐)にあり、インドのガンジス川に住む鰐を神格化した仏教の守護神です。魚身で蛇形をし、尾に宝玉を蔵する姿とされ、薬師十二神将の筆頭である「宮毘羅(くびら)大将」、十六善神の禁毘嚕と同体とされています。
明治期には明治政府の神仏分離政策によって廃寺の危機に陥りましたが、当時の住職・恭恵の機転により、不動堂に本尊を移し替えることで危機を脱しました。しかし、国家神道政策の更なる圧力により、一度は廃寺に追い込まれました。それでも熱心な檀信徒の根強い信仰により、満願寺は再び復興しました。
令和3年には、33年に一度の本尊薬師如来と金毘羅大権現の開帳が行われました。この時、多くの参拝者が訪れ、満願寺の信仰の深さと歴史の重みを再確認する機会となりました。
満願寺の境内には多くの文化財があります。
戦国時代の供養塔である実盛供養塔、雨乞いのための燈籠である雨乞燈籠、寺の入口にある仁王門、一夜で彫られた石である一夜彫りの丁石、そして「しぐれ桜」と名付けられた美しい桜も有名で、春には桜の花が咲き誇り、訪れるたびに新たな発見と感動を私たちに与えてくれています。