藤堂高虎が描いた未来の港町
瀬戸内の潮風を受けながら、ゆるやかに時を刻む今治の街並み。
その中心にそびえる今治城は、単なる歴史的建造物ではなく、この地の成り立ちそのものを形づくった存在です。
藤堂高虎は、ただ防御の拠点をつくったのではありません。
城と港とまち、人々の暮らしをひとつに結びつける、新時代の「港町のかたち」を描き出したのです。
今治の発展は、城とともに、そして海とともに歩んできました。
今日でも、城のまわりに広がる水辺や港町の風景の中に、その名残と息づかいを見ることができます。
三重の堀に守られた“海城”と町並み
今治城の最大の特徴は、三重の堀に海水を引き入れ、潮の干満を利用して水位を調整する“海城(うみじろ)”の構造です。
堀・中堀・内堀はいずれも瀬戸内海とつながり、潮の満ち引きによって自然に水が入れ替わる仕組みを備えていました。
これにより堀の水は常に清浄に保たれ、潮の干満を利用して水位を調整するという、きわめて高度な水利技術が用いられていました。
「規模と縄張り」江戸初期の壮大な海城
江戸時代の今治城は、現在の約十倍以上の規模を誇っていました。
三の丸の堀幅はおよそ40メートル、外堀の総延長は約2.4キロメートルにおよび、辰巳櫓(たつみやぐら)付近では堀幅が15〜31メートルに達していたと伝わります。
城の外周は約3.6キロメートル(東京ドーム約75個分の広さ)におよび、土塁の幅は約11メートル、高さは最大で13メートル前後にもなりました。
大手門・搦手門・船手門の三大門を備え、三重の堀に囲まれた壮大な縄張りが形成されていました。
現在の今治市旭町から北側の一帯は、当時すべて城内に含まれていたとされます。
城域の広さは、城内部分だけで約五町半四方、およそ600メートル四方(約36ヘクタール)。
城下全体では約900メートル四方(約81ヘクタール)にも達していました。
中央には本丸と城主居館を置く二の丸があり、これを内まわり約1,040メートル、幅約54メートルの内堀がぐるりと囲み、さらにその外側に長さ約1,420メートル・幅約36メートルの三の丸堀が続きました。
最外郭には、幅約14メートルの辰ノ口堀がめぐり、三重の堀によって城を守っていました。
このように広大な平城を維持し、防御と都市機能を両立させるためには、潮の力を巧みに取り込む設計が不可欠でした。
「潮汐と舟入」海から出入りできる城
これを支えていたのが、潮汐を巧みに利用した堀の構造でした。
堀の水は蒼社川から分水によって引き入れられ、さらに北側の水門からは海水を導入。
淡水と海水が混ざり合うことで水質を安定させ、防御性と実用性を兼ね備えていました。
堀の水位を常に一定に保つことで、船の通行が可能となり「舟入(ふないり)」と呼ばれる船着場が設けられました。
この舟入は外堀から海へ直接通じ、船で物資や兵糧を運び入れることができました。
平時には物資の流通や港機能を担い、戦時には水軍の出撃拠点としても活用されました。
この舟入の位置が、のちに発展して現在の今治港の原形となります。
「防御と築城技術」潮と石垣を味方に
潮の干満は防御にも生かされました。
満潮時には堀が満々と水をたたえ、退潮時には潮流が外へ向かって流れることで、敵の侵入を阻む“動く防壁”の役割を果たしました。
堀の幅は内堀で三十間(約54メートル)、三の丸堀で40メートルと広大で、弓矢の射程を超える距離を確保することで攻撃を困難にしていました。
石垣の高さは最大13mに達し、瀬戸内の砂地という軟弱な地盤を補うため「犬走り(いぬばしり)」と呼ばれる構造が取り入れられました。
石垣の基底部に幅4〜5メートルの平地を設け、荷重を分散し、潮の影響をやわらげることで基礎の安定を確保したのです。
これは高虎流の築城技術の精髄ともいえる工夫で、海辺という立地に見事に適応した構造でした。

「呑吐樋」潮とともに動く水門
こうした水利の技術を象徴するのが、「呑吐樋(どんどび)」と呼ばれる水門です。
呑吐樋は、今治城の外堀と泉川が合流する地点に設けられた樋門(ひもん)で、堀の水位を一定に保ち、潮の干満に応じて水を出し入れするための装置でした。
海水が満ちると門を閉ざして海水を“呑み”、潮が引くと門を開いて川の水を“吐く”ように見えたことから、この名がついたと伝えられます。
この呑吐樋は、蒼社川の改修で知られる今治藩士・河上安固(かわかみやすかた)によって設計・建設されたもので、江戸時代中期に完成しました。
当時この地点は今治市街のはずれにあり、玉川・菊間・松山・周桑方面へ通じる街道の起点でした。
鉄道開通以前は乗合馬車の発着地としてにぎわい、水運と陸路の要衝でもあったのです。
海と町をつなぐ“金星川と川岸端”
今治の町は、この水の仕組みを基盤として発展しました。
海からの物資は金星川(かつての外堀)をたどり、川岸の荷揚げ場へと運ばれました。
その場所は「川岸端(かしばた)」と呼ばれ、豪商の屋敷や問屋が並ぶ商業の中心として繁栄しました。
現在、今治銀座の名で知られる商店街は、この川岸の発展の延長にあります。
つまり、今治城の堀や呑吐樋の水利構造は、防御や景観にとどまらず、港湾機能・物流・商業の基盤として城下の経済を支える役割を果たしていたのです。
藤堂高虎による新たな都市計画
今治の町割は、慶長八年(1603年)に最初に行われたもので、前年に着工された今治城と港を一体化させた総合的な都市計画でした。
藤堂高虎は、海上交通と陸上交通が交わる要地・今治の地形を巧みに読み取り、城と港、そして町を有機的に結びつける町割を構想しました。
この町割の実施にあたっては、当時の今治村の農地の大部分が収用されましたが、農民には代わりにほし草「秣(まぐさ)」や塩の製造販売権が与えられ、町内に居住する権利が保証されました。
こうした施策は、単に城下の整備にとどまらず、地域経済の再編と新しい都市社会の創出を目的としていました。
城と港を結ぶ港町
町としてはやや小ぶりながらも、排水・洪水対策・防火・非常時の井戸といった都市インフラが計画的に整備された点が特徴です。
町の中央には本町が置かれ、そこから海側に風早町・中浜町・片原町、内陸側に米屋町・室屋町を整然と並べるという六町構成が採られました。
各町は一丁目から四丁目まで区画され、各丁目の長さは約六〇間(約109メートル)、奥行三〇間(約54メートル)という短冊形。
道幅は本町が二間半(約4.5メートル)、他の通りは一間(約1.8メートル)と定められ、秩序だった町並みが形成されました。
さらに、寛永十二年(1635年)に松平定房(まつだいら さだふさ)」が初代今治藩主として入部すると、、辰ノ口下の埋立地に新町が造成され、本町北側に北新町が加わり、町は八町へと拡張。
職業別の町名も生まれ、風早町三丁目は塩屋町、米屋町四丁目は鍛冶屋町、中浜町北方は漁師町(現:美保町)と呼ばれるようになります。
このように、今治の城下町は単なる居住地ではなく、城・港・町が一体となった近世的都市計画の先駆けであり、後の港湾都市・今治の原型を築いたのです。
町の基盤を支えた六町
本町(ほんまち)
城郭と町方を隔てる外堀の正面(辰ノ口)に通じる、城下随一のメインストリートで、実手橋から辰ノ口橋を渡って城下へと入るこの道は、かつて城と町を結ぶ唯一の出入口でした。
道幅は二間半(約4.5メートル)と広く、商家や町家が軒を連ね、紺屋・大工・油屋・茶屋・塗師・炭屋など多様な職人が集まりました。
享保九年(1724年)の高潮や享保十七年(1732年)の飢饉では、町年寄が救済に尽力した記録が残されています。
風早町(かざはやまち)
本町の東側に位置し、一丁目から四丁目までが整然と区画されていました。
町の出入口や三丁目の角には番所が置かれ、二丁目と三丁目の間には共同の井戸が設けられていました。
三丁目は「塩屋町」とも呼ばれ、塩の取引や加工を行う商人が多く住んでいたと伝えられています。
この地名は、高虎の旧領であった伊予国風早郡(現在の松山市北条地域)から移り住んだ商人や職人が多かったことに由来します。
元禄十二年(1699年)には戸数百四軒、人口約五百人と記録され、江戸中期には商業地として活気を見せました。
中浜町(なかはまちょう)
片原町と風早町の間の海寄り。
四丁目まであり、元禄期には新屋・大工などの職人町の性格が強く、四丁目の大半を松験院(松平定房の菩提寺、のち廃寺)の寺地が占めました。
明治以降は今治織物業の中核へと変貌し、伊予綿布組合の事務所設置、白木綿工場の操業、第五十二国立銀行支店の移転など、繊維・金融の拠点に。
一時は魚市場も設けられるなど港湾商業との結節も見られました。
片原町(かたはらちょう)
中浜町の東側、外堀沿いに位置し、当初は海辺に面した一帯でした。
町名の「片原」は、海岸の片側=城下の“端”にあたる地形を指します。
塩問屋・綿商人・船具職人などが多く、港と直結する交易の拠点で、藩の御用達を務める商家もあり、物資流通の中心として機能していました。
米屋町(こめやまち)
本町と室屋町の間に位置し、名の通り米商が多く集まっていました。
町は四丁目まであり、享保期までは三丁目までに大工や桶職などの職人が多く、四丁目は鍛冶職が集中したため「鍛冶屋町」とも呼ばれていました。
町の南端には小屋が建ち並び、文教地区のような静かな趣を見せていたといいます。
室屋町(むろやまち)
室屋町は、田畑を没収された農民に糀(こうじ)製造・販売権を与え、居住を許したことに由来します。
開町当初の西端に位置し、幅四間から一間へと徐々に狭まる「藪床(やぶどこ)」が設けられ、蒼社川方面からの洪水を防ぐ緩衝帯の役割を果たしていました。
寛永十三年(1636年)には九十五軒、元禄十二年(1699年)には花屋十五軒を含む記録が残ります。
享保五年(1720年)の火災では八十軒を焼失し、飢饉の際には町民救済が行われたと伝えられます
寺町(てらまち)
町の北側には、城の防衛と信仰の中心を兼ねて。今治の中でも特に由緒ある14の寺院が集められ、計画的に配置されました。
これが、のちに今治の学問と文化の拠点として発展する「寺町(てらまち)」の始まりです。
戦国の世が終わりを迎えて間もない慶長年間、今治城の北側は海からの侵入を想定した防衛上の要地でした。
寺院は厚い土塀と瓦葺の屋根、石垣を備えた堅牢な構造を持ち、戦時には砦としても利用できる施設でした。
そのため、高虎はこの地域に寺院群を集中させ、城の北方を守る緩衝地帯として寺町を整備したと考えられます。
これは大坂城の「天王寺町」や金沢城の「小立野寺町」など、他の城下町にも共通する都市防衛の形式であり、今治でも同様に、寺町が城を包み込むように配置されました。
現在もその面影を伝えるのは、次の十一の寺院です。
- 稱名寺(しょうみょうじ・称名寺)
- 法華寺(ほっけじ・寺町 法華寺)
- 幡勝寺(ばんしょうじ)
- 大雄寺(だいおうじ)
- 隆慶寺(りゅうけいじ)
- 圓光寺(えんこうじ・円光寺)
- 圓浄寺(えんじょうじ・円浄寺)
- 大仙寺(だいせんじ)
- 西蓮寺(さいれんじ)
- 正法寺(しょうぼうじ)
- 常高寺(じょうこうじ)
寺町は防衛や統制のための空間であると同時に、人々の信仰と生活が交差する場でもありました。
江戸時代に檀家制度が整うと、町人・武士・農民のすべてがいずれかの寺院に属し、葬儀・年忌・法会を通じて寺と深い関わりを持ちました。
門前には茶屋や和菓子屋、写経屋、竹細工職人などが集まり、参詣や墓参の人々でにぎわいました。
こうした門前のにぎわいは、信仰と商いが共存する「下町的な文化」を育み、今治の庶民文化の礎を築いていきます。
「明治以降の今治」城下から近代都市への歩み
明治維新によって廃藩置県が実施されると、今治の町も大きな転換期を迎えました。
藩政時代に築かれた城下の町割はそのままに、新しい行政・経済・文化の拠点として再出発することになります。
城郭の解体と町の再編
明治二年から五年(1869〜1872年)にかけて、今治城の櫓や城門、橋梁、侍屋敷などは次々と取り壊され、跡地は新しい町地として再利用されました。
藩政時代の象徴であった城郭は姿を消し、町の景観は一変します。
町の北側の「寺町」はそのまま信仰と文化の中心として残されましたが、堀の外側や川沿いの土地は急速に市街地化が進み、農地や武家地の多くが転用されて新たな街区へと変わっていきます。
そこには商店や工場、官公施設が次々と建ち並び、城下町は近代都市として再出発を果たしました。
三重にめぐらされていた堀のうち、外堀は明治期に埋め立てられ、続いて中堀も昭和初期までに姿を消しました。
現在では内堀のみが残り、かつての“海城”今治城の面影を静かに伝えています。
こうした城郭解体とともに「六町(本町・風早町・中浜町・片原町・米屋町・室屋町)」は、町名と町割を保ちながら存続しました。
その周囲には、新しい町名や町筋が次々と誕生し、外堀や侍屋敷跡を中心に新たな街区が整備されていきます。
これらの変化が、現在に続く今治の町の礎となったのです。
「本町」中心商店街としての継承
本町は、江戸期から続く町の中枢としてそのまま商業の中心に位置づけられました。
明治六年(一八七三年)には二丁目に警察署(羅卒・屯所)が置かれ、明治二十二年(一八八九年)の町制施行後は旧弘敞小学校跡に町役場が設けられます。
以後も商店・旅館・呉服店などが立ち並び、戦後は商店街として再整備され、近代今治の中核を担いました。
「風早町」銀行と商業の発展
風早町は明治期に金融と商業の拠点として発展しました。
明治二十五年(1892年年)に「今治融通株式会社」、翌二十九年には「今治商業銀行」が設立され、のちに合併して県下有数の銀行へと成長します。
郵便取扱所も明治五年(一八七二年)に設置され、通信・金融の中心地となりました。
また、旧寺院跡には綿ネル工場などの軽工業が立地し、商業地としての性格を強めていきます。
「中浜町・片原町」 ― 港の発展と物流の拠点
海に面した中浜町・片原町一帯は、築港の進展とともに「港町」として再整備されました。
江戸期に形成されていた浜沿いの問屋街は、明治期以降に卸売業者が集中し、愛媛屈指の商業地として繁栄します。
築港完成後には正式に「港町」「神明町」と改称され、港湾・輸送・商業を担う地区へと変貌しました。
特に金星川沿いは、問屋や倉庫、船具店が立ち並ぶ活気あるエリアとなりました。
「米屋町」代化と都市機能の集積
明治二十三年(一八九〇年)、金星町から警察署が二丁目に移転し、電燈会社や煙草工場、金光教会などが相次いで設立されました。
行政・宗教・産業の機能が集まり、文化と医療の中心として発展します。
明治期以降は花柳界の中心地としても栄え、料亭や待合が並び、のちには警察署・商業施設・医院が並ぶ、都市的サービス産業の拠点となります。
「室屋町」工芸と庶民文化の町へ
室屋町では、明治三十八年(一九〇五年)に改築された「今治座」が町の劇場・娯楽施設として親しまれ、市民文化の中心を担いました。
この劇場は後に映画館として存続し、昭和期まで多くの人々に愛されました。
町の西側では寺町へ通じる里道が拡幅され、道路整備や宅地化が進展し、伝統的な町並みの中に近代の暮らしが融合していきました。
「金星町・川岸端」水辺から商店街へ
明治以降、外堀を埋め立てて誕生した新町・金星町は、庶民が集う飲食と商業の町としてにぎわいました。
金星川には石橋が架けられ、周囲にはおでん屋・居酒屋・カフェが並び、昭和初期には今治の中心街として発展。
川岸端もまた、荷揚げ場から商店街へと姿を変え、昭和三十年代には「今治銀座」と改称されました。
水の流れとともに生まれた町は、時代の流れとともにその姿を変え、今も市街地の記憶として残っています。
「寺町と山里」信仰と文化の拠点
明治維新後、城郭や武家地の多くが転用される中でも、寺町は信仰と文化の中心として存続しました。
しかし、近代化とともに周囲の区画整理や道路拡張が進み、寺域は徐々に縮小していきます。
昭和二十年(1945年)の今治空襲では、市街地の大半が焼け野原となり、寺町でも多くの堂宇が焼失しました。
かつて整然と並んでいた伽藍の姿は失われ、往時の景観は大きく変貌します。
それでも戦後の復興のなかで、各寺は次々と再建され、再び地域の人々の祈りの場として息を吹き返しました。
現在も「寺町」の名は町名として残り、古地図の面影をたどることができます。
静かな参道や境内には、江戸期以来の祈りの場としての記憶が息づき、今治城下の精神的原風景を今に伝えています。
「山里通り」藩主の別邸跡と文化の香り
吹揚神社の裏手に通じる「山里通り」は、藩主・藤堂定房の別邸「山里」が置かれた場所として知られます。
明治以降は阿部会社の敷地として利用され、戦後まで長い塀と寄宿舎が残っていました。
静寂に包まれたこの一帯は、近代以降も「山里様」と呼ばれ、今治の中でもとくに落ち着いた文化地区として親しまれてきました。
近代都市としての今治へ
明治の町割再編と港湾整備を経て、今治は「海とともに生きる町」から「海と産業の町」へと変貌を遂げました。
旧城下の地名や通りは、近代以降もそのまま受け継がれ、現在の今治中心街の骨格を形づくっています。
城を囲んだ堀や町の構造は、いまも都市の記憶として息づき、その地形と水路の名残が、今治のまちづくりの原点を静かに語り継いでいます。