蒼社川沿いの美しい田園が広がる場所に、四国霊場56番札所「泰山寺(たいさんじ)」があります。この寺院は、現代の今治市民の暮らしにも続く歴史を伝えています。
氾濫を鎮めた弘法大師の力
その昔、蒼社川は雨の多い時期になると氾濫を繰り返していました。平安時代初期には、「人取川」と呼ばれ、悪霊の祟りとして恐れられていました。
弘仁六年(815年)、弘法大師(空海)がこの地を巡錫していた際、梅雨の豪雨によって蒼社川が氾濫してしまいました。人々の苦しむ姿に心を痛めた弘法大師は、川が氾濫しないよう村人たちを指導して堤防を築きあげ、その後、「土砂加持」という儀式を行いました。
土砂加持とは、光明真言によって土砂を加持し、亡くなった人やお墓にその土砂を撒くという古くから行われているお祈りです。この秘法を何度も行い、最終的に満願の日に延命地蔵菩薩が空中に現れ、治水祈願が成就したことを告げたと伝えられています。
そして弘法大師は現れた地蔵菩薩を自ら彫り、本尊としました。そして、寺名を『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとって「泰山寺(たいさんじ)」と名付けました。
度重なる兵火を乗り越えた古刹
当初、泰山寺は山頂に位置していましたが、度重なる兵火により現在の場所に移転しました。天長元年(824年)には、淳和天皇の勅願所として指定され、七堂伽藍が完成。さらに、地蔵坊や不動坊など10坊を構える巨大な寺院として栄えました。
その後、承和13年(846年)には、宝蔵坊、不動坊、文様などの小坊十坊も建立されたと伝えられています。しかし、寿永元年(1182年)以降、度重なる兵火により寺院の規模は縮小していきました。
四国88ヶ所の札所としても、貞享2年(1685年)の寺社明細言上書に「寺付四国遍路札所二間四面之堂」、つまり「寺院に属する四国遍路の札所で、縦横がそれぞれ約3.6メートルの四角い仏堂」と記載されています。
この記述から、当時の札所がかなり簡素な規模に縮小していたと考えられます。
「延命地蔵菩薩」
現在も本堂には、弘法大師が刻んだとされる延命地蔵菩薩が本尊として祀られています。この木彫地蔵座像は、室町時代の作であり、修理こそされていますが、今治屈指の巨像です。
「不忘の松(わすれずのまつ)」
弘法大師が行った祈りの痕跡も境内に残っており、弘法大師が手植えした「不忘の松(わすれずのまつ)」の切り株が本堂の近くにあります。この松は、土砂加持の成功を記念して植えられたものです。
現在、松そのものはありませんが、「忘れずの松」と彫り込まれた石柱が残されており、弘法大師がこの地で行った祈りの跡を今に伝えています。
「千枚通しの護符」
弘法大師より授けられたとされる「千枚通しの護符」もあります。この護符は、特に女性の月経不順に霊験があるとして知られています。
地蔵車は六道輪廻を現したもので、石塔に輪が付いています。この輪を回すと六道輪廻の絆を断つことができるとされています。参拝者は、一回一徳を願って車輪を手前に回転させ、手を合わせて拝むのが習わしです。この車輪は人生の時計を意味し、回り巡ってくる輪廻思想に基づいて名付けられたものだと伝えられています。
「大師堂」
宿坊の前にある「大師堂」は昭和60年(1985年)に建立された比較的新しい建物で、そばには金剛杖を持ち、菅笠をかぶった大師像が立ち、訪れたお遍路さんを見守っています。
「鐘楼」
鐘楼は明治14年(1881年)、今治城内にあった太鼓楼の古材で再建されたといわれ、四国霊場と今治城の縁の深さを感じさせます。
凝然大徳誕生の地
泰山寺の右「塔の元」は、鎌倉時代の学僧である凝然大徳(1240〜1321)が誕生した場所とされています。