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古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

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人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

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時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

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胴塚の楠(今治市・朝倉地区)

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源平合戦が残した伝承と地域の信仰

彩咲あさくら、今治市立朝倉中学校の向かいに建つ、朝倉福祉センターと児童館。

その裏手に広がる「朝倉中学校 第2運動場(旧・朝倉村民グランド)」の隅に、枝を大きく広げた大きなクスノキが静かにそびえています。

樹齢およそ800年、幹周8.15メートル、樹高23メートルを誇る堂々たる姿で、昭和56年(1981年)には今治市の天然記念物にも指定されています。

地元では「胴塚の楠」や親しみを込めて「八ヶ所さん」と呼ばれ、長く地域の人々に見守られてきました。

実はこの楠は、ただの巨木ではありません。

その根元には、平安時代末期に全国で繰り広げられた源平合戦にまつわる伝承が眠っているのです。

源平合戦の記憶を伝える胴塚の楠

源平合戦は、治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけておよそ5年間続いた、源氏と平氏の両氏が全国各地で激しく戦った内乱です。

京の都から東国、さらには西国の海路に至るまで広範囲で戦火が広がり、日本史の大きな転換点となりました。

最終的には元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、源頼朝が鎌倉幕府を開くことになります。

「伊予河野氏の蜂起」

この騒乱のさなか、ここ伊予の地でも壮絶な戦いが繰り広げられました。

伊予国の豪族であった河野通清(こうの みちきよ)は、瀬戸内海の水軍を率いる有力武将で、越智郡三谷郷を本拠としていました。

当時、伊予国は平清盛の嫡男である平重盛、ついでその子・平維盛(たいらのこれもり)が国司として任じられており、名実ともに平家の勢力下に置かれていました。

維盛は中央にとどまる遥任国司(ようにんこくし)で、実際の政務は目代(もくだい)が代行していましたが、その統治は強権的で、伊予国の豪族たちは平家の意向を無視できない状況に置かれていました。

こうしたなか、治承4年(1180年)7月、伊予国の有力豪族であった河野通清(こうの みちきよ)が、平家に反旗を翻します。

この挙兵は「伊予河野氏の蜂起」として知られ、源頼朝が伊豆で挙兵するよりも一か月早い、全国的に見ても最初期の反平家蜂起のひとつでした。

これは源頼朝が伊豆で挙兵するよりも一か月早い時期であり、全国的に見ても最初期の反平家蜂起のひとつでした。

討伐軍と激突と通清の討死

通清は松山の高縄城を拠点に兵を挙げ、伊予国司・平維盛の配下である目代の館を次々に攻撃・追放し、伊予国内の平家方の拠点を次々に制圧しました。

この行動は伊予国における平家支配を大きく揺るがすもので、平家政権にとって看過できない脅威となります。

平家政権は、河野通清の蜂起を重大な脅威とみなし、備後国尾道を拠点とする僧形の武将・奴可入道西寂(ぬかのせいじゃく)に討伐を命じました。

これを受けて、西寂は討伐軍の大将として大軍を率いて伊予に侵攻し、通清と激突します。

さらに阿波の豪族・田口成良らも平家方として兵を挙げたため、通清は東西から挟み撃ちにされる形となりました。

通清は松山・高縄城に籠城し、一族・郎党とともに必死の防戦を続けます。

城は連日攻め立てられ、炎に包まれながらもなお抵抗を続けましたが、ついに落城。

それでも通清は抗戦をやめず、城を打って出て奮戦しますが、粟井坂付近で待ち伏せに遭い、壮絶な最期を遂げました。

討ち取られた通清の首は松山市東大栗町に運ばれ、丁重に葬られ、現在も「首塚さま」と呼ばれ、地元の人々によって供養が続けられています。

河野氏再起の狼煙

この戦いで河野一族も多くが命を落とし、伊予国内における河野氏の勢力は壊滅的な打撃を受け、いったん平家方の勢力下に置かれました。

しかし、河野氏の血脈と闘志は絶えることはありませんでした。

通清の嫡子・河野通信(こうの みちのぶ)は、幼少期に母方の縁を頼り安芸国(現在の広島県三原市周辺)の奴田氏のもとに身を寄せていましたが、父の戦死の報を聞くや、深い悲しみとともに父の無念を晴らすことを誓います。

急いで伊予へ戻った通信は、養和元年(1181年)正月15日、武士百余騎を率いて備後国(現:広島県東部)鞆の浦へ進軍。

その夜、討伐軍の大将・西寂が酒宴を開き、遊女と酒を酌み交わしていた隙を突き、わずか百余騎の精鋭を率いて急襲しました。

不意を突かれた西寂は、混乱の中であっという間に捕らえられました。

通信はそのまま西寂を伊予へ連れ帰り、高縄城で処刑を執行し、父の無念を晴らしました。

『平家物語』には、通信が父・通清の首を並べて見せ、西寂を鋸で斬ったとも、磔にしたとも記されており、その壮絶さが語り継がれています。

この仇討ちをきっかけに河野氏は伊予国内での勢力を回復し、反平家勢力の旗頭として台頭します。

さらに通信は一族と河野水軍を率い、源義経と共に出陣。屋島の戦い(元暦元年・1184年)や壇ノ浦の戦い(元暦2年・1185年)で活躍し、その名は全国に轟きました。

この活躍によって河野氏は伊予国内で揺るぎない地位を確立し、 通信は鎌倉幕府の御家人として源頼朝から正式に伊予国の統治権を認められるまでになりました。

以降、河野氏は伊予を代表する有力武家として成長し、瀬戸内海に強い影響力を持つ水軍の棟梁として名を馳せます。

芸予諸島を拠点とする村上水軍などと連携し、海上交通を掌握。

交易や戦乱の要衝である瀬戸内を勢力に置くことで、河野氏は中世日本の政治・軍事の舞台においても重要な存在となっていきました。

「胴塚の楠」朝倉郷の戦いと伝承

この胴塚の楠にまつわる伝承は、河野通信が伊予で繰り広げた源平合戦の一幕に由来しています。

寿永3年(1184年)、河野通信は西寂の残党を追撃し、朝倉郷辻堂付近まで追いつめました。

河野軍は激戦の末、西寂方の武士48人を討ち取り、甦って害をなすことを恐れたのか、近くの池(血洗池)で首を洗い清めたと伝えられます。

その首は下朝小学校(現・今治市立朝倉小学校)の敷地に葬られ、さらにその上には辻堂にあった肩きり地蔵が安置されました。

一方、胴体は血洗池のすぐそばに埋められ、その上に植えられたとされるのが、現在も朝倉村民グランド北東隅にそびえる「胴塚の楠」です。

この楠と肩きり地蔵は、昭和56年(1981年)6月30日に「大楠と肩きり地蔵」の名で今治市の史跡・天然記念物に指定され、今も地域の歴史を伝える貴重な存在として大切に守られています。

「肩きり地蔵の伝承」

肩きり地蔵には、もうひとつの悲しい物語が伝わっています。

何百年か後のこと、朝倉の里に「お民」という心優しい娘がいました。

幼くして両親を亡くし、祖父母に育てられたお民は、ある日、新しく赴任してきた役人の家に下女として奉公することになります。

お民はよく働き、気難しい役人の妻にもたいへん気に入られていました。

ある日、役人の家で大勢の客をもてなすことになり、村中から膳や椀を借り集めましたが、どうしても数が足りません。

役人は樹之本薬師に願をかけ、翌朝、お民が出かけると不思議なことにお願いした数だけの膳椀が揃っていました。

ところが、宴が終わって後片付けをすると、借りた膳椀が1組足りないことが判明します。

役人は下男や下女、近所の手伝い人を一人一人調べましたが見つからず、怒りにまかせて「誰かが盗んだのだろう」と怒鳴り散らしました。

村人たちは役人を笑い、早く犯人を見つけるよう騒ぎ立てます。困った役人は、ついにお民を犯人に仕立てあげ、村人たちの前で肩の付け根から両腕を切り落としてしまいました。

その夜、祖父母はお民を不憫に思い、切り落とされた両腕を布で包み、石打峠(いしうちとうげ)のお地蔵様に一心に祈願しました。

翌朝、お民の両腕は不思議なことに傷ひとつなく元通りになっていました。

お礼参りに行くと、お地蔵様の両腕がなくなっており、村人たちは「お地蔵様がお民の身代わりになられたのだ」と涙しました。

やがてお民の無実が明らかになり、村人たちは罪を悔い改め、お民は祖父母と共に幸せに暮らしたと伝えられています。
このお地蔵様は、もともと平家方48人の戦死者を慰霊するために作られたといわれ、現在も朝倉小学校の校庭の片隅に祀られ、「手無し地蔵さん」と呼ばれています。

供え物が絶えることなく、今も地域の人々の信仰を集めています。

「石打峠」地名に残る記憶

この伝承に登場する石打峠には、さらに河野通信の戦いにまつわる逸話が残されています。

河野通信の軍勢は西寂方を追撃する途中で矢玉が尽き、苦境に立たされましたが、頓田川の小石を拾い集め、それを敵に投げつけて戦い続けたといいます。

ついに西寂方の残党はこれに耐えきれず、桜井郷長沢方面へと敗走しました。

この出来事を後世に伝えるため、朝倉と長沢の境にある峠は石打峠と呼ばれるようになったといわれています。

現在もその名は地図や住所に残っており、長沢地区では「石打(いしぶて)」として地名に受け継がれています。

源平合戦の記憶を伝える「胴塚の楠」

朝倉村民グランドの北東隅に立つ胴塚の楠、今治市立朝倉小学校の片隅に祀られる肩きり地蔵(手無し地蔵)、そして朝倉と長沢を分ける石打峠。

これらはすべて、寿永3年(1184年)に河野通信が率いた軍勢と西寂方の残党との戦いを今に伝える“生きた史跡”です。

なかでも、胴塚の楠はその中心的存在として、戦いの記憶と村人たちの祈りを800年の時を越えて見守り続けています。

そして現在、このかつての戦いの舞台である朝倉中学校 第2運動場は、地域の人々が集う憩いの場となっています。

毎年夏には「あさくらサマーフェスタ」が盛大に催され、屋台やテントが立ち並び、夕暮れとともに踊りの輪が広がります。

地域に伝わる伝統芸能「継ぎ獅子」が勇壮に舞い、太鼓のリズムに合わせて盆踊りが始まると、会場は熱気に包まれます。

祭りのクライマックスには花火が打ち上げられ、暗い空に大輪の光が咲き、人々の歓声が響きます。

光と音が重なり合い、まるでこの地に刻まれた長い歴史を祝福するかのように、朝倉の夏を鮮やかに締めくくります。

かつて戦の叫びがこだましたこの地は、今では笑い声と太鼓の音にあふれる場所となりました。

夜空を照らす花火の光の下、胴塚の楠は静かにその風景を見守り、朝倉の人々とともに歴史を未来へと語り継いでいるのです。

史跡名

胴塚の楠(どうつかのくすのき)

所在地

愛媛県今治市朝倉下甲548-1

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