「浄寂寺(じょうじゃくじ)」は、石清水八幡宮が鎮座する八幡山の中腹に位置しています。
浄寂寺のはじまり
浄寂寺は天慶年間(938〜947年)に「一山一寧(いっさん いちねい)」の法孫である魯山(ろさん)和尚によって創建されました。
一山一寧は鎌倉時代の著名な禅僧であり、中国に留学して禅宗の教えを深く学びました。帰国後、彼は日本の禅宗の発展に大きく寄与し、その教えは多くの弟子たちに受け継がれていきました。
魯山和尚は一山一寧の教えを受け継ぎ、さらに独自の視点を加えながら、地域の人々に仏教の教えを広めることに努めました。浄寂寺は、この教えを広めるために創建した寺院の一つでした。
創建当時の浄寂寺には、三重塔(もしくは五重塔)があり、寺の領地は山のふもと一帯に広がっていました。しかし、時代が進むにつれて武士の影響力が強まり、武士たちは自分たちの領地を広げるために寺の田畑を奪ったり、寺に対して粗暴な行為をするようになりました。
その結果、戦国時代の後半、1560年頃には、浄寂寺の領地は最盛期の10分の1にまで減少しました。武士たちの行為があまりにもひどかったため、伊予地方の武士たちを束ねた大将が、そうした行為を禁じるために文書を作りました。
この文章はれが「能寂寺文書(のうじゃくじもんじょ)」と呼ばれ、現在もお寺に15通残されています。
石清水八幡神社の別当寺
当初、浄寂寺は「鳩峰山 能寂寺(きゆうほうざん のうじゃくじ)」と呼ばれていました。
この時代は神仏習合の時代で、寺と神社を関係は深く、国家の安泰を祈る道場で、石清水八幡宮(石清水八幡神社)を監督する別当寺としての役割を果たしていました。
そのため、「八幡三味堂(はちまんさんまいどう)」とも呼ばれており、石清水八幡宮宛の手紙や書類は、まず能寂寺(八幡三味堂)に送られ、内容を確認した上で石清水八幡宮に届けられていました。
山号の変遷
江戸時代の寛文年間(1661~1673年)には、ふもとに松尾村があることから「松尾山 浄寂寺(まつおさん じょうじゃくじ)」とよばれるようになりました。
貞享元年(1684年)、浄寂寺は当初、南禅寺派に属していましたが、小松町の仏心寺で修行していた随天和尚(ずいてんおしょう)が新たに住職として着任しました。
その際、寺の山号が「法華山 浄寂寺(ほっけざん じょうじゃくじ)」に変更されました。この山号の変更は、寺の歴史や新たな住職の影響を反映したものであり、浄寂寺の運営において一つの転機となりました。
実は、随天和尚は当初、殿様の悪い振る舞いを注意したために罰せられ、浄寂寺に閉じ込められてしまいました。しかし、後になって殿様が自分の非を悟り、随天和尚に小松に戻るよう頼みました。ところが、随天和尚はその願いを受け入れず、浄寂寺に留まり、そこでほとんどの時間を過ごすようになりました。
この出来事は、後の浄寂寺と随天和尚の強い結びつきと伝説の一因となります。
その後、大河和尚が本堂を建立し、昭和39年(1964年)には養山和尚が庫裡(僧侶の生活の場)を再建するなど、再興の努力が続けられ、現在に至っています。
地域に残る英雄の記憶
浄寂寺には、地域の飢餓にまつわる伝承が残されています。
寛文年間(1661年〜1672年)、この地域は深刻な飢饉に苦しんでいました。正義感の強い人物で、村民のためによく尽くしていた清水の松尾(現在は五十嵐)の庄屋、近藤八右衛門は悪政に苦しむ農民を救うため、寛文七年(1667年)に藩主に年貢の軽減を直訴しました。
しかし、それが邪悪な家老の報復を招くことになり、寛文九年(1669年)10月10日に、八右衛門とその家族は襲撃され殺されてしまいました。
この出来事を目の当たりにした村人たちは、八右衛門とその家族を地域の英雄として「五人主様」として、浄寂寺裏の法華寺山にお墓を建て手厚く葬りました。昭和48年(1973年)には、八右衛門とその家族の勇気と犠牲を後世に伝えてるため。清水小学校の児童や地元の人々が「五人主殉難之地」の石碑を建てました。
命を懸けた救済…随転和尚の即身仏
浄寂寺の飢餓を巡る伝承の中で、もう一つ重要な出来事として語り継がれているのが、随天軌幽(ずいてんきゆう)和尚の入廷です。
享保時代、今治の地域では大きな火災や蒼社川の氾濫、干ばつにウンカの被害などで、地域一帯が大飢饉に見舞われました。
享保十七年(1732年)三月、この窮乏に苦しむ村民たちの姿に心を痛めていたのが、当時79歳であった浄寂寺の随転和尚でした。
随転和尚は、お釈迦様が80歳で入定したことを考慮し、その一年前に入定(にゅうじょう)することを決意しました。
入定は、仏教における究極の修行の一つであり、悟りを得た状態で命を終え即身仏(そくしんぶつ)となることを目指すものです。即身仏とは、生きたままの肉体を保存し、仏として崇拝される存在になることです。
即身仏になるためには、厳しい断食と瞑想を行い、肉体をミイラ化させる過程が必要です。これにより、死後もなお地域の人々に対して強い救済の力を持ち続けると信じられています。
つまり随転和尚は、自分の命を懸けて人々を救うことを決意したのです。
旧暦の三月一日、彼岸入りの一日前にその決意を固めた随転和尚は、寺の裏山に穴を掘ってその中に入り、天井を作って息ができるように竹筒で空気穴を作り、その上に土をかぶせ塚を作りました。そして、土の中で念仏を唱え始めました。
入定の知らせを聞き驚いて駆けつけた村人たちは、随転和尚が入っている塚を取り巻き合掌を始めました。土の中からは随転和尚のかすかな読経の声と鈴の音が七日七夜にわたって聞こえ、多くの人々が遠方から訪れ、穴の前で手を合わせる姿が見られました。
随転和尚は、辞世の句として以下の歌を残しました。
生まれては 死ねる日までの 命ぞと
思いぬる夜の 夢はさめりけり
この句は、生と死の輪廻を悟り、夢のような人生の儚さを詠んだものです。
その後、村人たちは随転和尚が眠る塚の傍らに等身大の松を植えました。この松は現代も「随転和尚入定の松」として知られ、美しい枝葉を広げています。二百六十年間成長を続けたこの松は、昭和50年(1975年)3月27日には今治市指定保存樹の第一号として指定されました。
そしてこの松は、随転和尚を風雨から守るように幹をくねらせ塚を見守り続け、随転和尚と共に地域の救済の願いを続けています。