解き明かされぬ謎を秘めた伊予国分尼寺塔跡
伊予桜井駅からほど近い田園にひっそりと眠る小さな丘。
そこには「伊予国分尼寺塔跡」と刻まれた石碑が佇み、千年を超える歴史の記憶を静かに伝え続けています。
奈良時代の国家政策と伊予国分尼寺の創建
伊予国分尼寺が建立されたのは、奈良時代の国家政策に基づくものでした。
天平13年(741年)、聖武天皇は度重なる疫病や自然災害、そして社会不安を鎮めるため、全国の国ごとに国分寺と国分尼寺を置くことを詔しました。
この詔は、仏教を通して国家を守るという「鎮護国家」の思想を具体化したものです。
国分寺は男性僧侶のための寺院として、国家の平和と五穀豊穣を祈願する拠点となりました。
一方で国分尼寺は女性僧侶(尼僧)のために設けられ、正式には「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と呼ばれました。
ここでは法華経が中心的に読誦され、その功徳によって人々の罪を滅し、災厄から救済することを目的としていました。
つまり、伊予国分尼寺は単に宗教施設であるだけでなく、当時の国家と地域社会の安定を支える重要な拠点でもあったのです。
伊予を支えた女性僧
伊予国に建立された国分尼寺(現:法華寺)もこの流れを受けて誕生しました。
その存在は、国家の宗教政策が地方にまで浸透していたことを示すと同時に、伊予の地においても仏教が人々の暮らしと密接に結びついていたことを物語っています。
尼寺は男性中心だった古代社会の中で、女性が宗教的に公的な役割を担う場としても注目され、地域の文化的・精神的生活に大きな影響を与えたと考えられます。
なぜ桜井に建てられたのか
伊予国分尼寺塔跡が残る桜井の地は、古代において偶然選ばれたのではなく、いくつもの条件が重なったうえで建立の地と定められたと考えられます。
1.地理的条件
背後には引地山がそびえ、前面には南海道が通じ、さらに近くには桜井河口港が開けていました
山・陸路・港という三つの要素がそろう場所は、古代の伊予においてきわめて重要な交通・経済・宗教の結節点でした。
このような環境は、国家が直轄寺院を配置するのに理想的であったといえます。
2.宗教的意味
奈良時代の寺院はしばしば山を背にして建立されました。
山は神仏の依り代とされる聖なる存在であり、自然と宗教空間を結びつける思想が背景にあります。
引地山の裾に寺を構えることは、尼僧たちの修行の場としてふさわしい静けさを備えると同時に、山を聖地として取り込み、寺の格を高める意図もあったのでしょう。
3.国家的政策
聖武天皇は国分二寺建立の詔を通じて、仏教による「鎮護国家」を目指しました。
そのため国分寺・国分尼寺は、単なる地方寺院ではなく、中央と地方をつなぐ象徴的な役割を担っていました。
南海道という国家的幹線道路に面した桜井の地は、官寺を配置する場としてきわめて適していたのです。
立地が示す国分二寺の役割分担
さらに注目すべきは、国分寺との距離です。伊予
とはおよそ二キロメートルの近接関係にあり、これは讃岐国など他の地域でも見られる配置です。
男女僧尼による祈りの場を一定の距離を保って置くことにより、互いの役割を補完しながらも独立性を保たせる意図があったと考えられます。
これらの条件が重なり合い、伊予国分尼寺塔はこの地に建立されました。
いま残されているのは、花崗岩の礎石と基壇の一部にすぎませんが、その立地が物語る意味を読み解くことで、古代の国家政策と地域社会の姿が浮かび上がってくるのです。
塔跡が語る古来の土木技術
現在の伊予国分尼寺塔跡には、基壇と礎石がわずかに残されています。
基壇は東西約8メートル、南北約12メートル、高さおよそ0.7メートルの規模で、赤土と石灰土を交互に突き固めた版築技法によって築かれていました。
基壇の構造そのものが、奈良時代の土木技術の高さを示しています。
礎石は花崗岩製のものが6個残っており、そのうち5個は側柱礎石、1個は四天柱礎石とみられています。
大きさはおよそ80〜120センチメートルで、柱間は約2メートル。
表面は平らに仕上げられているものの、柱座の造り出しは確認されていません。
これらの特徴から、当初は三間四方、つまりおよそ6メートル四方の規模をもつ塔が建立されていたと推定されています。
こうした遺構からは、当時の寺院建築が必ずしも大規模でなくとも、国家的な祈りを担う象徴的存在であったことがうかがえます。
伊予の地における仏教文化の広がりを実感させる貴重な遺産です。
礎石から読み解く伊予国分尼寺塔の伽藍配置
伊予国分尼寺塔跡の周辺からは、塔の存在を裏づける数多くの瓦が出土しています。
これらの瓦は、建立年代や寺院の性格を探るうえで重要な手がかりとなっています。
まず注目されるのは、白鳳期の単弁・複弁蓮華文軒丸瓦です。
単弁蓮華文は素朴で力強い意匠をもち、複弁八葉蓮華文では花弁の縁に鋸歯文をめぐらすなど、精緻な装飾が施されています。
中房には多数の蓮子を配し、法隆寺式の系統を引く影響が見られます。これらは7世紀末から8世紀初頭にかけての特徴を備えており、尼寺創建より前の古い時代の活動を示唆するものです。
次に、奈良時代の均整唐草文軒平瓦も確認されています。
均整唐草文は、唐草模様を整然と配列した文様で、格式の高い寺院で用いられることが多く、国分寺や国分尼寺の建立時期に符合するものです。
さらに、布目瓦の破片も多数出土しており、瓦製作に布を押し当てて模様を転写する当時の工法を伝えています。
これらの出土瓦の層位関係や文様の特徴から、伊予国分尼寺塔跡が白鳳期にさかのぼる古い寺院の跡地であった可能性が浮かび上がってきます。
単に奈良時代の国分尼寺の遺構ではなく、それ以前からの信仰の場が存在していたことを示している点で、非常に貴重な資料といえるでしょう。
古代伊予に眠る尼寺の謎
名称からも分かるように、この場所は「国分尼寺の塔跡」、すなわち国分尼寺(現:法華寺)もが存在していた痕跡と考えられていました。
しかし、現在の研究では多くの見解が示されています。
法華寺の本来の地
近年の考古学的調査によって、法華寺の本来の所在は現在の伊予国分尼寺塔跡ではなく、桜井小学校付近にあったと考えられるようになりました。
校舎の建設や改築にともなって瓦や礎石が出土し、昭和55年(1980年)の発掘調査では柱列の痕跡が確認されており、寺院伽藍の存在を裏づけています。
さらに注目されるのは、出土瓦の中に伊予国分寺と同じ技法で製作されたものが含まれていた点です。
これにより、両者が「国分二寺」として制度的に対をなし、奈良時代の国分寺・国分尼寺建立の方針に則って並び立っていたことが明らかになってきました。
一方で法華寺は、その後の歴史の中で幾度となく戦乱や災害に見舞われました。
源平合戦や南北朝の動乱では伽藍が荒廃し、さらに豊臣秀吉による四国征伐でも被害を受けました。
焼失と再建を繰り返すなかで、江戸時代の寛永2年(1625年)にはより安全な引地山の麓へ移転し、以降は地域の信仰を支える寺院として現在にまで続いています。
「他中廃寺説」国分尼寺ではなかった塔跡
このような経緯を踏まえると、「伊予国分尼寺塔跡」と呼ばれる現在の遺構は、必ずしも国分尼寺の伽藍そのものではなく、別系統の寺院に由来する可能性が高いと考えられています。
それが「他中廃寺説」です。
「他中廃寺説」とは、塔跡の所在地の小字「他中(たちゅう)」にちなんで呼ばれており、伊予国分尼寺塔跡とされてきたこの遺構が、実際には国分尼寺とは無関係の独立した寺院跡であると考える見解です。
この説を裏づける根拠として、いくつかの重要な点が挙げられます。
- 国分尼寺に塔を持たないのが通例であること
国分尼寺は、尼僧が修行や法華経読誦を行う場であり、伽藍には講堂や金堂などが中心となるのが一般的でした。そのため、塔が建てられることはほとんどなく、この地の大規模な塔基壇は国分尼寺の伽藍にそぐわないとされます。 - 出土瓦が国分尼寺の創建よりも古い白鳳期にさかのぼること
遺構から出土した瓦の中には、7世紀後半の白鳳期に製作された蓮華文軒丸瓦などが含まれています。伊予国分尼寺の創建は奈良時代中期であるため、年代的に整合しない点が大きな根拠となっています。 - 規模や伽藍配置から尼寺の塔とは考えにくいこと
基壇の規模は約8メートル×12メートル、高さ0.7メートルと推定され、五重塔を想定できる規模を備えています。これは国分尼寺の伽藍に置かれる塔としては過大であり、別個の寺院として計画された可能性が高いとされます。
こうした点から、伊予国分尼寺塔跡は、実際には国分尼寺に属さない「他中廃寺」、すなわち白鳳期から奈良時代初頭にかけて存在した独立した寺院跡であるという見解が有力になってきました。
越智直の建立寺院説
「他中廃寺説」と並んで注目されるのが、伊予豪族・越智直(おちのあたい、小千守興・越智守興とも伝わる)による建立寺院説です。
これは『日本霊異記』に記された伝承をもとに、この地に越智氏の祖先が寺院を建てたとする見解です。
この説は、古代日本の外交と戦乱の只中で起こった「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」と深く結びついています。
白村江の戦い
7世紀半ばの朝鮮半島は、三国(高句麗・百済・新羅)が互いに覇権を争う不安定な時代でした。
その中で、唐と手を結んだ新羅が勢力を拡大し、660年、新羅・唐の連合軍によって百済が滅亡します。
百済は古くから日本と深い結びつきを持ち、王族の交流や技術・文化の伝来を通じて日本の発展に寄与してきました。そのため、日本にとって百済の滅亡は外交的・文化的に大きな打撃となりました。
百済の遺臣たちは再興を願い、日本に救援を要請します。
これに応じて 斉明天皇は出兵を決意し、軍勢の編成を進めました。のちに斉明天皇が崩御すると、中大兄皇子(後の天智天皇)が総指揮をとり、日本は百済復興のために大規模な遠征を開始します。
こうして 663年(天智天皇2年)、朝鮮半島の白村江(現在の錦江〈クムガン〉河口付近)において、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突しました。
これが「白村江の戦い」です。
戦いは大規模な海戦となり、日本側は連戦連敗を喫し、ついに壊滅的な敗北を迎えました。
百済の再興は果たせず、日本は朝鮮半島における影響力を完全に失うことになります。
この敗戦は国家にとって重大な転機となり、日本は以後、唐の制度を取り入れた律令国家の形成を急ぐようになります。
この戦いにおいて、日本水軍の大将に任じられたのが伊予の豪族・越智直(小千守興)でした。
越智直は瀬戸内海の海上交通を掌握する伊予水軍を率い、遠征の主力として参戦しました。
斉明天皇は出陣の途上で伊予の朝倉郷に滞在し、その際、越智氏が勧請した大山祇神社に国宝「禽獣葡萄鏡」を奉納し戦勝を祈願したと伝えられています。
これは、伊予豪族と中央政権との強い結びつきを示す象徴的な出来事です。
しかし、戦の結果は日本軍の大敗。
帰還できた将兵はごくわずかであったといわれています。
その中で生還した越智直は、自らの命が助かったことを観音菩薩の加護と考え、帰国後に観音菩薩へ感謝して寺院を建立したと『日本霊異記』に記されています。
この伝承と「伊予国分尼寺塔跡」との関連が注目される理由は、年代の一致にあります。
遺構から出土した瓦には、7世紀後半〜8世紀初頭の白鳳期の蓮華文軒丸瓦が含まれており、これはまさに白村江の戦い直後の時期に相当します。
こうした考古学的痕跡と伝承が重なることから、この塔跡を越智直の建立寺院と見る説が唱えられてきました。
もっとも、寺名や所在地を直接示す史料は残されていないため、確証を得ることはできず、その真相はいまもなお謎に包まれています。
古代伊予を映す小さな丘
伊予国分尼寺塔跡は昭和31年(1956年)に愛媛県指定史跡となり 保存と調査により、古代伊予における仏教の受容と展開を示す貴重な遺構として広く知られるようになりました。
その小さな丘に刻まれた歴史は、いまも人々の祈りと記憶を静かに伝え続けています。