神仏探訪記 神仏探訪記

  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
    • 無量寺の幻のシダレザクラ──優雅に咲き誇った130年の絆
  • 探訪記データーベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • 写真の二次利用について
    • 参考文献・参考論・資料
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ
神社SHRINE

古くから信仰を集めてきた神社の由緒と、その土地に根付いた文化を紹介。

寺院TEMPLE

人々の心のよりどころとなった寺院を巡り、その背景を学ぶ。

史跡MONUMENT

時代ごとの歴史を刻む史跡を巡り、今治の魅力を再発見。

こぼれ話

FEATURE

04

クレジットカードの起源は桜井にあった!? 信用でつながる日本の商い
伝統×文化

FEATURE

01

今治の夏祭り「おんまく」とは?歴史と魅力を感じる市民の祭り
桜

FEATURE

05

頓田川に咲いた一人の想い、消えゆく桜並木に秘められた地元愛
今治タオル
【今治タオル物語①】今治藩が仕掛けた伊予木綿の成功戦略
今治山林火災
《今治山林火災⑥》鎮圧から鎮火へ──静かに消えた最後の熱源
伝統×文化
人の繋がりが育んだ伝統工芸『桜井漆器』── 無尽の心と月賦販売が生んだ信頼のものづくり
今治城の歴史
【今治城の歴史③】木山六之丞——夏の今治に響く築城の唄「木山音頭」
SHINTO SHRINE神社の歴史を知る

濱田八幡神社(今治市・波方地区)

  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
【PR】
・週末は愛媛へ!ソラハピで今すぐチケット検索
・引越し侍で愛媛移住!瀬戸内暮らしをはじめよう
・今治・瀬戸内の物件で移住を応援。お祝い金+サポート充実。

河野氏の勧請と感謝の松の木

濱田八幡神社(はまだはちまんじんじゃ・浜田八幡神社)は、愛媛県今治市波方町森上に鎮座する神社で、森上地域の氏神として古くから住民に信仰されてきました。

八幡大神を主祭神とし、地域の安泰と繁栄を祈る拠点として、また河野氏ゆかりの社として歴史的な意義を持つ神社です。

濱田八幡神社の由緒

濱田八幡神社の創建は、崇徳天皇の御代・保延元年(1135年)8月15日。

伊予国守を務めていた河野親清(こうの ちかきよ・河野伊予守親清)は、山城国(現・京都府八幡市)の石清水八幡宮から八幡大神を勧請し、伊予国内に二十六社を奉斎しました。

濱田八幡神社は、その二十六社のうちの一社として創建されたと伝えられています。

以来、河野氏一族や家臣団にとっては一族の守護神として、また森上地域の住民にとっては農業や漁業の繁栄、家内安全を祈る場として、篤く崇敬を受けてきました。

「源氏と八幡大神」氏神としての深い結びつき

八幡信仰が全国に広がる契機となったのは、名門武家・源氏が八幡大神を一族の氏神として篤く崇敬し、特別な守護神として仰いだことに始まります。

その信仰の拠点となったのが、京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)です。

石清水八幡宮の創建

平安時代初め、貞観元年(859年)、南都・大安寺の僧であった行教(ぎょうきょう)和尚は、豊前国(現在の大分県)宇佐八幡宮にこもり、日夜熱心に祈りを捧げていました。

その折、八幡大神より次のような神託を受けたと伝えられています。

「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん(私は都に近い男山の峰に移って、国家を守ろう)」

このお告げを行教が朝廷に奏上したところ、清和天皇の勅許が下り、八幡大神の分霊が宇佐神宮から山城国の男山(現在の京都府八幡市)に勧請されました。

こうして創建されたのが石清水八幡宮です。

神仏習合の宮寺としての姿

石清水八幡宮は、当時すでに存在していた石清水寺の境内に建立されたことから、神社と寺が一体となった「宮寺(ぐうじ・みやでら)」という形式をとるようになりました。

これは、日本古来の神道と、後に伝来した仏教とが融合した「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という信仰のかたちを反映したものでした。

神仏習合の中でも、とくに重要とされたのが「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」という考え方です。

これは、神は本来、仏が人々を救うために仮の姿で現れたもの(=垂迹)であるとする教義で、平安時代以降の日本で広く受け入れられました。

この思想のもと、八幡大神は釈迦如来の化身とされ、やがて「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」という仏教上の尊号をもって崇拝されるようになります。

つまり、八幡大神は神道の神でありながら、仏教の守護神としても信仰される存在となったのです。

この信仰の形はやがて全国の八幡宮に広まり、武士にとっては戦勝祈願の「武神」、民衆にとっては災厄除けの守り神として、幅広い人々の信仰を集めるようになりました。

そして、その信仰の拠点となったのが石清水八幡宮でした。

清和源氏が広めた八幡信仰

その後、石清水八幡宮は清和天皇の子孫であり、臣籍降下(=皇族から離れて臣下となること)して武士となった「清和源氏」にとっての氏神(うじがみ)として、特別な崇敬を集めるようになりました。

1046年(永承元年)には、「源義家(みなもと の よしいえ)」が石清水八幡宮で元服し「八幡太郎義家」と名乗り、「前九年の役」「後三年の役」で大きな軍功をあげ、「天下一の武勇の士」と讃えられました。

源義家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる人物で、その名声と功績は後の武士たちにも大きな影響を与えました。

そして、石清水八幡宮は武神として信仰されるようになったのです。

さらに、源頼朝も八幡信仰を重視し、鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に八幡大神を迎えて「鶴岡八幡宮」を建立しました。

この神社は、源氏の守護神としての象徴的存在となり、鎌倉幕府の精神的として、頼朝の家臣である御家人たちの参拝も盛んに行われるようになりました。

こうして、八幡大神は武士の「守護神=武神」としての信仰を全国に広げ、日本の武家文化における精神的支柱となっていったのです。

河野氏と越智氏、そして源氏の繋がり

実は創建に関わった河野親清は、源氏と深い関わりを持つ人物であったという説があります。

それによれば、親清は清和源氏の流れを汲む河内源氏の出身であり、源頼信の孫にあたる源頼義の四男とされ、源氏の正統な系譜に名を連ねていたと伝えられています。

その後、親清は伊予の有力豪族である越智氏に養子として迎えられ、「越智親清」と名乗って伊予国の政治基盤に加わりました。

やがて伊予国風早郡(現在の愛媛県松山市北条)の河野郷を本拠とするようになり、この地名にちなみ「河野」の姓を称したとされています。

こうして誕生した河野氏は、源氏の血統を引き継ぐとともに、中央政権との結びつきを背景に伊予国で大きな勢力を誇る一族へと成長していきました。

河野親清もまた、その一員として地域の発展に尽力し、源氏とのつながりを活かして石清水八幡宮より八幡大神を勧請し、濱田八幡神社を創建したと考えられます。

江戸期の海上交通と『日向松』伝承

濱田八幡神社の境内には、かつて「日向松(ひゅうがまつ)」と呼ばれる松が生えていました。この松は、単なる境内の樹木にとどまらず、地域の信仰や江戸時代の交流史を物語る象徴的な存在として知られていました。

藩主を救った燈明と今治藩の交流

伝承によれば、ある時、九州のある藩主が瀬戸内海を航行していた際、誤って航路を外れ難破の危機に陥りました。

そのとき、濱田八幡神社の燈明の光が船を導き、藩主は無事に災難を免れたといいます。

藩主はその神助に深く感謝し、日向国(現在の宮崎県)から松の苗木を奉納して境内に植えました。

これが「日向松」と呼ばれる由来です。

この伝承が広まった背景には、江戸時代の藩政体制があります。

江戸幕府の支配下で日本は諸藩に分割統治され、各藩は独自の政治や経済を営みながらも、瀬戸内海を通じて互いに物資や文化を交流していました。

今治藩はその海上交通の要衝に位置し、九州・四国・本州を結ぶ航路の中で他藩との結びつきを深めていました。

例えば、元禄4年(1692年)には、日向国飫肥藩(おびはん)の出身で今治藩の家老を務めた江嶋為信(えじま ためのぶ、1635~1695)が、日向からサツマイモを持ち帰り、飢饉対策として藩内に広めています。

これは両藩の交流の深さを示す史実のひとつであり、こうした背景を踏まえると「藩主を救った燈明」の逸話に登場する「九州のある藩主」とは、日向国の飫肥藩主の誰かだったのかもしれません。

馬島に伝わる「日向松」の由来

興味深いことに、今治沖の馬島にも「日向松」の伝承が伝わっています。

馬島の塩見勝衛門(現住の塩見家の先祖)は鮮魚の仕入れのためにたびたび日向へ渡航しました。

その際、枝ぶりの曲がった珍しい松を見て、ぜひ郷里に持ち帰りたいと願ったといいます。

当時は藩外への持ち出しが厳しく禁じられていましたが、勝衛門は日向との交易に大きく貢献していたため、特別に苗木の持ち帰りを許されました。

元禄年間に十二本の松を植えたとされ、やがて島全体に繁殖し、大木へと育ちました。

島民はこの松を「日向松」と呼び、大切にしてきましたが、近年は松食い虫の被害で多くが失われ、わずかにその子孫が残されています。

地域に受け継がれる二世の松

濱田八幡神社に奉納された日向松も、長きにわたり境内を守り続け、参拝者に神恩と伝承を思い起こさせる存在でした。

人々にとってその松は単なる樹木ではなく、海上交通の安全や地域の繁栄を祈る「信仰の象徴」だったのです。

やがて大木は虫害で枯れてしまいましたが、残された根株から新しい芽が生まれ、二世の松が境内に育っています。

この若木は往時の伝承を現代に語り継ぐ「生きた証」として、人々に大切に守られています。

そしてその姿は、濱田八幡神社が歩んできた歴史と信仰の継続を象徴するとともに、地域の未来へと受け継がれていく存在となっているのです。

神社名

濱田八幡神社(はまだはちまんじんじゃ)

所在地

愛媛県今治市波方町森上甲111

主な祭礼

例大祭(5月第4日曜日)

主祭神

品陀和気命・帯中津日子命・息長帯比女命(おきながたらしひめのみこと)

境内社

厳島神社・杵築神社・大山祇神社・金刀比羅宮

フォトギャラリーを閲覧する
  • Post
  • Share
  • Hatena
  • LINE
  • Pin it
  • note
神仏探訪記
次の記事
  • ホーム
  • 神仏探訪記
    • 神社
    • 寺院
    • 史跡
  • 特集
    • 「蒼社川の氾濫を止めろ!」今治が1200年かけて積み上げた治水プロジェクト
    • 無量寺の幻のシダレザクラ──優雅に咲き誇った130年の絆
  • 探訪記データーベース
  • フォトギャラリー
  • ご質問・お問い合わせ
    • 当サイトについて
    • 写真の二次利用について
    • 参考文献・参考論・資料
    • プライバシーポリシー
    • お問い合わせ