「歓喜寺(かんきじ)」 は、伊予の豪族・河野氏の祈願寺として建立された寺院で、一族の繁栄と平安を祈る重要な場所でした。
創建と変遷
創建は元慶三年(940年)にさかのぼります。当初、歓喜寺は下村岡に建立され、「海楽寺(かいらくじ)」と称されていました。
この時、本寺(本山)は無量寺の前身で、朝倉上村にあった車無寺(くるまんじ)であったと伝えられています。
時代の流れとともに、歓喜寺は下村岡の「之本」という地へ移転し、その後、古谷村の歓喜寺坂(カンゲイジザカ)へと移されました。
江戸時代の寛文年間(1661~1673年)には、現在の地である町谷村(今治市・富田地区)に移転・再建され、改めて新たな拠点として定着しました。
以降、歓喜寺は地域に根ざした信仰の場として静かに歴史を重ねてきましたが、昭和に入り大きな困難に直面することとなります。
台風からの復興
昭和46年(1971年)8月、台風10号が襲来し、歓喜寺の本堂は倒壊するという大きな被害を受けました。
突然の災害により、寺の存続が危ぶまれる状況となりましたが、地域の人々の支えと復興への強い思いによって再建の計画が進められました。
懸命な復興努力の結果、昭和51年(1976年)に新しい本堂が完成し、歓喜寺は再び地域の信仰の中心としての役割を取り戻しました。
この再建は単なる建物の復旧ではなく、地域の人々の団結と信仰心の象徴ともなりました。災害を乗り越えた歓喜寺は、地域にとって一層かけがえのない存在となったのです。
そして現在も、歓喜寺は地域の人々にとって重要な信仰の場として受け継がれ、信仰が続いています。
「町谷のお薬師さん」本尊・薬師如来
歓喜寺の本尊は、大仏師・左右見名匠によって精巧に造られた「薬師如来」で、「町谷のお薬師さん」として親しまれています。
この薬師如来は「秘作」とされ、弘法大師(空海)が四国巡錫の際に開眼供養を行ったと伝わる、神聖視される仏像です。
多伎神社との結びつきと神仏習合
歓喜寺(かんきじ)は、かつて同じく古谷にある多伎神社(今治市古谷)の別当寺としての役割を果たしており、地域信仰に深く結びついた寺院として知られていました。
神仏習合の時代、仏教が日本に伝来して以降、明治時代に至るまで、神道と仏教は長らく共存し、ときに融合しながら日本独自の信仰形態を形づくってきました。
神社の祭祀や運営には、仏教寺院が深く関わることも多く、寺院が「別当」として神社を管理・支配する体制が広く見られました。
仏僧が神職を兼ねることもあり、神と仏が一体とされた独自の信仰が各地で根づいていったのです。
この結びつきは、明治時代に神仏分離令が施行されるまで続きましたが、その後も歓喜寺は地域信仰の中で重要な存在として存続し、今もなおその歴史的な役割を果たしています。
「宝篋印塔」室町時代の石造美術
境内に静かに佇む宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、室町時代の建立と伝えられ、当時の信仰と石工技術の粋を今に伝える貴重な石造物です。
もとは旧歓喜寺があった古谷・歓喜寺坂の北側登り口に建てられていましたが、本堂の改築にともない、現在の場所へと移されました。
宝篋印塔とは、仏教の経典や仏舎利(遺骨)、あるいは供養のための宝物などを納めるために造られる塔で、鎌倉時代から室町時代にかけて各地で盛んに建立されました。
歓喜寺の宝篋印塔もその一つで、塔身や笠、相輪に至るまで精緻な彫刻が施されており、石工の高い技術と篤い信仰心が随所に表れています。
高さのある構造ながら、全体に調和のとれた優美な姿を保ち、地域の文化財として今日まで大切に受け継がれています。
「歓喜寺と治水」鹿ノ子池との関係
歓喜寺は、江戸時代における今治地域の治水事業とも深く関わっています。
当時の今治地域は、地形的な要因から水不足が深刻な問題となっていました。川の水量は安定せず、年間の降水量も十分とは言えず、農業用水の確保は常に課題となっていたのです。
江戸時代の治水事業
江戸時代に入ると、農業の発展にともない、今治地域では水不足の解消に向けた治水事業が各地で積極的に進められるようになりました。
その一環として築かれたのが、歓喜寺山の北麓に位置する「鹿ノ子池(かのこいけ)」です。
当時、鹿ノ子池周辺には広大な農地が広がっていたものの、水源に乏しく、農業を安定的に営むには用水の確保が大きな課題となっていました。
そこで地域の人々は、歓喜寺山の地形を活かし、山から流れ込む雨水を貯めるためのため池の建設を計画します。
この治水事業において、歓喜寺は精神的な支柱として、農業の安定と水の恵みを願う祈りの場となり、人々の信仰を集めました。
現代へと続く鹿ノ子池
そして寛政8年(1771年)、およそ29年の歳月をかけて、今治地域でも最大規模となる鹿ノ子池が完成しました。
これにより、安定的な農業用水の供給が可能となり、深刻だった水不足の問題が大きく改善されました。
鹿ノ子池は、現在もなお地域の田畑を潤し続け、今治の農業と人々の暮らしを支えています。