「浄寂寺(じょうじゃくじ)」は、天慶年間(938〜947年)に一山一寧の法孫である魯山(ろさん)和尚によって創建されたと伝えられています。
鎌倉時代の禅僧「一山一寧」
一山一寧は鎌倉時代の著名な禅僧であり、中国に留学して禅宗の教えを深く学びました。帰国後、彼は日本の禅宗の発展に大きく寄与し、その教えは多くの弟子たちに受け継がれていきました。
魯山和尚は一山一寧の教えを受け継ぎ、さらに独自の視点を加えながら、地域の人々に仏教の教えを広めることに努めました。浄寂寺は、この教えを広めるために創建した寺院の一つでした。
当初、浄寂寺は「能寂寺」と呼ばれていましたが、寛文年間(1661~1673年)に「松尾山浄寂寺」に改められました。
国家の安泰を祈る道場で、石清水八幡宮の別当寺としての役割を果たし石清水八橋堂において祈願法要が行われ、河野氏やその後の西園寺氏、細川氏などの有力な家系から崇敬を受けていました。
その後、大河和尚が本堂を建立し、昭和39年(1964年)には養山和尚が庫裡(僧侶の生活の場)を再建するなど、再興の努力が続けられ、現在に至っています。
地域に残る英雄の記憶
浄寂寺には、地域の飢餓にまつわる伝承が残されています。
寛文年間(1661年〜1672年)、この地域は深刻な飢饉に苦しんでいました。正義感の強い人物で、村民のためによく尽くしていた清水の松尾(現在は五十嵐)の庄屋、近藤八右衛門は悪政に苦しむ農民を救うため、寛文七年(1667年)に藩主に年貢の軽減を直訴しました。
しかし、それが邪悪な家老の報復を招くことになり、寛文九年(1669年)10月10日に、八右衛門とその家族は襲撃され殺されてしまいました。
この出来事を目の当たりにした村人たちは、八右衛門とその家族を地域の英雄として「五人主様」として。浄寂寺裏の法華寺山にお墓を建て手厚く葬りました。昭和48年(1973年)には、八右衛門とその家族の勇気と犠牲を後世に伝えてるため。清水小学校の児童や地元の人々が「五人主殉難之地」の石碑を建てました。
命を懸けた救済…随転和尚の即身仏
浄寂寺の飢餓を巡る伝承の中で、もう一つ重要な出来事として語り継がれているのが、随天軌幽(ずいてんきゆう)和尚の入廷です。
貞享元年(1684年)、創建当初は南禅寺派に属していましたが、随天軌幽和尚が小松仏心寺から入ってきたことで、妙心寺派に変わりました。
享保十七年(1732年)三月、蒼社川の氾濫やウンカの害などでこの地域一帯が大飢饉に見舞われました。窮乏に苦しむ村民たちの姿に心を痛めたのが、当時79歳であった浄寂寺の随転和尚でした。
随転和尚は、お釈迦様が80歳で入定したことを考慮し、その一年前に入定(にゅうじょう)することを決意しました。
入定は、仏教における究極の修行の一つであり、悟りを得た状態で命を終え即身仏(そくしんぶつ)となることを目指すものです。即身仏とは、生きたままの肉体を保存し、仏として崇拝される存在になることです。即身仏になるためには、厳しい断食と瞑想を行い、肉体をミイラ化させる過程が必要です。これにより、死後もなお地域の人々に対して強い救済の力を持ち続けると信じられています。
つまり随転和尚は、自分の命を懸けて人々を救うことを決意したのです。
旧暦の三月一日、彼岸入りの一日前にその決意を固めた随転和尚は、寺の裏山に穴を掘ってその中に入り、天井を作って息ができるように竹筒で空気穴を作り、その上に土をかぶせ塚を作りました。そして、土の中で念仏を唱え始めました。
入定の知らせを聞き驚いて駆けつけた村人たちは、随転和尚が入っている塚を取り巻き合掌を始めました。土の中からは随転和尚のかすかな読経の声と鈴の音が七日七夜にわたって聞こえ、多くの人々が遠方から訪れ、穴の前で手を合わせる姿が見られました。
随転和尚は、辞世の句として以下の歌を残しました。
生まれては 死ねる日までの 命ぞと
思いぬる夜の 夢はさめりけり
この句は、生と死の輪廻を悟り、夢のような人生の儚さを詠んだものです。
その後、村人たちは随転和尚が眠る塚の傍らに等身大の松を植えました。この松は現代も「随転和尚入定の松」として知られ、美しい枝葉を広げています。二百六十年間成長を続けたこの松は、昭和50年(1975年)3月27日には今治市指定保存樹の第一号として指定されました。
そしてこの松は、随転和尚を風雨から守るように幹をくねらせ塚を見守り続け、随転和尚と共に地域の救済の願いを続けています。