「大雄寺(だいおうじ)」は、文明年間(1469~1478年)に大庵須益(だいあん しゅえき)和尚によって法界寺村(現在の玉川町)に建立されました。
1406年に薩摩国(現在の鹿児島県)で生まれた須益は、曹洞宗の僧侶として福昌寺で出家し、その後、山口県の大寧寺や龍文寺の住持を務めました。さらに、瑠璃光寺をはじめとする多くの寺院を開山し、活動の範囲を日本各地に広げました。1473年に没するまで、彼は数多くの寺院を設立し、その中の一つが大雄寺であり、法界寺村の信仰の中心地として重要な役割を果たしました。
1600年、日本の歴史を大きく変えた「関ヶ原の戦い」が起こりました。この戦いで徳川家康は東軍を率いて石田三成を中心とする西軍と対峙し、決定的な勝利を収めました。これにより、家康は日本全土の実権を握ることができました。
この戦いで東軍に属し、家康に大きな貢献を果たしたのが藤堂高虎です。藤堂高虎は、元々は豊臣秀吉の家臣でしたが、秀吉が亡くなったあとは徳川家康に仕えていました。関ヶ原の戦いで高虎は、その手腕を発揮しました。特に小早川秀秋の寝返りを促したことが知られています。秀秋は当初、西軍に属していましたが、高虎の働きかけにより東軍側に転じ、戦局を決定づける要因となりました。この行動により、東軍は圧倒的な勝利を収め、家康の勢力拡大に貢献しました。
関ヶ原の戦いでの活躍により、家康から伊予国今治の領地を与えられた高虎は、今治城を築城し、今治地域を軍事的・政治的に重症な要所として発展させました。その後、今治を治めたのが高虎の養子である藤堂高吉です。
大雄寺は、慶長13年(1608年)に高吉が実父・丹羽長秀と両親の菩提を弔うために移転させ、藤堂家の菩提寺として重要な役割を果たしてきました。藤堂家の支援を受け、寺の地位は高まりましたが、寛永12年(1635年)に藤堂高吉が移されると、その支援を失いました。
その後、大雄寺は松平定房の分家筆頭家老である久松長政の菩提寺となり、久松家の歴史と深く結びつくようになり、7代当主・久松清儀の墓も大雄寺に残されています。さらに、上野家や深谷家といった給人(上級家臣)の多くも大雄寺を菩提寺としており、これらの家々の墓が今も寺内に立ち並んでいます。
寛政12年(1800年)には七代藩主・松平定剛の発願によって本堂が再建され、その後、大雄寺は今治藩の庇護のもとでさらに発展を遂げました。本堂は豪壮かつ荘厳な造りで、当時の藩主の信仰心と権威を象徴するものとして人々に敬われてきました。