16世紀初頭、現在の広島県にあたる安芸国豊田郡矢野村には「新興寺(しんこうじ)」という小さなお寺が存在していました。この寺は、後に「大仙寺(だいせんじ)」へと繋がり、その名を広く知られることになります。
広島から今治に移転
新興寺は、曹洞宗の高僧である「以天圭穆(いてんけいぼく)」和尚によって創建されました。以天圭穆は、曹洞宗の教えを広めることに情熱を注ぎ、数多くの寺院を設立しました。新興寺もその一環として建てられ、曹洞宗の精神を地域に根付かせる役割を果たしていました。
その後、五世住職である類山義育大(ようざんそういく)和尚の時代、新興寺は現在の愛媛県今治市本町4丁目に移転され、「松植山大泉寺」と名を改めました。この移転は、以天圭穆の教えに基づき、地域の住民たちの協力のもとで行われた大規模なプロジェクトでした。この新しい地に移された大泉寺は、地域の信仰の中心地としての役割をすぐに果たすようになり、寺は新たな歴史を刻み始めました。
元禄4年(1691年)、松本本秀(まつもとほんしゅう)の代に寺は再建されました。この時、壇徒であった越智安道(おちやすみち)が、従来の本尊である観世音菩薩に代えて、釈迦如来像を新たに寄進しました。この寄進により、寺はさらに大きな信仰の拠点となり、地域の人々から厚い信仰を受けました。
現在の大仙寺へ
十世住職であった瑞岩真竜大和尚の時代に寺は「蓮来出(ほらいざん)大仙寺」と改名され、さらに名を知られるようになりました。この頃、大仙寺は地域の文化と深く結びつき、伊予木綿の中興の祖とされる深見利兵衛(ふかみりへえ)の関係でも有名でした。深見利兵衛は、伯方島での塩田の開拓にも大きく貢献し、その偉業は今も語り継がれています。
しかし、昭和20年(1945年)の今治空襲により、寺は焼失してしまいました。それでも、寺は戦後の復興の象徴として再建され、現在の本堂は昭和7年(1932年)に再建されたものです。この再建は、戦後の混乱の中でも地域の信仰を支える重要な役割を果たし、現在もその姿を保っています。
大仙寺は、長い歴史の中で多くの試練を乗り越え、地域の信仰の拠点としての役割を果たしてきました。特に戦後の再建は、地域の復興の象徴として多くの人々に親しまれており、今もなお、その精神は引き継がれています。