愛媛最初の国指定史跡
「伊予国分寺塔跡(いよこくぶんじとうあと)」は、愛媛県今治市国分の唐子山西南麓に位置する奈良時代の寺院遺構です。
現在の国分寺(四国霊場第五十九番札所)の東約100メートルに所在しており、基壇と礎石が残されています。
1921(大正10)年3月3日には、愛媛県で最初の国指定史跡として「伊予国分寺塔跡」が指定されました。
かつては七重塔が建立されていたと考えられ、当時の伊予国分寺の壮大な伽藍を偲ぶことができる貴重な史跡です。
国分寺制度と国家鎮護の祈り
奈良時代の日本は、天然痘の流行や飢饉、政情不安に見舞われ、国家の安定が大きな課題となっていました。
天平十三年(741)、聖武天皇は仏教の力を国家鎮護の柱とするため、各国の国府所在地に国分寺と国分尼寺を建立するよう詔を発しました。
国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」と称され、四天王の加護によって国を守る役割を担いました。
一方の国分尼寺は「法華滅罪之寺」と呼ばれ、法華経を読誦し、国家の安泰と罪障の消滅を祈願する場とされました。
これらは単なる宗教施設ではなく、律令国家の地方支配を支える象徴的な存在でもありました。
戦乱と再建を繰り返した寺の歩み
伊予国分寺の創建年代は明確ではありませんが、『続日本紀』に天平神護二年(766)、伊予国分寺に僧綱を置いたとの記録が見え、この時点で既に寺院としての体裁が整っていたことがわかります。
したがって八世紀半ばまでには伽藍が完成していたと推定されます。
当初の伽藍は塔を中心に金堂や講堂を一直線に並べ、その周囲を回廊が囲む壮大な配置であったと考えられています。
とりわけ塔は七重であった可能性が高く、伊予国分寺が地方寺院の中でも屈指の規模を誇ったことを物語っています。
その後の歴史の中で、伊予国分寺は幾度も災禍に見舞われました。
平安中期の藤原純友の乱では兵火により焼失し、鎌倉時代から南北朝時代にかけても戦乱によって荒廃しました。
しかし地域の有力者や為政者の支援により再建が繰り返され、寺としての命脈は保たれていきました。とはいえ、当初の壮大な伽藍は徐々に失われ、今日に残るのは塔跡や礎石といった遺構に限られます。
江戸時代になると、伊予国分寺は現在地に移転して再建されました。
真言宗の寺院として整備が進み、やがて四国八十八箇所の第五十九番札所に組み込まれることで、遍路文化とともに全国からの信仰を集めるようになりました。
こうして伊予国分寺は、奈良時代における国家鎮護の象徴であると同時に、時代を超えて地域信仰の中心となる寺院として歩みを続けています。
七重塔の規模と塔跡の遺構
塔跡は高さ約1.2メートル、広さ約100平方メートルの基壇の上に礎石が並んでいます。
現存する礎石は13個ですが、1968(昭和43)年の発掘調査によって、当初は16〜17個の礎石が存在していたことが判明しました。
礎石はいずれも花崗岩製で、最大のものは直径約2メートルに達します。
柱座は円形で凸状に加工され、「天平荒打ち」と呼ばれる技法で仕上げられています。
柱間は中央が3.6メートル、両側が3.3メートルで、基壇は9層以上の板築によって堅固に地固めされていました。
現存する礎石のうち、心礎や東北隅の礎石など5個は創建当初の位置に残っていると考えられています。
塔は七重であったと推定され、『続日本紀』の記録からもその可能性が高いです。
高さは60メートル以上に達したとする説もあり、伊予国分寺の威容を物語っています。
出土遺物と伊予地方の仏教文化
伊予国分寺塔跡では昭和以降に6回の発掘調査が行われています。
1968年の調査では、塔基壇のほか、東南約26メートルの地点に回廊跡とみられる溝状遺構や柱穴が確認されました。
これにより、伽藍全体の構造復元において塔跡が重要な基準点となることが明らかになっています。
また、発掘では須恵器・土師器、硯、墨書土器、赤色塗彩土師器など、古代寺院や官衙に典型的な遺物が出土しました。
第4次調査では倒壊瓦の堆積が発見され、最も新しい瓦が12世紀頃のものであったことから、この頃に塔が倒壊したと考えられます。
瓦は人為的に埋め戻されていたため、戦乱による破壊の可能性も指摘されています。
出土瓦の中には六弁花文軒丸瓦もあり、これは平安中期以降に飛鳥・奈良時代の文様を模して作られたものです。
松山市の来住廃寺出土品と類似し、伊予地方の仏教文化の連続性を示しています。
現在、出土した瓦の一部は愛媛県歴史文化博物館や今治城などに保管されています。
愛媛県第一号の国指定史跡
伊予国分寺塔跡が国史跡に指定された背景には、近代日本の文化財保護制度の成立があります。
1919(大正8)年に「史蹟名勝天然紀念物保存法」が公布され、翌年には愛媛県が「史蹟勝地調査会」を設置して県内調査を開始しました。
その結果、創建当初の礎石と瓦片が良好に遺存する伊予国分寺塔跡が保存すべき史跡と認められ、1921(大正10)年3月に県下で第一号の国指定史跡となりました。
この指定は、愛媛県の文化財保護史における出発点ともいえる画期的な出来事であり、今日まで続く保存・研究の礎となっています。
史跡公園としての整備と文化的意義
現在、伊予国分寺塔跡は史跡公園として整備され、礎石や基壇を間近に観察できます。
案内板や伽藍復元図が設置されており、訪れる人々は往時の壮大な七重塔や伽藍を想像することができます。
塔跡の西方には四国霊場第五十九番札所・伊予国分寺があり、参拝とあわせて訪れる人も多いです。
塔跡は、単に一寺院の遺構にとどまらず、奈良時代の国家政策と仏教文化、そして愛媛県における文化財保護の歴史を象徴する重要な遺跡として、今日も大切に保存されています。