別宮大山祇神社の隣に鎮座する、四国八十八箇所第55番札所「南光坊(なんこうぼう)」、正式名称「別宮山(べっくさん)光明寺金剛院(こうみょうじこんごういん)南光坊」は四国霊場の中で唯一「坊」という名を持つ珍しいお寺です。
また、航海の神を祀り、日本総鎮守・伊予一の宮である大山祇神社の別当寺として、古の時代から深い歴史の中にその名を刻んできました。
大山祇神社の系譜と歴史
南光坊の歴史は、推古天皇の時代(594年)に天皇の命で、大三島東海岸に遠土宮(おんどのみや)が祀られたことに始まります。
大宝元年(701年)になると、国司の越智玉澄が大三島の西海岸に大きな社殿を建設し始めました。これが「大山祇神社(大山積神社)」の始まりです。
社殿の建築は順調に進んでいましたが、推古天皇には一つ大きな悩みがありました。それは、たとえ大山祇神社(大山積神社)の社殿が完成しても、人々が参拝するためには海を越えなければならないことです。当時の航海は、現在のような技術や安全対策が整っておらず、特に悪天候の際には命の危険を伴うものでした。参拝に訪れる人々にとって、それは大きな障壁となり、神への祈りを捧げたいと願う心の負担にもなりかねませんでした。
そこで、天皇は人々が天候に左右されずに安全に参拝できる場所を設けるべきだと決意しました。大宝3年(703年)、文武天皇の勅命を受けた河野氏の祖「越智玉興(おちたまおき)」の弟、「越智玉澄(おちのたますみ)」が、大山積神を伊予国越智郡の日吉村に祀り、新たな社殿である「別宮大山祇神社(別宮)」の建設に着手しました。
和銅5年(712年)には、この「別宮大山祇神社」が完成し、人々は海を越えずに大山積神へ祈りを捧げられるようになりました。
一方で、大三島の本宮である神社はまだ建設の途中で、7年が経過した養老3年(719年)、ついに大三島に壮大な社殿「大山祇神社(大山積神社)」が誕生しました。
大山祇神社は大山積神を祀る重要な拠点となり、伊予国や大三島をはじめとする地域全体で深い信仰の対象となりました。この神社は「日本総鎮守」として全国的な尊崇を集め、海上の守護神として、また航海安全や五穀豊穣を祈願する場所として人々から信仰されてきました。
移設の伝承「行基」①
同じ時期、文武天皇の勅命により、大三島では大山祇神社のための「別当寺(神社の管理や運営を行う役割)」として、神仏の儀式や祈祷を行う「法楽所」にあたる24の坊(僧坊)が建てられ始めました。
法楽所とは、仏教や神道における儀式や祈祷が行われる場所で、僧侶や神職が集まり、神仏への感謝や祈りを捧げる場です。特に、大規模な法要や祭祀の際に、多くの参詣者が訪れ、共に祈りや供養を行うための重要な拠点としてなっていました。
大山祇神社完成前に、法楽所として各地に作られていた24の坊は完成しており
別宮大山祇神社の完成と同時に、「大三島大山祇神社」から社家104人が移住し、24坊のうち8坊(南光坊・中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊)とその供僧が近隣に移設されました
移転後、これら8坊(南光坊含む)は別宮大山祇神社(大積山光明寺)の別当寺となり、南光坊は「光明寺金剛院南光坊」と称するようになりました。
この8坊の移転を指揮したのが、668年から749年に活躍した、奈良時代を代表する僧侶「行基(ぎょうき)」です。
行基は、社会事業にも多大な貢献を果たした人物で、農業用のため池や灌漑施設、道路、橋などの建設など、数多くのインフラ事業を行いました。
建設現場での行基は、現地の農民たちを土木チームとして組織し、効率的に作業を進める優れた現場監督として活躍しました。計画に基づき、多くの建設事業が着実に進行し、その結果、精度と耐久性を誇る施設が数多く完成しました。これらの施設は、現在でもその機能を維持しており、長年にわたって地域社会に貢献し続けています。
つまり、別宮大山祇神社に関わる8坊の移転は、この時代で最高峰の「建築プロフェッショナル」が手がけた国家事業でした。
行基の周到な計画のもとに、行基の指導のもと、現地の労働者や農民が組織され、効率的に作業が進められ、8坊が新たな拠点へと再配置されました。
そして、移転を果たした8坊を、著名な僧侶であった行基自身が「日本総鎮守三島の御前」と称し、厳かに奉祭しました。この奉祭により、移転された8坊は、地域社会における宗教的な権威と役割をさらに強化し、重要な信仰の拠点として機能し続けることとなりました。
移設の伝承②
移転の時期については諸説あり、正治年中(1199~1201年)に行われたとする説もあります。
四国霊場第55番札所の別当寺
弘仁年間(810〜824年)に弘法大師(空海)が別宮大山祇神社を参拝し、隣接する坊で法楽をあげました。これによって、四国八十八箇所が成立した時に、別宮大山祇神社(大積山光明寺)が四国霊場第55番札所と定められました。
この時代、南光坊はあくまで別当寺であったため、第55番札所である別宮大山祇神社の納経だけをおこなっていました。
焼失と復興
天文20年(1551年)、別宮大山祇神社は落雷による火災で社殿が焼失しました。その後、天正3年(1575年)に、来島村上氏(村上水軍)の当主であった「来島通総(くるしま みちふさ)」によって再建されました。
天正6年(1578年)、伊予全域を襲った長宗我部氏による兵火によって、8坊はすべて焼失してしまいました。これにより、南光坊を含む寺院も一時的に消失することになりましたが、南光坊は別宮大山祇神社の別当寺として再興されました。
さらに、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐によって、伊予を治めていた河野氏も打撃を受けます。河野氏の当主・河野通直(こうのの みちなお)は、小早川隆景の説得により降伏しましたが、通直は大名としての地位を失い、河野氏の領地も没収されてしまいました。
天正15年(1589年)には、竹原(広島県)に逃れていた通直が後継者を持たないまま病気で亡くなったことで、河野氏は57代にわたる歴史を終えることとなりました。そして、河野氏が滅亡したことで、河野氏の領地や関連する社領・寺領も同時に失われてしまいました。
このとき、南光坊も含めた寺社が所有していた460石の領地も失われました。この「石(こく)」とは、江戸時代の日本で使用された収穫量の単位で、主に米の量を表します。
1石は約180リットルの米に相当し、1石で大人1人が1年間食べていけるとされていました。460石というのは、およそ460人分の年間の米の収穫量に相当するほどの農地になります。この広大な土地が没収されたことによって、南光坊やその他の坊の経済的基盤も大きく損なわれました。
江戸時代の繁栄
江戸時代における南光坊の繁栄は、今治藩主の藤堂高虎による再興から始まります。
慶長5年(1600年)、藤堂高虎が関ヶ原の戦いでの功績により今治藩主となると、南光坊は今治藩の祈祷所に指定され、藩の保護と財政的支援を受けるようになり、重要な寺院としての役割を取り戻しました、さらに、祭典料を賜ることとなり、薬師堂も再建されました。
藩主の松平(久松)公も南光坊を祈祷所として信仰し、祭祀料を奉納したと伝わっています。
この時期に、讃岐(現:徳島)の金毘羅大権現を南光坊に勧請し、金毘羅堂も建立されました。これにより、南光坊はさらに格式を高め、地域の人々や藩主にとって重要な信仰の場となりました。
江戸幕府が作成した全国6万1000の寺を収録した『寺院本末帳』には、南光坊が真言宗御室派総本山「仁和寺」を本寺とする中本寺(田舎本寺)であったことが記載されています。
南光坊は、仁和寺から「院家」の称号を賜った高位の寺院であり、この「院家」は格式の高い寺院に与えられる称号です。このことから、当時の南光坊が本山や中央の権威から重要視されていたことがわかります。
第55番札所「南光坊」の誕生
明治元年(1868年)、新政府は神仏分離令を発布しました。これは、長年続いてきた神道と仏教の混合(神仏習合)を解消し、神道を国家の宗教として明確に位置づけようとする政策の一環でした。この令は、神社と仏教寺院を分離し、神社での仏教的な儀式や習慣、仏像の安置を禁じる内容を含んでいました。
神仏分離令の発布に伴い、全国の神社から仏教的要素が排除され、仏像や仏具が移されたり破棄されたりするケースも多発しました。この結果、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と呼ばれる運動が起こり、寺院や仏教文化に対して過激な排除が行われる場面も見られました。この動きにより、多くの寺院や仏教施設が損壊・廃寺に追い込まれ、仏像や仏具も破壊されることが少なくありませんでした。
この流れの中で、南光坊も別宮大山祇神社から分離され、独立した寺院としての新たな道を歩むことになりました。
この再編に伴い、大山積神の本地仏であった「本地大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」をはじめ、両脇の二脇士、さらには十六王子の仏像が別宮から南光坊の薬師堂に移され、南光坊の本尊として新たに祀られることになりました。それまで南光坊は別宮の一部として大山積神の祭祀に深く関わり、神仏習合の象徴としての役割を果たしていましたが、この分離により別宮との関係は完全に断たれることとなりました。
再編後の南光坊は、仏教の独立した信仰の場として整えられ、四国八十八箇所霊場第55番札所という新たな立場を与えられました。
明治27年(1894年)には南光坊の山号が「大積山」から「別宮山」に改称され、「別宮山光明寺金剛院南光坊」としての存在が確立されました。この改称により、南光坊はさらに独自の地位を強固にし、地域の仏教信仰の中心として多くの巡礼者を迎え入れる霊場となったのです。
明治27年(1894年)には、南光坊の山号が「大積山」から「別宮山」に改称され、「別宮山光明寺金剛院南光坊」となりました。この改称によって、南光坊は別宮大山祇神社との分離独立がさらに進み、独自の存在として新たな地位を確立していきました。
大師堂の建造
大正5年(1916年)、当時の住職であった天野快道和尚の指導の下で、現存する大師堂が建造されました。この大師堂は、長州地方の大工たちの優れた建築技術が集結した建造物でした。
この大師堂の特徴は、屋根の四隅が軽やかに跳ね上がり、荒波を越えて進む船を思わせる外観にあります。特に、屋根の上に設置された相輪塔(そうりんとう)が、この船のような姿をさらに強調し、建物全体が力強くも美しいデザインとして文化的にも評価されています。
今治空襲で消失
昭和20年(1945年)8月、第二次世界大戦末期に行われた今治空襲によって多くの建造物が破壊されました。南光坊も例外ではなく、本堂や庫裡、その他の伽藍の多くが焼失しました。
空襲の中で焼失を免れたのは、金毘羅堂と大正5年(1916年)に建造された大師堂だけでした。
この大師堂は、その後も南光坊の象徴的な建物として残り、再建された伽藍と共に今日まで続いています。
現代につながる再建の歴史
ここからの南光坊の歴史は、戦後の復興期から現代に至るまで、さまざまな努力と関わりによって成し遂げられた再建の歴史になります。
まず、昭和53年(1978年)、当時の住職であった天野快道大僧正の縁により、南光坊は真言宗御室派から真言宗醍醐派に転派しました。天野快道大僧正は、京都の醍醐寺で座主を務めており、その関係で南光坊は醍醐寺の末寺として位置づけられることになりました。これにより、南光坊は真言宗醍醐派の信仰と文化に支えられ、新たな発展の道を歩み始めます。
昭和56年(1981年)には、ついに本堂が再建されました。この再建は、戦後に南光坊が取り組んできた復興の象徴であり、以前の本堂よりも約2倍の大きさで造られました。本堂の中心には、かつての本尊であった大通智勝如来の新たな坐像が安置され、両脇仏とともに再び信仰の中心となりました。
続いて、平成3年(1991年)には薬師堂が再建され、南光坊の復興はさらに進展しました。この薬師堂は、南光坊の霊場としての重要な役割を担う場所であり、巡礼者にとっても大切な拠点となっています。
平成10年(1998年)には、山門と鐘楼堂が完成しました。この山門は、壮観な四天王像が守護する威厳ある造りで、南光坊の入口として訪れる人々を迎え入れる象徴的な存在です。四天王像は平成14年(2002年)に安置され、南光坊の新たな顔として多くの参拝者に感銘を与えています。
平成22年(2010年)には大師堂が改修され、寺院全体の整備がさらに進みました。この大師堂は、1916年に建造されたもので、長州大工の技術が集結した文化的に重要な建造物です。
その後、平成25年(2013年)には、南光坊は真言宗醍醐派から再び真言宗御室派に復帰しました。長く歴史的に密接な関係を持っていた仁和寺を総本山とする真言宗御室派の末寺として、再びその地位を取り戻しました。これは南光坊の歴史において大きな転換点となり、再び仁和寺との強い結びつきを持つことになりました。
平成26年(2014年)には、南光坊の本尊である大通智勝如来坐像が開帳され、秘仏としての姿が一般に公開されました。この坐像は、戦後再建された本堂に安置されていたものであり、多くの参拝者がその姿を目にしました。また、同時に南光坊の本来の本尊であった不動明王立像も再建され、その姿が元の形に近い形で復元されています。
このように、南光坊の再建は、戦後の困難な時期を乗り越え、多くの人々の支えと努力によって少しずつ進められました。
現在の南光坊は、長い歴史の中で培われた信仰と文化を受け継ぎながら、現代の寺院としての役割を果たし続けています。
本尊「大通智勝如来」
南光坊の本尊である「大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)」は、『法華経』の化城喩品第七に登場する仏で、過去の世で釈迦如来の父であり、師として崇められています。この仏は、神道の神である大山祇大明神の本地仏(仏教の本質的な姿)として信仰されており、特に伊予の豪族河野氏とその率いる河野水軍に深く信仰されていました。河野氏は瀬戸内海で強大な勢力を誇り、航海や海上交通において大山祇大明神とその本地仏である大通智勝如来に祈りを捧げ、海上の安全を願ったとされています。
大通智勝如来を本尊としているのは、四国八十八箇所霊場で霊場の中で南光坊だけです。この仏像は、明治時代の神仏分離令により、隣接していた別宮大山祇神社の本殿に祀られていた大通智勝如来や十六大王子が移され、南光坊が寺院として独立することになった結果、南光坊の本尊として受け継がれたものです。
このような歴史的経緯により、南光坊は特異な存在感を持っています。
「川村驥山の菅笠」
「川村驥山(かわむら きざん)」は昭和を代表する天才書道家で、1950年に書道家として初めて芸術院賞を受賞しています。娘と一緒に匿名で四国遍路をおこなっており、1954年に南光坊に訪れました。
その際、驥山の筆の技に驚いた住職の望みに応え、菅笠を奉納しました。この時の菅笠は、現在も納経所に保存されており、笠には金剛経の一節「應無所住而生其心」(どこにもとどまらず、自由自在であれ)と書かれています。
この言葉は、驤山が書に込めた深い哲学を象徴するものです。
書道家「織田子青」との関係
南光坊には、地元の著名な書道家「織田子青(おだ しせい)」に関連する石碑がいくつも点在しています。織田子青は、1896年(明治29年)に愛媛県周桑郡石根村(現小松町)に生まれ、本名は源九郎、書道家としての号が「子青」でした。書道への情熱とその功績は、地元だけでなく全国的に広く知られています。
大正3年(1914年)に愛媛県師範学校を中退後、上京して書道の道を志し、その後愛媛県に戻り、今治実科女学校(現 明徳高校)の教頭を務めながら地元の教育にも力を注ぎました。書道家としての地位を確立し、昭和3年(1928年)には「聖芸書道会」を創立し、雑誌「書神」を発行して後進の指導にも尽力しました。
篆書、隷書、楷書、行書、草書など、幅広い書体に精通し、「かな」や調和体(複数の書体を組み合わせたスタイル)にも優れた技術を持っていた織田子青。代表的な著書には、『学書指針』『いろは帖』『楷書指針』『婦人四季の書簡』などがあります。昭和8年(1933年)には東方書道展で最高賞を受賞し、関西書道展でも最高賞を獲得するなど、数々の栄誉を受けました。
愛媛の書道界に大きな影響を与え、昭和36年(1961年)には愛媛県教育文化賞を受賞、昭和48年(1973年)には勲五等瑞宝章を授与されるなど、その功績は広く評価されています。
昭和59年(1984年)6月17日に87歳で逝去しましたが、南光坊に建てられた石碑がその功績を後世に伝えています。
3つに並んだ石碑と筆塚
南光坊の境内には、三つ並んだ石碑があり、中央には「筆塚」と刻まれています。筆塚は、書道家や文筆家の功績をたたえる供養塔で、今治市伊予大島から産出する高級石「大島石」を使用した堂々たる石陣です。これらの石碑は、子青とその弟子らによって建てられたものです。
筆塚「驥山翁笠寺碑」
山門側に位置する石碑「驥山翁笠寺碑(きざんみのかさてらひ)」は、織田子青が尊敬していた書道家、「川村驤山(かわむら きざん)」との出会いを記念して建立されました。
題字は子青の先輩で、篆刻家・書家の巨匠「石井雙石(いしい そうせき)」によって掘られました。
1954年に南光坊に訪れた際に、偶然に織田子青と出会いました。この特別な出会いを記念して、10年後に石碑が建てられました。
石碑の表面には、当時83歳だった驤山による五言絶句「山をよじりまた水を渡り 、八十八霊区、寺々詩偈を留む、歴遊暦日無し」と刻まれています。
(現代語訳)「山を登り、川を渡りながら、八十八の霊場を巡った。私は各寺で詩や偈(仏教の詩)を残したが、旅には終わりがない」
この詩は、驤山が四国遍路を通じて多くの困難を乗り越え、各寺で心に残る思い出を刻みつつも、まだ旅はおわらないんだ、と83歳を迎えてもまだ歩みを続ける様子が詠まれています。
裏面には「回顧十年昭和三十九年四月十四日造之」と、子青の句「呼びとめて遍路笠をぞぬがせける」も彫られています。
(現代語訳)「声をかけて、巡礼者の笠を取らせた」
この句は、驤山との出会いの瞬間の喜びを表現しています。
筆塚「芳翠翁瓢寺碑」
本堂側の石碑「芳翠翁瓢寺碑」 (ほうすいおうひさごでらひ)」は、先輩の書道家「松本芳翠(まつもと ほうすい)」との友情を記念したもので、これも石井變石が手がけました。
松本芳翠は、明治26年に伯方島で生まれ、15歳で上京して書道を学びました。昭和7年に東方書道会を結成し、日展審査員を務め、さらに芸術院賞や文部大臣賞を受賞するなど、日本の書道界で大きな功績を残しました。
この石碑には、昭和41年(1966年)に松本芳翠が愛用していた瓢(ひさご)を手放す際に詠んだ五言絶句が刻まれています。
「瓢や吾と汝、世を歩って幾浮沈、酔裏乾坤あり、ともに論ぜん昔の心」
(現代語訳)「瓢よ、お前と私は共にこの世を歩き、多くの浮き沈みを経験してきた。酔っている中でも天地(乾坤)を思い、今も昔の心を共に語り合おう」
この詩が読まれたのは、驤山が体のために断酒を始めた年でもあり、芳翠が長年の友として親しんできた瓢、そしてお酒との別れを惜しんでします。
裏面には、織田子青の句が以下のように刻まれています。
「雲の影すだくむしの音瓢寺」
(現代語訳)「雲の影が集まり、虫の音が響き渡る瓢寺」
この詩の背景には、織田子青が友人である芳翠の寂しさに対する共感がにじみ出ています。
芳翠はこの句を残した5年後の昭和46年(1977年)に亡くなりました。
筆塚「真ん中の筆塚」
真ん中には「筆塚」と記された石碑は。昭和48年(1973年)10月に作られました。この記念碑は「書神五百五十号刊行記念」として立てられ、子青の息子で弟子の「織田子鵬(おのだしほう)」の書が刻まれています。
さらに、この石碑には建立に関わった書神同人180名の名前が彫られています。
南光坊で歴史と文化を感じる
その他にも、境内には松尾芭蕉や山田静道など、織田子青が建てた他の石碑など、数多くの句碑や記念碑が並び、歴史と文化の香り漂う場所でゆったりとした時間を楽しむことができます。
南光坊を訪れた際には、ぜひこれらの建物をじっくりと見学し、その美しさと歴史を感じ取ってください。