「今治城」海に開かれたまちの記憶
今治の中心にあり、今治を象徴する存在。
それが今治城です。
江戸時代には藩庁として政治・経済・文化の中心を担い、藩政の拠点として繁栄しました。
明治維新の際に惜しくも天守や櫓は取り壊されましたが、堀や石垣などの遺構は残され、昭和55年(1980年)には天守が再建され、かつての威容を今に伝えています。
春には堀を彩る桜が咲き誇り、毎日、日没30分後から午後10時にはライトアップされた天守が水面に映える。
その風景は今治の四季を象徴する光景として、地元の人々にも観光客にも親しまれています。
今日では多くの観光客が訪れる今治市の代表的な史跡であり、地域の誇りとして愛されています。
しかし、今治城は単なる「歴史遺構」や「観光資源」ではありません。
今治市にとって、それ以上の意味を持つ存在です。
築城当初から今治城には船を直接着けることができる船入(ふないり)が設けられており、これが後に「今治港」へと発展していきました。
城と港、そして城下町が一体となった都市設計は、海上交通と経済を結びつけ、今治発展の礎となりました。
今治城は、今治市民にとって“過去と現在をつなぐ拠点”であり、また“海と港を通じたまちの可能性”を象徴する存在でもあるのです。
日本三大水城
今治城は、高松城、中津城とともに日本三大水城の一つに数えられます。
三城に共通する特徴は、海そのものを防御と交通の両面で取り込んだ点にあります。
今治では城郭、港湾、城下町の町割を一体に設計し、瀬戸内海の要衝として政治と経済を結びつけました。
海上交通に直結する構造は、平城であることの弱点を逆に強みに変えています。
中でも今治城の個性は、潮の利用と城下町との密接な関係にあります。
堀に引き込まれた潮の流れは、城を守るだけでなく、町の排水や船の往来にも利用されていました。今治城は単なる軍事拠点ではなく、港と町を結ぶ“水のインフラ”としての役割も担っていたのです。

城のお堀に生きる魚たち
この潮の仕組みは今も生き続けています。
堀には瀬戸内海の海水が流れ込み、潮の満ち引きによって自然に水が入れ替わります。
また、城の北側を流れる蒼社川の水も入り込んでいるため、堀の中では海水と淡水が混ざり合う、全国的にも珍しい環境が生まれています。
そのため、お堀にはクロダイ(チヌ)やボラ、フグ、ヒラメなどの海の魚に加え、メダカやフナといった川の魚も共に暮らしています。
春先にはサヨリの群れが水面をすべるように泳ぎ、ときには潮に乗ってエイやサメが迷い込み、市民を驚かせたこともあります。
人工の堀でありながら、まるで自然の入り江のように多様な生命が息づく。
それが今治城のお堀の魅力です。

呼び名が語る城の顔
今治城には、いくつもの呼称が伝わっています。
もっとも広く知られるのは「吹揚城(ふきあげじょう)」で、ほかに「美須賀城(みすかじょう)」「六条の城」などの名もあります。
- 吹揚城(ふきあげじょう):築城地が砂丘の上にあり、潮風に砂が吹き上げる地形に由来します。海辺に立ち、海風を受けてそびえる姿を象徴する名です。
- 美須賀城(みすかじょう):「遠くからも見通せる城」を意味する「みすかしの城」が転じたものと考えられます。「須賀」は海岸を意味し、美しい海辺に築かれた城を表しています。
- 六条の城(ろくじょうのしろ):この地にあった六位六条神社にちなむ名です。神社を包み込むように築かれたことから、今治城が軍事・商業・信仰を一体にした存在であったことを示しています。
また、「小田の長浜」は築城以前の地名であり、かつては今張の浦と呼ばれた人家もまばらな海浜でした。本丸のあたりには砂丘があり、これが「吹揚」の由来となったと伝えられます。
「日本のゼーランディア城」瀬戸内に浮かぶ未来の城
そしてもう一つ、今治城はその独創的な構造から「日本のゼーランディア城」とも呼ばれています。
ゼーランディア城(Fort Zeelandia)は、寛永元年(一六二四)にオランダ東インド会社が台湾・台南に築いた海上要塞です。
港と城を一体に設計し、潮の干満で港の水位を調整するという、当時としては画期的な構造を持っていました。
高松城や中津城も堀に海水を引き入れた「水城」ですが、それは主に防御のための仕組みでした。
一方、今治城は単に海を防壁として利用しただけでなく、港と城下町の機能を最初から取り入れて設計されました。
つまり、城の堀がそのまま船の航路となり、物資の出入りや経済活動にも直結していたのです。
この「城=港=都市」という設計思想は、“海を都市に取り込んだ城”として他に類を見ない発想であり、今治城がゼーランディア城と並び称される理由になります。
また、瀬戸内海からの船が近づくと、今治城はまさに“海に浮かぶ城”の姿をしており、この外観がゼーランディア城を想起させるともいわれています。
さらに、注目すべきは今治城の方が二十年も早く築かれていたという事実です。
オランダ東インド会社がゼーランディア城を築いたのは寛永元年(1624年)。
一方、今治城は慶長七年(1602年)に着工し、慶長九年(1604年)には完成していました。
この短期間で巨大な海城を築き上げたこと自体が驚異的ですが、潮の干満を活かし、港・城・町をひとつの循環に結びつける構想は、すでに日本の今治で形となっていたのです。
築城の名手・藤堂高虎
この今治城を築城したのが、黒田孝高(黒田官兵衛)、加藤清正と並び「築城三名人」のひとりとして知られる武将、藤堂高虎(とうどうたかとら)です。
幼少期と初陣
高虎は弘治2年(1556年)、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)に生まれました。
父は土豪・藤堂虎高。幼名を与吉、のちに与右衛門と称しました。
13歳のときに近江・小谷城主の浅井長政に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで15歳にして初陣を飾ります。
勇敢に戦ったと伝えられていますが、17歳のころ、同僚を斬殺したことで浅井家を出奔。
その後は各地を転々とし、阿閉貞征・磯野員昌・織田信澄など、複数の主君に仕えながら武技と築城技術を磨きました。
秀長との出会いと磨かれた技術
転機となったのは天正4年(1576年)、羽柴秀吉の弟・秀長に仕えたことでした。
秀長は温厚で教養のある人物で、築城や領国経営にも明るく、高虎にとって理想的な主君でした。
高虎はここで築城技術を体系的に学び、家中で頭角を現していきます。
当時の秀長家には、甲良大工(こうらだいく)、穴太衆(あのうしゅう)、法隆寺流の宮大工・中井正吉ら一流の技術者集団が集まっていました。
彼らは安土城や大和郡山城、和歌山城、伏見城などの工事にも携わり、日本建築の粋を体現していた人々です。
高虎はその中で、建築・石垣・町割などの技術を現場で学び取ったのです。
また、織田信澄のもとで学んだ城郭を幾何学的な線で囲む設計手法「輪郭式縄張(りんかくしきなわばり)を継承し、のちの自らの築城に応用します。
名城を次々に手がける
高虎の以下のように多くの築城に関わり、その技術は全国に知られるようになります。
- 自らの居城として:宇和島城・大洲城・今治城・津城・伊賀上野城
- 豊臣政権下の築城・改修:大和郡山城、聚楽第、和歌山城、伏見城
- 徳川政権下の築城・再築:江戸城、丹波篠山城、丹波亀山城、二条城、和歌山城、大坂城
いずれも美しい城下町を形成し、後世に「名城」と呼ばれるものばかりです。
高虎の築城の特徴は、実用性と美観の両立にあります。
無駄を排した直線的な石垣、整然とした町割り、海や川を活かした自然の防御施設。
それらは単なる軍事施設ではなく、都市計画としての完成度を備えていました。
技術と人を活かす才覚
藤堂高虎が「築城の名手」と呼ばれるのは、技術そのものの高さに加え、人材を育て、組織を動かす力にも優れていたからです。
中井家・甲良家といった宮大工や石工集団を尊重し、彼らの技能を最大限に発揮できる体制を整えました。
その結果、多くの名城が構造的にも美的にも高水準な仕上がりを見せています。
そして、その知見と経験が、瀬戸内海を望むこの地で生かされることになったのです。
「今治城の築城へ」高虎が描いた今治の未来
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでの功績によって、藤堂高虎は伊予国12万石を拝領し、国府が置かれていた桜井地区の国分山城(国府城・唐子山城)を本拠としました。
しかし時代は、戦乱から「天下泰平」へと移行しつつありました。
関ヶ原の戦いの後も豊臣家は大坂城に健在で、徳川と豊臣の間には依然として緊張が残っていましたが、全国的な大規模戦は次第に姿を消し、世の中は戦国の混乱期から安定の時代へと移行していったのです。
高虎は、この新しい時代においては、もはや戦国期のような山城は時代遅れであると考えました。
一方、当時の今治の領地は二分されており、近隣には加藤嘉明が拠点とする拝志城がありました。
このような状況の中で、高虎は瀬戸内海航路の要衝に位置するこの地を観察しながら、港と城下町を一体化した新しい城郭都市の構想を練り上げていきます。
やがて目を付けたのは、遠浅の海を埋め立てて開発された新開地「小田の長浜(おだのながはま)」と呼ばれていた、家のまばらな漁村でした。
そして慶長7年(1602年)、高虎はこの未開の地に、防御と流通、軍事と商業を融合させた理想の城を築くために動き出しました。
これが、後に日本三大水城の一つと称される今治城の築城の始まりです。
「今張」から「今治」 高虎の決意と築城の開始
慶長七年(1602年)、藤堂高虎は新城の築城に際して、地名を「今張(いまばり)」から「今治(いまばり)」へと改めました。
「張」は戦乱の緊張を、「治」は安定と統治を意味します。
その改名には、高虎が“戦の世から治める世へ”という時代の変化をこの地に刻もうとした意志が込められていました。
そして同年六月十一日、高虎はついに新城の築城に着手します。
このとき高虎は、伊予一宮である大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の本殿と拝殿を修繕し、工事の安全と国土の安寧を祈願しました。
大山祇神社は古来より海と山の守護神として広く崇敬されており、瀬戸内の要衝にあたる今治の人々にとっても、深い信仰の中心でした。
この神への祈りは、単なる儀礼ではなく、海とともに生きる城づくりを象徴していたといえます。
高虎が目指した今治城は、まさにその海の力を味方にし、潮の干満を利用して防御・交通・商業を一体化させた“海と共にある城”でした。
地域をあげた一大事業
この築城に際しては、膨大な建築資材が必要とされ、地方各地や越智郡の島々から大量の資材と人夫が動員されたと伝えられています。
この時、国分城をはじめ、かつて来島村上氏の本拠・来島の来島城、波方城など周辺の城も破却され、天守を含む建物の資材が今治へと運び込まれました。
また、寺院も例外ではなく、広紹寺(こうじょうじ)の伽藍が解体され、その良質な木材や石材が城の建設資材として転用されたといわれます。
こうして解体・運搬された石材や土砂は、山から海へと運ばれ、その中継拠点として活用されたのが、現在は衣干八幡大神社が鎮座する衣干じ衣干山(きぬぼしやま)でした。
一説によれば、この時の資材運搬の途中で衣干山の地で石や土がこぼれ落ち、それが幾重にも積み重なったことで、もともと丘陵であったこの地がさらに盛り上がり、現在のような小高い丘を形成したとされます。
また別の説では、築城作業の終了後に余った資材や土砂をまとめてこの地に積み上げたことが、地形に影響を与えたとも伝えられています。
このように、今治城の築城は地域全体を巻き込んだ一大事業でした。
城は単なる武の象徴ではなく、地域の寺社や旧城の記憶、そして人々の労力を受け継ぎながら築かれた、新しいまちの礎だったのです。
今治城の完成と転付
慶長九年(1604年)九月には本丸が完成し、慶長十三年(1608年)ごろには今治城はほぼ全体の姿を整えました。
瀬戸内海の潮を取り込んだ三重の堀、港と一体化した城下町、整然とした町割り。今治城は、軍事と経済、政治と流通を融合させた、まさに近世城郭の理想形でした。
しかし、築城からわずか数年後の慶長十四年(1609年)、藤堂高虎は徳川家康の命によって、伊勢国・津(現在の三重県津市)へ国替えとなります。
正式な転封は慶長十三年(1608年)に決定したもので、伊勢・伊賀の両国あわせて三十二万石という大領への移封でした。
この人事は、家康がもっとも信頼を寄せていた高虎を、江戸と京都の中間に配置し、西国大名への抑えとする戦略的意図によるものといわれています。
つまり、今治築城の成功によって、高虎は築城の名人としてだけでなく、徳川政権の安定を支える重臣として高く評価されたのです。
高虎の転封後、家臣で養子の藤堂高吉(とうどう たかよし)が今治城代として藩政を継承し、今治の治安と経営を担いました。
しかし、寛永十二年(1635年)、藤堂家は伊賀国名張への領地替えを命じられ、藤堂家による今治統治はわずか三十五年間で幕を閉じます。
その後、今治には久松松平家が入封し、初代今治藩主となりました。
以後、久松松平家は明治維新の廃藩置県に至るまで今治藩を治め、藤堂高虎が築いた城と町は、新たな藩政の舞台として長く受け継がれていきました。
「藤堂高虎像 」平和を見つめる築城の名将
今治は、古代に伊予国府が置かれるなど、古くから政治と交通の要衝として発展してきました。
その長い歴史の中で、多くの人々がこの地の繁栄を支えてきましたが、藤堂高虎はその中でも、近世今治の礎を築いた人物として、現在も今治市民に深く敬愛されています。
その功績を後世に伝えるため、平成16年(2004年)、今治城築城・開町400年祭記念事業として、藤堂高虎像が建立されました。
このブロンズ像を制作したのは、文化勲章受章の彫刻家・中村晋也(なかむら しんや)さんです。
鋳造は富山県高岡市の老舗・竹中銅器によるもので、像高3.5メートル、重量3.5トンの堂々たる姿を誇ります。

「平服姿」の名将像
高虎像は、戦国武将の像としては極めて異例の「平服姿」で表現されています。甲冑に身を固めることなく、小脇差ひと振りを帯び、静かに馬上で遠くを見つめています。馬もまた首を垂れ、砂を掻くように穏やかな動きを見せています。
中村氏は、高虎を“戦の猛将”としてではなく、“戦を抑えた知将”として造形しました。高虎が甲冑姿でないのは、一度も今治城から出陣していないためです。
戦いの日々から離れ、築城の現場を見回る高虎の姿をイメージし、普段の着物姿で表現されたのだといいます。
また、今治城では戦が起こらなかったことから、「平和の象徴としての武将像」という構想が生まれました。
中村氏は制作にあたり、まず藤堂高虎の墓を訪ねて手を合わせ、ゆかりの地を巡りながら史料を読み込み、高虎の生涯と人格を自らの中に映し取って制作を進めました。

今治を見守る高虎公のまなざし
藤堂高虎像は、単なる記念碑ではありません。
今治の海風を受けながら静かに立つその姿には、「治めることの力強さ」と「平和を見守るまなざし」が宿っています。
そして今日も、藤堂高虎公は瀬戸内の海と今治の街並みを静かに見つめながら、この町の歩みとともに時を重ね、今治の平和と繁栄を見守り続けています。