愛媛県今治市波止浜沖に浮かぶ来島には、来島村上氏の歴史を今に伝える数々の遺構が残されています。
そのひとつが、島の中腹に佇む「心月庵(しんげつあん)」です。
来島城主の館跡と心月庵
心月庵がある来島は、今治市波止浜の沖合わずか240メートルに浮かぶ小島で、周囲は約850メートルほどしかありません。
しかしこの小さな島は、日本三大急潮のひとつに数えられる来島海峡のただ中に位置し、鳴門海峡や関門海峡と並ぶ海の難所として古来より恐れられてきました。
この海峡は東・中・西の三水道に分かれ、潮の流れが複雑に入り乱れ、ときには時速18キロ(10ノット)にも及ぶ激流を生み出します。
わずかな操船の誤りが命取りとなるこの環境は、外敵にとっては大きな脅威である一方、地の利を知り尽くした来島村上氏にとっては天然の防壁でありました。
海の武士団「村上水軍」
戦国時代の瀬戸内海は、西国の大名や京の将軍家にとっても欠かすことのできない海上交通の大動脈でした。
その航路を押さえたのが、村上水軍です。
村上水軍は“村上海賊”としても知られていますが、いわゆる海の無法者ではなく、海上交通の要衝を押さえて航行する船の安全を保障し、その代償として「関銭」や「通行料」を徴収して暮らしていました。
当時は海賊が乱立する時代でしたが、村上水軍の縄張りを犯す者はほとんどおらず、結果として瀬戸内の海上秩序の維持に大きな役割を果たしていたのです。
さらに、戦国期に入ると各大名に属してその強力な水軍力を提供し、海の武士団として合戦において重要な戦力となりました。
来島村上氏の水軍の始まり
村上水軍の起源は、南北朝時代にまでさかのぼります。
祖とされる村上義弘は、因島を拠点とした海賊の一人でしたが、建武の争乱では南朝方に属し、伊予の豪族や脇屋義介と結んで芸予地方の水軍をまとめ上げました。
これにより、村上氏は瀬戸内の制海権を掌握し、名実ともに「海の武士団」としての基盤を築くことになりました。
義弘の死後、一族は一時混乱を見ましたが、孫の村上師清が能島に拠点を置き、河野氏や越智氏と手を結びながら水軍を再編しました。
師清は衰えかけていた水軍を再びまとめ上げたことから、「中興の祖」として称えられています。
さらにその子の村上義顕の代に、一族は三つに分かれます。
長男の村上雅房は能島を、次男の村上吉豊は因島を、三男の**村上吉房(よしふさ)**は応永26年(1419年)に来島を拠点としました。
こうして、能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏の三家の水軍は、互いに協力しつつもそれぞれ独自の勢力を発展させていきました。
そして、この三家が「村上水軍」と総称され、瀬戸内の制海権を握る存在として大名たちから一目置かれる存在となっていったのです。
来島村上氏の拠点「来島城」
来島に移り住んだ村上吉房(よしふさ)は、この島の地形と潮流を最大限に活かし、応永26年(1419年)に「来島城」を築いたと伝えられています。
城は南北約220メートル、東西約40メートルの規模をもち、本丸・二ノ丸・三ノ丸を連ね、中央には館を置くという堅固な構えを誇りました。
さらに周囲の岩礁には桟橋の柱穴が設けられ、潮の干満に影響されずに軍船を係留できるよう工夫されていました。
以後、来島村上氏は6代・約160年にわたってこの地を拠点とし、瀬戸内の制海権を背景に勢力を保ち続けました。
来島村上氏の歩んだ道
しかし、関ヶ原合戦後の慶長5年(1600年)、豊臣方に属したため所領を没収され、村上通康は豊後国玖珠郡(現在の大分県玖珠町)へと移封されます。
こうして来島村上氏は海の本拠であった来島を去り、久留島氏として大名家の道を歩むことになりました。
来島城は廃城となり、家臣たちの多くはこの地に留まり、海での知識や操船の技術を活かして漁業や海運に従事し、暮らしを立てるようになりました。
かつて戦のために磨かれた技術が、時代の移り変わりとともに生活の糧へと形を変えていったのです。
心月庵と来島に残る名残
やがて、来島村上氏の館があった場所には小堂が建てられ、城主・来島村上氏の位牌が安置されました。
本尊には薬師如来が祀られ、ここは弔いと祈りの場として島の人々に受け継がれていきます。
これが今日に伝わる心月庵です。
館跡の周囲には古井戸や空堀が残り、かつての生活や防御の工夫を今に伝えています。
さらに近くの岩礁には桟橋の柱穴が無数に刻まれており、潮の干満に左右されず軍船を係留できる仕組みが整えられていたことを示しています。
岩肌に残るその痕跡は、海を舞台に生きた武士団・来島村上氏の往時をしのばせる貴重な遺構といえるでしょう。
さらに、心月庵へと続く道筋には、樹齢約200年の幹回り約270センチ、高さ約20メートルに達する大榎がそびえています。
その空洞にはかつて「子授け地蔵」が祀られていましたが、台風によって幹が損傷したため、現在は祠が建てられ、地蔵尊がそこに安置されています。
大木の存在とともに、信仰のかたちは時代を超えて島の人々に守り継がれているのです。
心月庵からさらに上段に進むと、かつての城主・来島村上氏の祖霊を祀る村上神社が鎮座しています。
この神社は、今も島の人々の信仰の中心であり、城と館、そして庵とともにこの島の歴史をつないできました。
眼下には、今も荒々しい潮流を誇る来島海峡が広がり、そこに立つと、かつての城主や武士たちが同じ光景を見ていたことを想像せずにはいられません。