瀬戸内の港町に息づく守護寺
「神供寺(じんぐじ)」は、愛媛県今治市本町六丁目にある高野山真言宗の寺院です。
瀬戸内海に面した港町・今治は、古くから海運と交易で栄え、漁師や船乗り、商人たちが行き交う活気ある町でした。
そうした海とともに生きる人々の暮らしの中で、神供寺は信仰と祈りの拠点として歩み続けてきました。
神供寺の創建と歴史
神供寺の創建は、戦国時代の真っ只中の元亀三年(1572年)。
この時代、織田信長が上洛を果たして天下統一へ歩みを進める一方、各地では戦国大名が覇を競い、合戦と政変が絶えない混乱期でした。
元亀三年は武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った年であり、四国でも長宗我部元親が土佐を平定し、伊予や讃岐への進出を狙っていた緊張の時期です。
このような不安定な情勢の中で、快賢上人という僧侶が今治の地に寺院を建立し、人々の心の拠り所を築きました。
当時は、祈祷と修法をもって地域の安寧と安全を祈願する場として、戦乱の時代を生きる人々の精神的支柱となったと考えられます。
大覚寺派直末寺として
創建当初の神供寺は、京都嵯峨・大覚寺派の直末寺として位置づけられていました。
大覚寺は、平安時代初期に嵯峨天皇(さがてんのう)が嵯峨野の離宮「嵯峨院」を寺院に改めたことに始まる名刹で、真言宗の中でも特に皇室や公家との結びつきが深い寺院です。
嵯峨天皇ゆかりの寺であることから「嵯峨御所」とも呼ばれ、歴代天皇や摂関家の帰依を受けてきました。
その宗風はきわめて厳格で、学問(教学)と修法(祈祷・加持)の両面で高い水準を保っており、全国の末寺に規範を示してきました。
密教儀礼や年中行事の次第も整えられ、末寺はそれに則って法会や祈願を営むことが求められました。
神供寺もこうした大覚寺派の伝統を受け継ぎ、伊予国における大覚寺派の拠点寺院として、宗派内の僧侶の育成や法会の開催を担いました。
城下町今治と神供寺
時代が進み、慶長5年(1600年)。
関ヶ原の戦いで東軍に属して大きな功績を挙げた藤堂高虎(とうどう たかとら)は、徳川家康から伊予国中部12万石を拝領し、今治を中心とする地を治めることとなりました。
当初は、国府の置かれていた桜井地区の国分山城(国府城・唐子山城)を居城としました。
この城は、かつて能島村上氏の第五代当主・村上武吉(むらかみ たけよし)が築いたと伝わる山城で、瀬戸内海と伊予内陸部を結ぶ戦略的要衝として戦国期を通じて重視されてきた場所でした。
しかし関ヶ原の後、豊臣家はなお大坂城に健在で徳川との緊張は続いていたものの、全国的には大規模な戦が影をひそめ、世の中は戦国の混乱から徐々に安定へと移り変わっていきます。
高虎は、この新しい時代において、もはや戦国期のような山城は時代にそぐわないと考えました。
一方、当時の今治の領地は二分されており、近隣には加藤嘉明が拠点とする拝志城がありました。
このような状況の中で、高虎は防御機能に加え、港湾機能を備え、経済的にも利便性の高い新たな城の建設を決断。
こうして慶長7年(1602年)、藤堂高虎は海辺に新たな城の築城に着手します。
これが、後に「日本三大水城」のひとつに数えられる今治城です。
築城と並行して、城下町の整備も進められました。
港を中心とした町割りが計画的に行われ、武家屋敷、町人町、寺院、社寺の位置づけが整えられ、今治は近世都市としての姿を整えていきます。
このとき神供寺も城下町の宗教施設として重視され、町方祈願所としての役割を担いました。
町人や商人たちはここに集い、五穀豊穣・疫病退散・商売繁盛・海上安全などの共同祈願を行い、地域社会の安寧を祈ったのです。
大覚寺派から高野山真言宗へ
こうして神供寺は、大覚寺派の直末寺として城下町の形成と発展に深く関わり、宗教的・文化的な中核を担う寺院へと成長していったのです。
しかし、昭和16年(1941年)に日本が太平洋戦争へと突入すると、状況は一変します。
国家主導による宗教政策の再編成が進められ、長く大覚寺派に属していた神供寺もその例外ではなく、高野山金剛峯寺を本山とする高野山真言宗へと転属することとなりました。
所属してきた真言宗大覚寺派から離れ、本山を高野山金剛峯寺と直末寺として、高野山真言宗に転属します。
この宗派転属は、寺院側の自主的判断というよりも国家主導の宗教政策の結果であり、大覚寺派に属していた全国の寺院の多くが同様に再編の対象となりました。
これにより、神供寺は高野山真言宗の教義体系と宗務規則に基づいて運営されるようになり、法会や年中行事の形式も高野山流に改められました。
宗派内での立場や役割も再定義され、それまで大覚寺派直末寺として培ってきた僧侶同士の結びつきは次第に薄れ、高野山を中心とする新しい宗派ネットワークに置き換えられていきます。
戦後復興と現在の神供寺
昭和20年(1945年)、第二次世界大戦が終結すると、日本は連合国軍の占領下に置かれ、国家による宗教統制は廃止されました。
新憲法と宗教法人令の施行により、信教の自由が明確に保障され、戦時中に行われた宗派統合や制度再編も法的には解消可能となりました。
しかし、神供寺は旧所属である真言宗大覚寺派に復帰することなく、高野山真言宗にとどまり続けました。
これは、戦後の混乱期において宗派再転属が容易ではなかった現実に加え、高野山真言宗としての宗務運営や年中行事が地域社会に定着し、檀信徒との関係維持を重視した結果と考えられます。
こうして神供寺は、戦後の時代においても高野山真言宗の一寺院として歩み続け、現在も地域の人々の信仰と生活を支える役割を果たし続けています。
漁師町の暮らしと祈願所
今治は古くから瀬戸内海の要衝として栄え、港を中心に発展してきた町です。
海運や交易の拠点であると同時に、漁業も盛んで、海と共に生きる人々の暮らしがこの町の文化を形づくってきました。
こうした港町の生活には、航海安全や大漁祈願をはじめとする海に関わる信仰が欠かせず、寺社は地域の人々にとって精神的なよりどころとなってきました。
神供寺が位置する本町六丁目は、古くからの漁師町である美保町を隣接しています。
美保町は江戸時代から「猟師町(りょうしまち)」とも呼ばれ、イワシ漁や網船、漁船が集まる活気ある漁業集落として、今治の海運と漁業の中核を担ってきました。
貞享元年(1684年)の「今治藩領改帳」には、猟師町の人口は292人、船数は64艘(大船7艘・網船7艘・漁船50艘)と記され、イワシ網代も8帳を数えています。
町奉行の管理下で魚類の沖売りや他所売りが禁じられ、秩序だった漁業経営が行われていました。
明治期には今治漁業組合が設立され、大正時代にはタイ・カレイ・フグ・サワラなどの水揚げで町は活況を呈しました。
そんな町の中央には美保神社が鎮座し、漁師や町人の信仰の中心として大切にされてきました。
こうした漁師町美保町に隣接する神供寺は、自然と港や海に生きる人々の信仰と結びつきを深め、航海安全・大漁祈願・海上守護の祈祷所としての役割を担ってきました。
その象徴ともいえるのが、境内に祀られる浪切不動尊(なみきりふどうそん)です。
「浪切不動尊」船を安全に導びく
浪切不動尊とは、弘法大師空海が遣唐使として唐からの帰路に遭遇した壮絶な体験に由来する、不動明王の信仰形態です。
平安時代初期、空海は唐で密教の教えを学び、日本へ持ち帰るための経典や仏具とともに帰国の途に就きました。
しかしその帰路、船は激しい嵐に襲われ、遭難寸前の危機に陥ります。空海は唐で造立した不動明王像を前に一心に祈願し、法力をもって加護を請いました。
すると不動明王が海上に出現し、荒れ狂う波を真っ二つに切り裂いて鎮め、船を安全に導いたと伝えられています。
この出来事により、不動明王は「浪を切り開く」救いの仏として篤く崇敬されるようになり、「浪切不動」の名で呼ばれるようになりました。
以後、浪切不動は海上安全の守護仏として広く信仰を集め、船乗りや漁師、港町の人々の心のよりどころとなってきました。
浪切不動尊は単に航海を守るだけでなく、祈願をすぐに仏に届ける速応の仏としても知られています。
願いが早く叶うとされ、航海安全・大漁祈願だけでなく、商売繁盛や家内安全、病気平癒など、生活にかかわるあらゆる祈願が捧げられてきました。
神供寺に祀られる浪切不動尊も、港町の寺院にふさわしく、古来より船乗りや漁師たちに篤く信仰されてきました。
そして現代でも、航海安全や漁業繁栄を祈る祈祷の場として、港町における信仰の中心としてその役割を果たしています。
境内に息づく歴史
神供寺の境内には、今治市指定文化財である木造不動明王立像を中心に、阿弥陀如来、弘法大師、脇童子、弁財天、観世音、青面金剛といった多くの木像が安置されています。
これらの仏像はいずれも長い年月を経て今に伝えられた貴重な尊像であり、神供寺が地域の祈りとともに歩んできた歴史を物語っています。
さらに、開山・快賢上人の墓が残されていることも、創建以来の歴史の重みを感じさせる存在です。
戦国時代の動乱の中にあって、人々の心の拠り所を築いた僧侶の足跡は、今なお境内に静かに息づき、地域の人々の心を支え続けています。