今治城“廃城の日”
今治城は、今治市の中心部にそびえる五層の天守を備えた美しい水城として知られ、潮の満ち引きのある堀が海と一体となったその姿は、訪れる人を魅了します。
しかし、この壮麗な城は江戸時代から残るものではありません。
近年になって鉄筋コンクリートで再建された復元天守であり、かつての姿を忠実に再現したものです。
では、なぜ今治城は現代にその姿を取り戻したのでしょうか。
そして、この地に海とともに築かれた城は、どのような運命をたどってきたのでしょうか。
戦国から江戸、そして明治、大正、昭和へ。
今治城の歴史をたどると、そこには国のかたちが変わりゆく中で、幾度も栄え、そして消えていった「城と町の記憶」が浮かび上がります。
久松松平家の入封と今治藩の新たな歩み
今治城の築城後、藤堂高虎はこの地を本拠とし、領国経営にあたりました。
高虎は築城だけでなく、港の整備や町割りにも力を注ぎ、今治を瀬戸内海交通の要として発展させました。
海上輸送の中継地である今治の地は、高虎の政策によって商業や物流の中心としての地位を確立していきました。
しかし、慶長19年(1614年)、高虎は伊勢国津へ加増移封となり、伊勢・伊賀二国を領する大名として幕府の中枢に仕えることになりました。
その後、高虎の養子であり後継者となった藤堂高吉(とうどう たかよし)が今治城主として藩政を引き継ぎました。
高吉は若くして領地の経営を担い、父の方針を受け継いで城下の安定に努めましたが、在任中には家臣同士の対立から発生した拝志騒動(はいしそうどう)と呼ばれる事件が起こります。
「拝志騒動」加藤家との緊張と幕府の裁定
拝志騒動は、藤堂家の家臣同士の私怨から発した事件が、隣接する加藤家(松山藩)との領地紛争に発展した出来事です。
発端は、藤堂家臣・星合忠兵衛(ほしあい ちゅうべえ)が同僚に殺害されたことでした。
犯人は加藤家の支配地・拝志郷(はいしごう)へ逃亡し、藤堂家は家臣を派遣して捕縛を試みます。
ところが、その追討の過程で使者が殺害されるなど、両家の間に緊張が走り、今治と拝志の境界地である絹乾山(現在の衣干八幡大神社付近)では、両軍が睨み合う事態にまで発展しました。
このまま戦が始まれば、幕府の統治秩序を揺るがす大事件となるところでしたが、家老の進言によって高吉は出兵を中止。
両家は幕府の裁定を仰ぐこととなります。
幕府の調査の結果、主な責任は加藤家側にあると判断され、加藤家の家臣には切腹や蟄居などの処分が下されました。
一方で、高吉が幕府の許可を待たずに軍を動かしたことも問題視され、三年間の「蟄居(ちっきょ)=自宅での謹慎処分」を命じられました。
この事件は藤堂家の名誉を大きく傷つける結果となり、今治統治の終焉へとつながっていくことになります。
こうして、藤堂家による今治の支配はわずか三十年余りで幕を閉じました。
久松松平家の入封と今治藩の新時代
藤堂家の転封にともない、幕府の命を受けて松平(久松)定房(まつだいら さだふさ)が、伊勢国長島から今治へ入封しました。
定房は徳川家康の同母弟・松平康元の孫にあたる人物で、父・松平(久松)定勝の五男として生まれました。
兄の定行は松山藩主を務めており、このとき松山と今治の両地域が兄弟によって治められる体制が整えられました。
寛永12年(1635年)、定房は伊勢長島藩の七千石から三万石に加増され、今治藩の初代藩主となります。
これにより、今治は久松松平家による新たな藩政の時代を迎えました。
定房は藩政の基礎を整え、塩田の開発や綿花の栽培を奨励するなど、産業の振興に力を注ぎました。
とくに塩の生産と流通は藩の財政を支える柱となり、また綿花産業はのちの「今治織物」や「今治タオル」の源流ともなります。
こうして今治藩は、瀬戸内海の穏やかな気候と海運の恵みを活かし、豊かで安定した藩政を築き上げていきました。
幕末から明治へ…藩の終焉と廃城
以後、久松松平家は幕末に至るまでおよそ二百三十年間にわたり今治を治め、瀬戸内海の海上交通の要衝としての地位を固めていきました。
今治城を中心に整えられた城下町は、港湾都市として発展し、藩政期を通じて今治の繁栄を支えました。
しかし、時代は急速に転換を迎えます。 幕末の動乱が全国に広がる中、今治藩もまた新政府の成立という大きな変革に直面しました。
明治元年(1868年)、新政府の体制が整うと、翌明治2年(1869年)、藩主・松平(久松)定法(まつだいら さだのり)は版籍奉還に応じ、藩の統治権を政府に返上します。
このとき、久松家は幕府親藩としての「松平」姓を改め、旧来の「菅原姓久松氏」に戻しました。
定法はその後も今治藩知事として新政府のもとで行政を担いましたが、中央集権化が進む中で藩の権限は急速に縮小していきます。
やがて明治4年(1871年)7月14日、政府は「廃藩置県」を断行しました。
これにより、全国の藩主はその領地と政治的権限を完全に失い、同年9月の太政官布告(第424号)によって、旧藩主および知藩事は東京への移住を命じられます。
これは、地方における旧大名家の影響力を抑え、中央集権体制を確立するための政策でした。
この布告に従い、今治藩主家であった久松家も東京へ移住します。
藩主・久松定法は家族とともに上京し、東京府麹町区(現在の千代田区一帯)に邸宅を構えました。
これは、当時の「旧知藩事東京集住令」にもとづくもので、政府によって華族(貴族階級)の身分と給禄(給金)が与えられました。
久松家の上京は、今治を治めた譜代大名の時代の終焉であると同時に、華族として近代国家の一翼を担う新たな歩みの始まりでもありました。
「今治藩主の墓」唐子山に眠る久松松平家の足跡
今治には、藩政時代を築いた三人の藩主が静かに眠る「今治藩主の墓」が残されています。
この墓所は今治市桜井地区の唐子山(古国分山)の中腹にあり、初代今治藩主・松平定房(さだふさ)、第3代藩主・松平定陳(さだのぶ)、第4代藩主・松平定基(さだもと)の三基の墓が並んでいます。
江戸時代前期の大名墓所として格式高く整えられたこの地は、今も静寂に包まれ、愛媛県指定史跡として大切に守られています。

今治城の廃城と消滅
藩の廃止にともない、藩庁としての役割を果たしていた今治城もまた、その歴史を閉じることになりました。
明治初期に出された「廃城令」によって、城郭は時代にそぐわぬ存在と見なされ、多くの城が取り壊されていきます。
しかし今治城の場合は、廃藩置県(明治4年・1871年)や「廃城令(明治6年・1873年)」が出されるよりも早く、すでに明治2年(1869年)10月の時点で、時代に合わない不要なもの「当今時勢不用之品(とうこんじせいふようのしな)」とされ、順次その解体が始まっていました。
版籍奉還ののち、今治藩では家禄が従来の十分の一に減ぜられ、家臣の俸禄も大幅に削減されました。
士族の多くが生活に困窮するなか、藩は救済策として今治城の建物を解体し、城門や櫓を競売にかけて資金を得るという措置をとりました。
その売却収入は、旧藩士たちの生活支援に充てられたと伝えられています。
さらに、1871年(明治4年)には、数少ない現存建造物であった「武具櫓(ぶぐやぐら)」が火災によって焼失しました。
これにより、かつての城郭建築の多くが姿を消し、往時の面影を残す構造物はほとんど失われてしまいます。
残されたのは内堀と本丸を囲む石垣のみで、城跡の土地は旧藩主から旧家臣団に分与され、多くが更地となり、次第に市街地の一部へと姿を変えていきました。
こうして今治城は、二百数十年にわたる歴史の幕を静かに下ろしたのです。
「払い下げられた城の資材」町に生きる城のかたち
今治城の解体によって得られた資材は、一部が地元の公共施設や寺院の建築に再利用されました。
かつて城を支えた柱や門、梁は、やがて町のあちこちで第二の人生を歩むことになります。
この「払い下げ」と再利用の文化には、廃城によって失われた象徴を町の中で生かし続けようとした人々の願いが込められています。
その中でも、今治城の記憶を最も色濃く伝えるのが、市内の寺院に残る山門の数々です。
「観音寺」受け継がれた薬医門
観音寺(かんのんじ)には、かつて今治城にあった武家屋敷の正門「薬医門(やくいもん)」が移築されています。
明治初期、今治城が「当今時勢不用之品」とされて取り壊された際、この門が観音寺に移築されました。
門の正面には、今治藩の藩医として名高い菅周庵(かん しゅうあん)が自ら揮毫した題字が掲げられています。
この書は、当時の文化的水準の高さを示すとともに、今治藩と観音寺の深い結びつきを今に伝えています。
薬医門とは、柱の前に控柱を設けた武家屋敷特有の構造で、格式の高さを象徴する建築様式です。
観音寺の山門として静かに佇むその姿は、往時の威厳と落ち着きをたたえています。
また、この門は今治空襲の際にも奇跡的に戦火を免れ、今日までその姿を保っています。
長い年月を経た今もなお、城下の面影を伝える貴重な歴史遺産として、訪れる人々を静かに迎え続けています。

「延命寺」参拝者を受け入れる城門
四国八十八ヶ所霊場第55番札所・延命寺(えんめいじ)の山門は、かつて今治城にあった城門を移築したものです。
この門は天明年間(1781〜1789年)に建造され、廃城後に寺へと譲り渡されました。
主な構造材には堅牢な欅(けやき)が用いられており、柱から梁に至るまでをすべて欅で仕上げた「総欅造り」の門です。
その重厚で風格のある造りは、藩政期の優れた建築技術を今に伝える貴重な遺構であり、今治城ゆかりの建造物としても重要な存在です。
長い歳月の中で幾度も修復を重ねながらも、当時の姿をよく保ち続けてきました。
令和2年(2020年)には屋根瓦の葺き替えが行われ、伝統的な意匠を損なうことなく、現在も堂々たる姿で参拝者を迎えています。

「泰山寺」受け継がれた今治城の材木
四国八十八ヶ所霊場第56番札所・泰山寺(たいさんじ)では、明治14年(1881年)に、今治城内にあった太鼓楼の古材を用いて鐘楼が再建されました。
かつて藩政を象徴した城の構造材が、今度は信仰の場で人々の祈りを支える存在となったのです。
泰山寺の鐘楼は、今治城の記憶を静かに今へと伝える貴重な歴史遺産として、今日もその姿をとどめています。

「乗禅寺」移された今治城の通用門
乗禅寺(じょうぜんじ)は、今治市内にある古刹で、かつて藩政期には城下町の人々の信仰を集めた寺として知られていました。
宝暦5年(1755年)に大火に見舞われ、本堂をはじめとする多くの建物が焼失しましたが、嘉永年間(1848~1854年)に隆賢和尚(りゅうけんおしょう)が中心となって復興が進められ、明治28年(1895年)には本堂が改修されました。
この復興の過程で、廃城となった今治城の門の一つが山門として移築されました。
この門は慶長年間(1596~1614年)に築かれた武家専用の通用門「辰之口壱ノ門」で、かつては城の辰巳(南東)の方角に構えられ、城下の防御と威厳を象徴していました。
今治城が廃城となると、片山郷の玉井村治氏に引き取られていましたが、のちに乗禅寺で山門(中門)建立の発願があり、延喜村の篤信家(信仰心が厚く寺を支えた人)である池内忠雄氏が、深い信仰心から私財をもってこの門の寄進に尽力し、譲り受けられることになりました。
この由緒ある門は「慈照門」と名付けられ、今では乗禅寺の山門として静かに佇み、訪れる人々をあたたかく迎えています。

「吹揚神社」城跡に宿る祈り
今治城が解体され、本丸跡が更地となると、町の人々の間には「城の記憶を何らかの形で残したい」という思いが広がっていきました。
武家の時代が終わり、新しい社会の形が模索される中で、人々は新たな時代の拠り所を求めていたのです。
やがて、今治城の跡地に新しい神社を建立する計画が進められました。
その名は「吹揚神社(ふきあげじんじゃ)」と定められました。
この名は、かつて今治城が「吹揚城(ふきあげじょう)」とも呼ばれていたことに由来します。
「吹揚」は城の南東に広がっていた砂丘地「吹揚の浜」にちなみ、海から吹き上げる風に砂が舞う様子を表した地名です。
その名を受け継ぐことで、新たな神社は城の記憶と土地の由来を同時に宿す存在となりました。
吹揚神社の創建にあたっては、今治の町に点在していた由緒ある四つの神社「神明宮、蔵敷八幡宮、厳島神社、夷宮」が合祀されました。
いずれも古くから町人や武士、漁師や商人に信仰されてきた社であり、明治5年(1872年)11月19日、これらの御霊を一つに祀る新しい社として吹揚神社が誕生しました。
それは、城下に生きた人々の祈りを未来へつなぐ象徴的な出来事でもありました。

「松本天神社」久松松平家と今治に残る祖神
さらにこのとき、今治藩主・久松(松平)家の別邸「松之本花園」に鎮座していた松本天神社(まつもとてんじんじゃ)も、吹揚神社の境内に移されました。
松本天神社は、久松家の遠祖である菅原道真を祀る神社であり、藩主家の祈祷所であった光林寺(こうりんじ)が別当を務めていました。
明治維新後、久松家が東京へ移ると本殿は使われなくなりましたが、家の祖神を今治にとどめるため、吹揚神社に遷座されたのです。
これにより、菅原道真公とともに初代藩主・松平(久松)定房の霊も合祀され、久松家の信仰と今治の歴史がこの地に再び結び付けられました。
吹揚神社は、明治15年(1882年)に県社へと昇格し、今治を代表する神社の一つとして広く崇敬を集めました。
その後も蔵敷美保社の合祀や、松ノ本天満宮の本殿合祀を経て、藩政期から続く信仰の系譜がこの地に受け継がれていきました。
こうして、吹揚神社は失われた今治城の記憶を継ぐとともに、城下の人々の暮らしと祈りを未来へつなぐ、新しい時代の象徴として歩み始めたのです。
「天満神社・小泉」運ばれた松本天神社の社殿
大正15年(1926年)、別宮村(現・今治市別宮町)では、古くから地域の守護神として信仰を集めてきた天満神社・小泉が、創建一千二十五年という節目の年を迎えようとしていました。
しかしそのころ、社殿は老朽化とシロアリの被害により建て替えが必要となり、村人たちは新たな本殿の建立を検討します。
そこで白羽の矢が立ったのが、今治城内に残されていた松本天神社の本殿でした。
松本天神社はすでに吹揚神社へ合祀されており、本殿はその役割を終えていたものの、今治城ゆかりの由緒と美しい社殿の造りが人々の心を惹きつけたのです。
村人たちは、この由緒ある本殿を新たな社殿として迎えることを決意します。
移設作業は、町の往来を妨げぬよう、そして何より神聖なものを静かに移すために、夜の闇に包まれた中で行われました。
牛車を引く者、灯りを掲げる者、道を整える者。
村人それぞれが役割を担い、慎重に一歩ずつ本殿を運び出していきます。
そしてついに、別宮の地へと運ばれた本殿は御神体を迎え、新たな天神さまの鎮座地として静かにその歴史を刻み始めました。
この本殿は、現在も天満神社・小泉の社殿として大切に守られ、今治城ゆかりの建造物として当時の面影を今に伝えています。

今治城再建への歩み
このように、今治城の記憶が町の中で静かに生き続ける一方で、「いつかまた」という思いは失われることはありませんでした。
時代が移り変わり、町の姿が変わっても、人々の心の中にはかつて海に浮かぶようにそびえていた今治城の姿があり続けました。
石垣や堀に残るわずかな名残は、失われた時代を語ると同時に、もう一度その姿を取り戻したいという静かな願いを呼び覚ましていったのです。
やがてその思いは、市民の手によって形となり、保存と復元の取り組みへとつながっていきます。
長い年月を経て、今治の誇りと記憶を宿した城は、再びこの地に蘇ることとなるのです。
