波止浜を見守り続ける宗像三女神と高部の信仰
波止浜駅から歩いてわずか3分。駅裏の小道を抜けると、高部地域の住宅地の中に静かな鎮守の森が広がります。
その静けさに包まれるように鎮座しているのが「厳島大明神(いつくしまだいみょうじん)」です。
境内には落ち着いた空気が漂い、本殿裏には樹齢200年以上と伝わるクスノキがそびえ、今治市の保存樹に指定されています。
地域の名前から「高部厳島神社」とも称されるこの神社は、古くから高部地域の人々の心のよりどころとして大切に守られ、今も人々の祈りの場として息づいています。
厳島大明神の創建と歴史
厳島大明神の創建は、江戸時代初期の慶長一三年(1608年)八月一九日。
木原仁右衛門(きはらにうえもん)という人物がが、安芸国の厳島(現在の広島県廿日市市宮島町)に鎮座する厳島神社から分霊を勧請したのが始まりとされています。
厳島大神は古来より、海上交通の守護神、漁業や交易の繁栄をもたらす神として広く信仰されてきました。
瀬戸内海に面した高部の地は、古くから港湾と塩田開発で栄え、船の往来も多い地域でした。
そのため、厳島大神の御神徳を仰ぎ、村の守り神として迎え入れることは、村人たちにとって暮らしの安全と繁栄を願う切実な祈りであったと考えられます。
その後、寛文8年(1668年)には正式に産土神社(うぶすなじんじゃ・現:氏神)として位置づけられ、村全体の総氏神として人々の生活に深く根を下ろしました。
近世における産土神社は、単なる信仰の場にとどまらず、年中行事や祭礼を通じて村落の共同体意識を育む重要な役割を果たしました。
厳島大明神も例外ではなく、子どもたちの成長祈願、五穀豊穣、航海や漁業の安全など、村人たちのあらゆる願いが寄せられる場となりました。
明治維新後、国家による神社制度の整備に伴い、明治4年(1871年)には村社に列格し、公的にも地域を代表する神社として認められます。
村社への列格は、地域共同体の中枢としての役割を国家からも承認されたことを意味し、以後も厳島大明神は高部の人々にとって心の拠り所であり続けました。
現代においても、厳島大明神は海上安全、五穀豊穣、家内安全を祈る総氏神として厚く崇敬され、高部の歴史と文化を象徴する存在として、今もなお地域の暮らしを静かに見守り続けています。
木原仁右衛門とは?
では、厳島大明神を創建した木原仁右衛門とは一体何者なのでしょうか?
木原仁右衛門は、伊予国守護職を代々務めた河野氏の血を引く得能氏の支流、重見氏を祖に持つ木原家に生まれた人物です。
河野氏の家臣「重見氏」
重見氏は、南北朝時代に台頭し、室町時代を通じて地位を確立した一族で、守護である河野氏に仕える奉行人(ぶぎょうにん)として、国中に命令を伝え、年貢の徴収、裁判、治安維持などを担いました。
奉行人は現代でいえば県知事の命令を実際に執行する現場責任者で、いわば守護の代官に相当にあたり、
久万・垣生・見目田・大西・戒能・正岡・中・栗上と並んで、河野家の政務を担った「九奉行」に列し、河野家の政務・軍事の要職を務めました。
独立した勢力としての重見氏
重見氏は単なる家臣団にとどまらず、近見山一帯を支配する国人領主(在地領主)として独立性を備えた勢力でもありました。
本拠である近見山城(別名:明神山城)は、標高244メートルの近見山山頂に築かれた堅固な山城で、北端が石井村にあたることから石井山城とも呼ばれました。
山頂からは来島海峡と今治平野を一望でき、瀬戸内海の海上交通と陸上交通を同時に掌握することができる戦略拠点でした。
この地形的優位は、河野氏の領国経営にとって欠かせないものであり、重見氏はこの要害を押さえることで軍事・政治の両面で重要な役割を果たしていました。
実際、近見山城は河野水軍の展開拠点としても機能し、対岸の来島村上氏との連携においても要となっていたと考えられます。
しかし、文明年間(1469〜1487年)になると、当主・重見通昭は所領や寺領の安堵状を自ら発給するほどの力を持ち、河野氏の家臣でありながらも独自の領主権を確立しました。
重見氏は事実上、半独立的な国人領主として近見山一帯を統治するようになり、この時期に近見山城もさらに整備され、堀や曲輪が強化されたことで、より要害堅固な城郭へと発展したといわれています。
こうした独立性の高まりは、重見氏が河野氏と緊密な関係を保ちながらも、時に家中で強い発言力を持ち、場合によっては主家と緊張関係に陥る要因にもなりました。
河野氏の分裂と重見氏の台頭
同じ頃、河野氏の家督(惣領)をめぐる深刻な争いが発生しました。
惣領(そうりょう)とは、一族の家督を継ぎ、一門をまとめるリーダーのことで、家の主要な所領と権限を継承し、庶子や女子の相続地の管理、課役の分担、祖先供養を行って一族を統率する役割を担いました。
惣領は必ずしも長子(長男)に限らず、能力や人望によって選ばれることもあったため、しばしば後継者争いが勃発し、一族の存続を左右する大問題ともなっていました。
伊予国でも例外ではなく、河野氏の惣領・河野教通と同族の通春が激しく対立し、領国は二派に分裂したのです。
このとき重見氏は、時に教通方、時に通春方に与するなど、その動向が戦局を左右するほどの影響力を持っていたといいます。
宝徳三年(1451年)に教通方が勝利を収めた際には、重見氏の尽力が大きな役割を果たしたと伝えられています。
重見通種の反乱
その後も、重見氏は河野氏の重臣として家中の重要な役割を果たしていましたが、享禄三年(1530年)、当主・重見通種(重見因幡守)が突如として河野氏に反旗を翻しました。
当時、河野家中では惣領・河野通直による権力の集中が進んでおり、国人層の中には不満を募らせる者も少なくありませんでした。
通種の反乱は、単なる一家の謀反ではなく、国人層の不満が爆発した象徴的な事件だったといえます。
河野通直はただちに村上水軍御三家の一つ・来島村上氏(当主・村上通康)をはじめとする有力家臣団を動員し、近見山城に拠る通種討伐のため大軍を編成しました。
戦いは伊予国内の各地に広がり、通種方と河野方は一進一退の攻防を繰り返しましたが、圧倒的兵力を擁する河野方が次第に優勢となります。
最終的に通種は近見山城を維持できず敗走し、弟・重見通遠は通種に従い果敢に戦いましたが、討伐軍との激戦の末に戦死を遂げたと伝えられています。
重見氏にとってこの戦いは一族の存亡をかけた大きな試練となり、多くの家臣を失う痛手となりました。
「厳島の戦い」重見通種の最期
近見山城を落ち延びた重見通種は、周防国(現・山口県東南部)の大内義隆(おおうち よしたか)を頼りました。
義隆は、通種の武勇と忠節を高く評価し、安芸国西条の木原に領地を与え、さらに家臣・陶晴賢(すえ はるかた)に通種の身柄を預け、手厚く庇護しました。
しかし天文二十年(1551年)、その晴賢が主君・義隆に反旗を翻し、義隆は長門国大寧寺で自刃に追い込まれます。
通種は大内氏を頼って周防国に身を寄せたものの、直接的に厚遇してくれたのは晴賢であったことから、新たな主君としてその恩義に報いるべく陶家に仕え続ける道を選びました。
これにより大内家の実権を握った陶晴賢は、名実ともに西国一の大勢力となりました。
一方、この地域一帯でもう一人、大きな力を持った人物がいました。
それが、安芸国(現・広島県西部)を拠点に勢力を急速に拡大していた毛利元就(もうり もとなり)です。
元就は大内義隆の支援を受けて勢力を拡大し、義隆の養女・尾崎局を嫡男・隆元の正室に迎えることで、大内家との強固な縁戚関係を築いていました。
大内が義隆によって自害に追い込まれるも、毛利元就は、当初は晴賢と行動を共にしましたが、次第に対立を深め、両者の関係は決裂します。
陶晴賢の謀反により義隆が自刃に追い込まれた後も、当初は晴賢と行動を共にしました。
しかし、時代は戦国。
両者の思惑は次第にずれ、やがて瀬戸内の覇権をめぐる対立は決定的なものとなりました。
そして弘治元年(1555年)、ついに中国地方全域の覇権をかけた決戦が始まります。
この戦いこそ、後世に名高い「厳島の戦い」です。
戦場となったのは厳島(現・広島県廿日市市宮島町)。海と山に囲まれた天然の要害で、瀬戸内海の制海権を握るためには避けて通れない場所でした。
毛利元就はこの決戦に先立ち、能島・因島・来島の「村上水軍(三島村上水軍)」に助勢を要請しました。
一方、重見通種は陶晴賢方の一翼としてこの合戦に参戦します。
こうして再び、来島村上氏(村上通康)と重見通種は、厳島の地で対峙することになりました。
毛利元就は厳島の複雑な地形を巧みに利用して陶軍を島へ誘い込み、夜陰と霧雨を狙った奇襲作戦を立案しました。
その作戦の要となったのが、村上通康です、
通康は海上作戦の総指揮を執り、毛利水軍を率いて陶軍の退路を完全に封鎖しました。
夜の闇と濃霧に紛れて展開された毛利軍と村上水軍の連携は見事に成功し、陶軍は島内で四面楚歌の状況に追い込まれます。
翌朝、毛利軍は海陸から一斉攻撃を仕掛け、陶軍は総崩れとなり敗走。ついに陶晴賢は宮尾城に追い詰められ、無念の自刃を遂げました。
この戦いは毛利軍の圧倒的勝利となり、毛利氏は中国地方の覇者としての地位を確立します。
戦後、毛利元就は戦勝の立役者である村上通康の功績を高く評価し、山口県屋代島の半分を与えました。
これにより三島村上水軍の名は西日本一帯に鳴り響き、毛利水軍の中核勢力としてもその存在感を不動のものとしました。
また、毛利元就は降伏した陶家の家臣たちを広く受け入れ、自軍の勢力拡大に活用しました。
しかし、重見通種は最後まで忠義を貫き、その誘いをきっぱりと拒絶します。
そして以下の辞世を詠み、自刃して武士としての生涯に幕を下ろしました。
「旧恩をすて新恩をになうは武士の恥」
厳島の戦いに散った重見通種の最期は、戦国の世においてもなお貫かれた武士の本懐として、今も語り継がれています。
河野氏宿老としての重見氏
通種の死後、家督は弟・重見通次が継ぎ、河野氏と和解して再び家中に復帰しました。
この和解は、重見氏にとって名誉回復の意味を持つと同時に、分裂していた家臣団を再び一つにまとめ、領国統治を安定させるための河野氏にとっても重要な政治的決断だったと考えられます。
復帰後の重見氏は、河野家の宿老として重用され、来島氏・正岡氏と並ぶ三大重臣として、国政や軍事において中枢的な役割を担いました。
とりわけ近見山城は来島海峡を一望する要害であり、瀬戸内航路の掌握や海上防衛の拠点として極めて重要でした。
重見氏はこの城から瀬戸内海を行き交う船舶を監視し、河野水軍や村上水軍と緊密に連携して海上交通の安全確保や制海権の維持に貢献しました。
河野通直は「毎時、重見・来島・正岡に相談候て」と記しており、重見氏の意見が政務・軍務の双方で重要視されていたことがわかります。
豊臣秀吉の四国征伐と河野氏の滅亡
しかし、戦国の世にあって伊予国を取り巻く情勢は次第に緊迫の度を増していきます。
天正5年(1577年)、織田信長は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を中国地方遠征軍の総大将に任命し、中国地方の覇者・毛利氏への圧力を強めました。
この頃、河野氏は毛利氏と同盟を結び、毛利水軍や小早川隆景の援軍を得て、四国統一を狙う土佐の長宗我部元親と必死に戦っていました。河野氏は毛利氏の支援を受けることで、かろうじて伊予国での勢力を維持していたのです。
しかし、信長の中国攻めが本格化すると毛利氏は河野支援の余力を失い、伊予への援軍が困難となります。河野氏は次第に孤立し、国人層の中にも不満や離反が生じるようになりました。
天正11年・狭間の原の戦い
天正11年(1583年)、長宗我部元親はついに伊予への本格的な侵攻を開始します。元親の大軍は伊予南部から北上し、やがて近見山の麓・狭間の原に布陣しました。
これに対し、近見山城主・重見氏は一族郎党を率いて迎え撃ちます。
戦いは激烈を極め、近見山城は奮戦したものの、兵力で勝る長宗我部軍の攻勢に押され、やむなく石井村へ撤退。最後には力尽き、ほとんどの兵が討死したと伝わります。
この敗北は近見山城の防衛体制を大きく揺るがし、来島海峡一帯の防衛網にも深刻な穴を開けました。
重見氏の損耗は河野家中にとって大きな痛手であり、これ以降、河野氏の軍事力は著しく低下。
長宗我部勢は伊予国内での勢力を拡大し、河野氏の衰退は決定的なものとなっていきました。
来島村上氏の離反
この苦境に追い打ちをかけたのが、来島村上氏の離反でした。
当主・来島通総は、もはや河野氏とともに戦うことは一族を滅亡の危機と判断し、天正9年(1581年)に織田信長の家臣・羽柴秀吉との同盟に踏み切ります。
以後、来島村上氏は織田方として行動し、毛利氏・河野氏と対立する立場となりました。
天正10年(1582年)にはついに兵を挙げ、旧主河野氏を攻撃。
毛利・河野連合軍の包囲を受け、来島村上氏は滅亡寸前に追い込まれますが、通総は命からがら脱出し、瀬戸内海を南下して秀吉のもとへと走りました。
この離反により、河野氏は海上防衛力の要である来島水軍を失い、いっそう孤立を深めることとなります。
豊臣秀吉の四国征め
天正13年(1585年)、本能寺の変(1582年)で倒れた織田信長の遺志を継いだ羽柴(豊臣)秀吉は、再び四国征伐を開始しました。
かつて河野氏に援軍を送っていた毛利氏も、この頃にはすでに秀吉に臣従しており、今度は豊臣方の一員として伊予攻めに参加します。
総大将には小早川隆景が任じられ、宇喜多秀家・黒田官兵衛ら名将がこれに従い、水陸合わせて十万ともいわれる大軍が四国に押し寄せました。
伊予では、河野氏が本拠・湯築城に籠城して最後の抵抗を試みます。
しかし、圧倒的な兵力差と海陸からの包囲の前に抗しきれず、最終的に開城し降伏。
ここに約三百年にわたる伊予国守護・河野氏の歴史は終焉を迎えました。
重見氏も同じく降伏し、本拠であった近見山城は廃城となりました。
瀬戸内海の制海権を支え、河野氏とともに伊予の防衛を担ってきた重見氏は、こうして一つの時代を終えることとなりました。
「木原姓」重見氏の新たな生き方
しかし、重見一族は完全に途絶えることはありませんでした。
本拠の近見山城を失ったのち、一族は近見山を離れ、木原姓を名乗って高部村に居を構えます。
そこでは、かつてのように武士として戦場に立つのではなく、農業や地域の営みを通じて新たな生活を築き上げていきました。
戦乱の世で武名を馳せた一族が、平和な時代の到来とともに地域に根を下ろし、新しい形で存続していったのです。
戦国の終焉と祖先の思い
その後、伊予国は豊臣政権の統治下に組み込まれ、秀吉による全国的な検地や城割などの政策によって、戦国期の国人領主や土豪たちの力は抑え込まれ、中央集権的な支配体制が確立していきました。
天正18年(1590年)には小田原征伐で後北条氏が滅亡し、秀吉は天下統一をほぼ成し遂げます。
これにより、長く続いた戦乱の世は一時的に収まり、日本全体が豊臣政権のもとで安定に向かいました。
しかし、秀吉が没すると再び政局は不安定になります。豊臣家の後継をめぐり、徳川家康と石田三成らが対立。
慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
徳川家康率いる東軍が勝利し、家康は全国支配の基盤を確立しました。慶長8年(1603年)には征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。
ここに本格的な「江戸時代」が始まり、日本はおよそ260年にわたる泰平の世を迎えることとなりました。
家康は戦後、全国の大名に対して大規模な領地再編(論功行賞)を行い、東軍についた大名には加増や移封、西軍についた大名には改易や減封を行いました。
これにより、日本各地の統治体制が再編成されます。
伊予国も例外ではなく、領地再編が行われ、今治には藤堂高虎が入り城下町を整備しました。
のちに藤堂家が移封されると、松平(久松)氏が入封し、今治藩と松山藩が並立する藩政体制が確立します。
この中で、高部地域は松山藩領として、城下と瀬戸内航路を結ぶ港町として発展していきました。
木原氏も、かつてこの地域を治めていた祖先・重見氏と同じく、農業や海運に携わりながら、地域社会の要として暮らしを営んでいったと考えられます。
こうした流れの中で、江戸時代初期の慶長13年(1608年)、木原仁右衛門が安芸国宮島から厳島大神を勧請し、厳島大明神を創建したのです。
これは、かつて武士として名を馳せた重見氏の誇りを受け継ぎ、戦乱で疲弊した地域社会を再生し、住民の心に安定をもたらすための信仰の拠点を築くものでもあったと考えられます。
祭神と信仰
厳島大明神の主祭神は、湍津姫命(たぎつひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の三柱で、総称して「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」と呼ばれます。
宗像三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって生まれたとされる海の女神で、古来より航海安全の守護神として崇められてきました。
特に市杵島姫命は広島県廿日市市の厳島神社の御祭神として有名で、全国に約500社ある厳島神社の総本社でも祀られています。
水辺や海に関わる神として、航海安全、漁業繁栄、商売繁盛、厄除け、芸能上達など幅広い御利益があるとされ、全国的な信仰を集めてきました。
とくに市杵島姫命は、広島県廿日市市の厳島神社の御祭神として有名で、全国に約500社ある厳島神社の総本社でも祀られています。
市杵島姫命は水辺や海に関わる神であり、航海安全、漁業繁栄、商売繁盛、さらには厄除けや芸能上達の神としても信仰を集めてきました。
厳島大明神も、この全国的な厳島信仰の流れを受けて創建されており、瀬戸内海に面する地域ならではの祈りの形を今に伝えています。
かつてこの地域は塩田開発や海運業で栄え、多くの船が港を出入りしていました。村人たちは出漁や航海の安全を祈り、無事帰港できるよう参拝していました。
今日でも、例祭や祈年祭の折には海上安全や地域の安寧を願う祈りが捧げられ、地域の人々との結びつきが今も息づいています。
継ぎ獅子と高部の獅子舞
厳島大明神の春祭りでは、今治市内の他の神社と同じように、勇壮な継ぎ獅子が奉納されます。
継ぎ獅子は、今治市鳥生町の三島神社が発祥とする説が広く知られています。
しかし、実は厳島大明神も継ぎ獅子の発祥地のひとつであると伝えられており、この地では「高部の獅子舞」とも称され、地域の象徴的な行事として古くから親しまれてきました。
毎年5月3日の大祭では、境内に高い櫓が組まれ、太鼓と笛の音が境内に響き渡るなか、氏子や参拝者が見守る中で継ぎ獅子が奉納されます。
観客の視線は高く積み上げられた人柱の最上段に注がれ、そこで「獅子児(ししこ)」と呼ばれる子どもが獅子頭をかぶって舞を披露すると、境内は大きな歓声に包まれます。
継ぎ獅子は全国的にも珍しい高さを競う獅子舞として知られ、今治市の文化を象徴する存在です。
高部獅子舞保存会と文化財指定
この伝統を守り続けているのが「高部獅子舞保存会」です。
保存会は1969年、若者人口の減少により一時途絶えていた獅子舞を復活させるために設立されました。
「先祖から受け継いだ伝統を守り、後世へ伝える」という地域の強い思いが復活の原動力となったのです。
昭和59年(1984年)には、今治市内の他の7か所の獅子舞とともに今治市無形民俗文化財に指定され、地域の誇りとして保存・継承が進められています。
境内社・和霊神社
厳島大明神の境内には、江戸時代中期の延享3年(1746年)に宇和島から勧請された「和霊神社(われいじんじゃ)」が鎮座しています。
主祭神である山家清兵衛公頼(やんべ せいべえ きんより)は、仙台藩主・伊達政宗の家臣として仕えた名家老であり、慶長19年(1614年)に伊達政宗の庶長子・秀宗が宇和島十万石の藩主として入封した際、政宗の信任厚く宇和島に派遣されました。
清兵衛は惣奉行として藩政の基礎固めを担い、年貢制度や司法制度を改革して領民からの厚い信頼を集めましたが、その誠実で強い政治姿勢は次第に藩主・秀宗や家中重臣の警戒心を招きます。
ついに元和6年(1620年)、桜田元親らの謀略によって清兵衛は屋敷を襲撃され、一族もろとも非業の死を遂げました。
この事件は「和霊騒動」として宇和島藩史に刻まれ、城下では怨霊の祟りと恐れられる数々の災厄が相次いだといいます。
藩内の混乱を収めるため、承応2年(1653年)に清兵衛の霊を鎮めるための社が建立され、「山頼和霊神社」として正式に神格化。
享保16年(1731年)には五代藩主・伊達村候により壮麗な社殿が再建され、これが現在の宇和島市の総本社・和霊神社の起源となりました。
高部の和霊神社も、この和霊信仰の流れを汲む御分霊であり、霊魂鎮護・海上安全・五穀豊穣などを祈る場として、住民たちは先人への感謝と地域の安寧を願って参拝を続けています。