長沢にある「須賀神社(すがじんじゃ)」の始まりは、斎明天皇の時代にさかのぼります。
須賀神社の歴史
この地域はかつて出雲大社の信仰圏内であり、太宝元年(701年)に出雲から出雲神を勧請した際に、須佐之男命を神として祭り、「揚天皇社」と称しました。
また、斎明天皇の治世の655年には、朝鮮からの求めに応じて九州筑紫への軍勢を派遣する際、桜井の長坂(長沢)の岡に御車を納め、朝倉の仮行宮に滞在したという伝承が残されています。この出来事に由来して、斎明天皇を祀る「長坂天皇社 (長沢天皇社)」が創建され、越智郡や周桑郡一円からの厚い信仰を集め、「天皇さん」として地域の人々から尊崇されました。
明治維新後の1872年(明治5年)、新政府は神社制度の整備を目的として神社会記令を発布しました。この令は、全国の神社を体系的に整理し、神社の階級を定めるものでした。また、各村において一つの主要な神社を選定し、それを村社として他の神社を統合する一村一社制を推進しました。
長沢の須賀神社も、当時の制度改革の影響を受け、村内にあった他の六社と統合されることとなりました。この統合により、須賀神社は地域における中心的な神社としての役割を担うようになり、新たな形で整備されていきます。
明治6年(1873年)10月15日には、「須賀神社」と改称し、約八百坪の広大な境内を有する立派な神社として、現在の場所に鎮座することとなりました。
その後、付近の神社が合祀され、現在の境内には出雲社(大国主命)、山神社(大山積神)、荒神社(大己貴命)、塞井社(猿田彦大神)、馬神社(地元の牛馬を守護する神)、祖神社(地の神)など、複数の摂末社が祀られています。
これらの摂末社は、地域の農業や生活に密接に関連する神々であり、長沢の人々の生活と信仰を支えています。さらに、長沢の隣に位置する孫兵衛作は、元々は同じ地区であったものの、寛文2年(1662年)に村として独立しました。独立後も、孫兵衛作の住民は慣例により長沢須賀神社の氏子として信仰を続けています。