「今治城の再建」市民の願いとともに
今治城が失われてから、長い年月が経ちました。
かつて海に浮かぶようにそびえていた壮麗な天守は姿を消し、本丸跡には町が広がり、日々の暮らしの中でその面影を語る人も次第に少なくなっていきました。
しかし、今治の人々の心の奥には、城が築かれた海辺の風景と、そこに生きた祖先たちの息遣いが静かに残り続けていました。
今治城は、単なる石垣や建物ではなく、この町の誕生とともに歩んできた「原点」そのものであったのです。
今治に届いた戦争の足音
しかし、世界は次第に不穏な影に包まれていきました。
明治から大正、そして昭和へ。
近代国家としての歩みを進めた日本も、やがて世界の動乱の波に巻き込まれていきます。
大正のはじめ、第一次世界大戦が勃発し、日本も連合国側として参戦しました。
戦後には一時的な好景気に沸き、近代化とともに都市が発展していきましたが、その繁栄の陰では、国際情勢の不安定さと経済の揺らぎが次第に広がっていきました。
やがて時代は昭和へと移り、世界は再び大きな戦争の渦へと突き進んでいきます。
日本もまたその流れの中で、次第に軍備を拡張し、国を挙げて戦時体制へと歩みを進めていきます。
昭和十二年(1937年)に日中戦争が始まり、続いて昭和十六年(1941年)には太平洋戦争が勃発しました。
当初は勢いを見せた日本でしたが、戦局は次第に悪化していきます。
太平洋戦争の末期には、アメリカ軍による日本本土への空襲が激しさを増し、東京や大阪をはじめ、全国の主要都市が次々と焼け野原となりました。
地方都市や港湾、軍需工場を抱える町も標的となり、各地で多くの尊い命と歴史的建造物が失われていきました。
そして、ついにその戦火は今治にも及ぶことになります。
「今治空襲」焼け落ちた町と信仰の喪失
昭和二十年(1945年)、太平洋戦争の末期、今治の町は三度にわたる空襲に見舞われます。
なかでも8月5日から6日にかけての夜間空襲は最も激しく、アメリカ軍のB29爆撃機によって二百六十発を超える爆弾が投下され、市街地の大半が炎に包まれました。
この空襲により、全市戸数の約75%が焼失し、町は一夜にして壊滅的な被害を受けました。
人々の暮らしはもちろん、長い年月をかけて育まれてきた歴史的・文化的な資産の多くも失われました。
かつて今治城の本丸跡に鎮座していた吹揚神社も、その戦火によって社殿をすべて焼失し、町の象徴と信仰の拠り所が灰となってしまったのです。
焼け落ちた社の跡に立ち尽くした人々の胸には、深い喪失とともに、「いつの日か、もう一度」という静かな願いが芽生えていました。
やがてその願いは、戦後復興の動きと重なりながら、今治の希望として広がっていきます。
吹揚神社の再建、そして今治城への想い
そして昭和二十八年(1953年)、今治城跡が愛媛県の史跡に指定されると、市民の間では再び「今治城をこの地に」という声が高まりはじめました。
戦後十三年を経た昭和三十三年(1958年)、ついにその願いの一端が現実となります。
吹揚神社の社殿が再建され、人々は長く失われていた祈りの場と、かつての今治の象徴を取り戻しました。
吹揚神社の復興と歩調を合わせるように、今治の人々はもうひとつの心の拠り所であり、かつてこの地を守り、築いてきたご先祖の姿を重ねるように、「今治城」の再建へと想いを寄せはじめました。
「今治城復元期成同盟」動き出す市民の夢
昭和三十六年(1962年)には、有志によって「今治城復元期成同盟」が結成され、復元への運動が具体的に動き出しました。
署名活動や寄付の呼びかけが行われましたが、当時の日本は高度経済成長の初期段階にあり、都市整備やインフラ整備が優先される時代。
資金や資料、技術的裏付けの不足もあって、運動は一時停滞を余儀なくされました。
それでも、市民の「いつか城をもう一度この地に」という思いは消えることなく、町の記憶とともに静かに息づき続けていきました。
「市制六十周年記念事業」今治城天守の再建
昭和五十四年(1979年)八月、今治市が市制施行六十周年という節目を迎えるにあたり、長く温められてきた市民の夢がついに動き出します。
今治市は記念事業として「今治城天守閣の再建」を正式に決定し、復元計画は現実のものとなりました。
再建事業には、約五億四千万円という巨額の費用が必要でしたが、その多くを市民の浄財によって賄うこととなり、市内外から寄付が寄せられました。
当時の不況下にあっても、多くの人々が郷土の誇りを胸に協力を惜しまなかったといいます。
再建工事は昭和五十四年に着工し、翌昭和五十五年(1980年)九月に完成。
同年十10月10日には、待ちに待った今治城竣工落成式が盛大に挙行されました。
新しい天守は五層六階の層塔型天守で、築城の名手・藤堂高虎の設計思想を参考に、白壁と黒瓦が織りなす端正な姿を再現。
天守内部には展示施設が設けられ、今治の歴史・文化・産業を学ぶことのできる場として整備されました。
吹揚神社放火事件と再建
こうして今治城は、長い歳月を経て再び町の中心にその姿を現し、人々の誇りと希望を象徴する存在となりました。
かつて海に浮かぶ城として栄え、戦火で姿を消した天守が蘇ったことは、今治の復興の象徴として多くの人々の胸に深い感動を与えました。
一方、同じ頃にそんな人々の心を踏みにじる、決して許されない出来事が起こっていました。
昭和五十五年(1980年)九月、今治城天守の再建を目前に控えた時、吹揚神社は何者かによる放火によって、本殿や拝殿を含む主要な社殿を全焼するという、あまりにも痛ましい被害を受けたのです。
事件の直後から 復興の声が各地で上がり、地域の氏子や今治を離れた人々の支援の輪が広がっていきました。
やがて「吹揚神社奉賛会」が結成され、再建のための寄付が全国から寄せられます。
そして昭和五十八年(1983年)三月、新しい本殿が完成し、吹揚神社は再び地域の信仰と心の絆を支える場として蘇りました。
「現在の今治城」海とともに生きる町の象徴
再建された今治城は、いまや今治市の象徴として、そして郷土の精神を映す鏡として、多くの人々に親しまれています。
戦火の焼け跡から立ち上がった町の姿とともに、今治城は“再生の象徴”として、この地に新たな命を吹き込んできました。
天守の最上階に立てば、眼下には穏やかな今治港、そしてその先に広がる来島海峡を一望することができます。
潮流が速く、古来より「瀬戸内の難所」と呼ばれたこの海峡は、それと同時に古代から近世に至るまで、伊予の歴史を形づくってきた重要な舞台でもありました。
この海を望む地には、はるか古代、伊予の豪族越智氏が勢力を築き、のちにその流れをくむ河野氏が瀬戸内の制海権を握りました。
中世には、来島を拠点とする村上水軍がこの海を行き交い、潮流を読み、船を操り、瀬戸内を護る海の守り手として名を馳せました。
やがて戦国の世を経て、藤堂高虎がこの地に赴きくと、この来島海峡を見渡す地形に着目し、慶長七年(1602年)に海に浮かぶような城、今治城を築き上げたのです。
まさに来島海峡を見据え、海を掌握するための城と城下町、それが今治の原点だったのです。
今治藩主の歩みと受け継がれた産業
江戸時代に入ると、今治は久松松平家の治政のもとで発展しました。
藩主たちは港と城下の整備、塩田や綿作などの産業振興、蒼社川の改修に代表される治水に力を注ぎ、海の城下町としての基盤を着実に固めます。
瀬戸内航路の要衝として商業・海運は活況を呈し、その技術と往来は文化にも厚みをもたらしました。
明治元年(1868年)に新しい政府ができると、今治藩もその流れの中で役目を終えていきます。
明治2年(1869年)には、藩主が土地と民を国に返す「版籍奉還(はんせきほうかん)」が行われ、明治4年(1871年)には廃藩置県によって、今治藩は「今治県」となりました。
そしてその後、県の統合が進み、明治6年(1873年)には今治県は松山県などと合併されて、現在の愛媛県が誕生します。
藩政の時代に築かれた港や産業の基盤は、明治以降も受け継がれていきました。
とくに、藩主が奨励した綿の栽培と織物づくりは、のちに全国に知られる今治タオルの伝統へと発展します。
やわらかな風合いと高い品質で知られる今治タオルは、百年以上にわたってこの地の技と誇りを伝える産業となりました。
また、港町としての立地を生かし、造船業も発達しました。
瀬戸内海を行き交う船を支えたその技術は、戦後の復興期を経て大きく発展し、現在では日本有数の海事都市・今治を支える大きな柱となったのです。
「しまなみ海道」来島海峡を見守る今治城
やがて時代は移り変わり、来島海峡の上には、現代の技術によって築かれた壮大な橋が架けられました。
それが、世界初の三連吊橋として知られる来島海峡大橋です。
この橋は、広島県尾道市から今治市までを結ぶ瀬戸内しまなみ海道の一部として、1999年(平成11年)に全線開通しました。
全長約59.4キロにおよぶ海道は、十本の橋が島々を結び、古くから海上交通の要衝として栄えたこの地域に、新しい“海の道”を生み出しました。
今治城の天守から見渡せば、眼下には今治港の穏やかな海が広がり、その向こうに、雄大な来島海峡大橋が弧を描いてそびえ立ちます。
潮の香りを運ぶ風、陽光にきらめく波、そして空を渡る橋と天守が呼応するかのように、この町の歴史と未来が交差しています。
平成十一年(1999年)、しまなみ海道の開通を記念して、照明デザイナー・藤春構(ふじはる こう)氏によって今治城は夜間ライトアップが施されました。
日没後、白壁が柔らかな光に包まれ、水面に映える天守は、まるで夜の海に浮かぶ幻の城のように静かな輝きを放ちます。
風にそよぐ松の影、堀に映る光の波紋。
それは、かつて藤堂高虎が見上げた星空の下で、越智氏や河野氏、村上水軍、そしてこの地に生きた無数の人々が見つめた瀬戸内の風景です。
潮の満ち引きとともにその姿を変えながら、今治城は今日もまた、来島の海を見渡し、静かに、そして力強く、時代の今治を見守り続けています。