16世紀初頭、安芸国(現在の広島県)豊田郡矢野村には新興寺(しんこうじ)という小さなお寺がありました。このお寺が後の「大仙寺(だいせんじ)」へと繋がっていきます。
新興寺は、曹洞宗の高僧である「以天圭穆(いてんけいぼく)」和尚が創建したお寺です。以天圭穆は他にも多くの寺院を設立し、曹洞宗の教えを広めることに情熱を注いでいました。新興寺もその一環として誕生したものでした。
その後、五世類山義育大和尚の代に新興寺は現在の愛媛県今治市本町に移転し、松植山大泉寺と改称されました。移転は以天圭穆の指導と地域住民の協力のもとで行われた大きなプロジェクトでした。この新たな地で大泉寺は、すぐに地域の信仰の中心地としての役割を果たすようになり、その後、江戸時代に入ると十世瑞岩真竜大和尚の代に「大仙寺」と改名されました。
以降、長く地域に愛されてきましたが、昭和20年(1945年)の今治空襲で焼失してしまいました。現在の建物はその後再建されたもので、戦後の復興の象徴ともなっています。
「あごなし地蔵尊」
大仙寺(だいせんじ)の見どころの一つが、境内にある「あごなし地蔵尊」という特別なお地蔵さんです。この地蔵尊は、嘉永元年(1848年)に伯方町の木浦塩田の開祖であり、江戸廻船など海運業でも功績を残した今治藩士の深見利兵衛によって隠岐(現在の島根県隠岐諸島)からご勧請されたものです。
「あごなし地蔵尊」という名前は、平安時代の学者で詩人の小野篁(おののたかむら)との伝説に由来します。篁は大使藤原常嗣との争いにより隠岐へ流されましたが、その際にひどい歯痛に悩まされていました。篁が「あごなし地蔵尊」に熱心に祈ったところ、奇跡的に痛みが和らいだと言われています。この出来事から、「あごなし地蔵尊」は歯痛や口の中の病気に霊験あらたかとされるようになりました。
地元では豆地蔵尊が柔らかいものを好むと信じられていたため、腐一丁をお供えするおちう風習がありました。これは、病気の身代わりになってくれると考えられていたからです。現在も多くの参拝者が訪れ、特にのどや歯の病に悩む人々が祈りを捧げています。
現在の大仙寺の「あごなし地蔵尊」は、太平洋戦争中の戦災で失われた後に再建されたもので、かつてほど参拝者は多くありませんが、今もなお、歯痛やのどの病に悩む人々が訪れ、静かに手を合わせています。境内には、この地蔵尊に関連する歌碑もあり、参拝者の心を和ませる存在となっています。
大仙寺を訪れた際には、ぜひ歴史の息吹を感じながら「あごなし地蔵尊」に手を合わせ、静かな祈りのひとときをお過ごしください。