観音寺・観音禅寺(かんのんじ)は、もともと朝倉村にありましたが、永禄年間(1558〜1570年)、日吉御城山の城主であった原房康(はら ふさやす)によって宇海寺古川(うかいじふるかわ)に移されました。この時、寺の開山として迎えられたのが営鏡梵地(えいきょうぼんち)です。
その後、正徳年間(1711〜1716年)には白州視純によって再び寺が発展し、その影響は旧今治村、日吉村、朝倉村へと広がりました。明治年間(1868〜1912年)には、陽邦彗送のもとで本堂と庫裡が再建され、その後も太元彗剛の時代に修復が施されました。
今治空襲の被害
昭和20年(1945年)、太平洋戦争の末期に今治市は大規模な空襲に見舞われました。この空襲は、都市全体に甚大な被害をもたらし、多くの建物や歴史的な遺産が焼失しました。「観音寺・観音禅寺」もその被害を受けた建物の一つでした。
寺院の中心となる本堂や庫裡、その他の重要な建築物が次々と炎に包まれ、ほぼすべてが焼け落ちてしまいました。寺にとって、そして地域にとっても、この空襲による壊滅的な被害は深刻で、寺の未来は一時危ぶまれることとなりました。
この空襲で唯一残ったのが山門と鎮守堂でした。戦火の中で奇跡的に焼失を免れたこれらの建物は、寺の長い歴史を感じさせる象徴として、当時の姿をとどめる数少ない遺構となりました。とはいえ、それ以外の重要な建物が失われたことは、寺の存続にとって大きな打撃でした。
しかし、昭和25年(1950年)、茶道宗直の時代に寺の復興が始まり、まず寺院の厨房「庫裡(くり)」が復興されました。これは、戦後の荒廃からの第一歩であり、地域の人々の力強い支援と信仰によって進められた重要な再建でした。
その後、昭和45年(1970年)には壮大な本堂が再建され、寺の姿は完全に一新されました。そして現在も、多くの人々がこの寺を訪れ、信仰と地域のつながりを感じる場所として大切にされています。
藩士や著名な人物が眠る「お抱え寺」
観音寺は江戸時代を通じて、今治藩の信仰の中心地として重要な役割を果たしてきました。
この寺は「お抱え寺」として、藩主をはじめとする藩士や藩医、儒学者、絵師など、多くの著名な人物が眠る場所でもあります。
例えば、蘭学を学び、種痘を伊予諸藩に先駆けて導入した管周庵(かんしゅうあん)医師」藩医でありながら絵師としても知られる山本雲渓(やまもとうんけい)、今治の治綿業に貢献した柳瀬義富(やなせよしとみ)など、歴史に名を残す人物が観音寺に埋葬されています。
今治藩主、今治の著名人たちはこの寺を精神的な拠点とし、今治全体の信仰や精神的支柱として機能していました。現在も寺内には、今治の栄枯盛衰を物語る多くの歴史的遺構や碑が点在しており、地域の歴史を今に伝えています。
猿飛佐助との意外な繋がり
観音寺には、猿飛佐助で知られる講談社の立川文庫を設立した池田蘭子の墓もあり、猿飛佐助とも特別なつながりがあります。
猿飛佐助は、戦国時代の武将である真田幸村に仕えた真田十勇士の一人として広く知られていますが、実際には講談や大正時代の大衆文学である「立川文庫」に登場する空想のキャラクターです。そして、この物語を創作したのが、愛媛県今治市出身の山田一族の「山田阿鉄(おてつ)」でした。
山田阿鉄は、「立川文庫」の中心的な作家であり、大正時代に「猿飛佐助」をはじめとする真田十勇士の物語を生み出しました。「立川文庫」は、当時の大衆に忍者の物語を広め、多くの読者に親しまれました。この文庫シリーズは、講談をベースにしたエンターテインメント性の高い作品群を提供し、猿飛佐助という正義の忍者キャラクターを広く知らしめました。
猿飛佐助の名前が誕生した背景には、山田阿鉄の故郷である愛媛県の石鎚山系にある「猿飛橋」という地名が関連しているとされています。この橋の名前が、猿飛佐助の名前の由来となり、キャラクターが生まれたと考えられています。
明治から大正にかけての時代、講談師が語る物語が速記され、講談本の形で出版されるようになりました。この時期、大衆娯楽の形が変わりつつあり、今治市出身の山田一族はこの流れに乗って速記による講談本のスタイルを超え、ノベライズへと取り組みを始めました。そして「雪花散人」という共同ペンネームで執筆活動を行い、作品の量産の過程で新たなキャラクターを創出しました。
その中で、猿飛佐助はそれまでの忍者像とは異なり、正義の忍者として描かれることで、エンターテインメント性の高い物語として大衆に広く受け入れられました。従来の悪者が使うものとされていた忍術を、正義を体現する猿飛佐助が駆使することで、忍者のイメージそのものを刷新したのです。
彫刻と建築物で歴史に触れる
観音寺を訪れると、すぐに雲に乗った猿飛佐助の銅像が目に入ります。この像は2004年に、「せんとくん」の制作者としても知られる彫刻家、薮内佐斗司(やぶうちさとし)氏が手がけています。
また、観音寺の山門前には、同じく薮内佐斗司氏による「塞(さえ)の力神」像も設置されています。これは、昔の信仰に基づき、疫病神や悪霊が道を通じてやってくると信じられていたことから、道の入り口に「さえの神」を祀っていたことを表現したものです。この像は、災厄を力強く押し返す姿を描いており、訪れる人々に安心感を与える存在となっています。
山門自体も歴史的に重要な建築物で、明治時代に発布された廃城令によって今治城が取り壊された際、武家の正門として使用されていた「薬医門」を譲り受けたものです。この「薬医門」は、江戸時代の武家屋敷に特有の形式で、その厳格で力強いデザインは、当時の武士階級の威厳を象徴しています。
この山門は、現在でも歴史的価値が非常に高いもので、門の正面には今治藩医であった菅周庵が直筆した題字が掲げられています。この書体は、当時の文化的水準の高さを示すとともに、藩と寺院との深い結びつきを象徴するものです。
昭和20年(1945年)の今治空襲により、寺院の建物や文化財の多くが失われ、山門とその横にある鎮守堂を除いてほぼ全てが焼失してしまいましたが、この山門は奇跡的に生き残り、今もなお訪れる人々を迎え入れています。
世界的建築家「丹下健三」との深い繋がり
もう一つ忘れてはならないのが、世界的な建築家である丹下健三(1913~2005年)との繋がりです。丹下健三は大阪市堺区生まれですが、少年時代を今治市で過ごし、その後、戦後日本を代表する建築家として世界的に知られるようになりました。今治市には多くの「丹下建築」が存在し、その影響力が色濃く残っています。
観音寺の霊園内には、丹下健三の一族である丹下家の墓所があり、本家の墓もここに建てられています。この場所は、丹下健三のルーツに触れることができる特別な場所であり、今治市の歴史と丹下家の歴史が交錯する重要なスポットです。
目印はお城?「高井城」を目印に訪れる
観音寺を訪れる際には、愛媛県立今治北高等学校の近くに位置する「城山ハイツ」というマンションを目印にするといいかもしれません。この建物は、地元では通称「高井城」として親しまれ、その外観がまるでお城のように見えるため、訪問者が今治城と勘違いすることもあるほどです。
「高井城」は、1970年代に城好きだった初代家主が、その趣向を反映して建てたものです。現在では地域のランドマークとなり、地元の人々や観光客にとっても記憶に残る特徴的な建物です。この「高井城」の裏手に位置する観音寺は、今治市の歴史と文化を感じることができる重要なスポットです。
観音寺を訪れる際には、ぜひこの歴史的な山門をくぐり、猿飛佐助の物語に触れる特別な時間を過ごしてみてください。