「天守閣はなかった」と考えられていた
実は、今治城は長いあいだ、今治城には天守閣が存在しなかったと考えられてきました。
今治城に天守閣がなかったとされる理由は、築城主である藤堂高虎(とうどう たかとら)の築城方針と、当時の政治的状況にありました。
実用性のある城に天守は不要だった
たとえば津城、伊賀上野城、丹波篠山城などはいずれも堅牢で整然とした縄張りをもつ一方で、天守閣を備えていないという共通点がありました。
とくに伊賀上野城は、建築途中で大風により天守が倒壊し、その後も再建されることはなく、以後の高虎の築城では「実用を重んじ、象徴を削ぐ」設計が特徴とされました。
このことから、今治城もまた天守閣を持たない合理的な城であったと長らく信じられてきたのです。
「武家諸法度と一国一城令」幕府の城郭政策
もう一つの要因は、江戸初期の幕府政策です。
慶長20年(1615年)に制定された「武家諸法度」は、大名による城の増築や天守の新築を厳しく制限しました。
さらに翌年には「一国一城令」が出され、各藩に一つの城しか持つことを許されなくなります。
高虎自身、この城郭統制の制度設計に深く関わっており、幕府の築城奉行として、諸大名の城を監修する立場にありました。
そのため、自らの領地で天守閣を建てることは、幕府の方針に逆らうことにもなりかねなかったのです。
海城という構造的合理性
また、今治城が築かれた場所「瀬戸内海に面した海辺の低地”という立地も、天守を必要としなかった理由の一つでした。
海水を堀に引き込み、潮の干満を利用して防御する「海城」の構造は、陸地からの攻撃に強く、敵の接近を自然の地形で防ぐことができました。
高虎にとって、海と一体化したこの堅牢な城は、見せかけの威容よりも実際的な防衛機能を優先した理想的な築城だったのです。
『宗国史』と『今治諸旧記録』史料が語る天守閣
一方で、今治城には天守閣が存在していたとする伝承も、古くから語り継がれています。
慶長十三年(1608年)、藤堂高虎は伊予国今治から伊賀・伊勢(二十二万石、現在の三重県)へと転封されました。
瀬戸内海の要衝から東海道の要に移るこの転封は、家康の厚い信頼を示すものでした。
このとき高虎は、新たな領地での築城に際して、今治城の主要な建物を解体し、資材として再利用する計画を立てたと伝えられています。
今治城の天守をはじめとする建造物の資材は、船に積まれて瀬戸内海を渡り、大坂へ運ばれました。
そして藤堂家の大坂屋敷に一時保管され、伊賀上野城や新たな領国の築城資材として活用される予定であったといいます。
ところが、慶長十五年(1610年)、徳川家康から突如として丹波亀山城(現・京都府亀岡市)を早急に築城せよと命じられました。
このとき、高虎は家康にこう申し出たと伝えられています。
「今治城の天守を献上し、亀山城の天守として建てたい」
家康はこの献上を大いに喜び、高虎に普請(築城工事)の指揮を命じました。
こうして、かつて瀬戸内の海辺にそびえていた今治城の天守は、丹波の地にその姿を移し、亀山城の天守として再び甦ったとされます。
この説は、藤堂家に伝わる家譜『宗国史(そうこくし)』、そして今治の郷土に伝わる記録『今治諸旧記録(いまばりしょきゅうきろく)』などの史料によって、その史実性が裏づけられています。
『宗国史』記された今治城天守とその行方
『宗国史(そうこくし)』は、藤堂高虎の異母弟・藤堂出雲高清の六代目にあたる藤堂出雲高文(とうどういずもたかふみ)によって編纂された、藤堂家の家譜・記録の集大成です。
享保五年(一七二〇)に生まれ、天明四年(一七八四)に没した高文は、先祖高虎をはじめとする歴代藩主の事績を詳細にまとめ、寛延四年(一七五一)に全三十二巻の大著として完成させました。
この『宗国史』は、単なる家譜を超えて、政治・軍事・経済・文化の諸記録を含む、藤堂家および藩政史を伝える第一級史料です。
その中の「今治城建設の条」には、次のような注目すべき一節が記されています。
「城中に五層の高楼を建て、府下に五街を開き工商居る、街の長さ各五町云々」
ここに登場する「五層の高楼」とは、まさに天守閣を意味し、虎が今治城に五層の天守を築き、同時に城下町を整備したことされているのです。
さらに『宗国史』の慶長十五年(1610年)の条には、もう一つ重要な記述が見られます。
「夏六月、丹波亀山城を修す。公督役、公今治城天守楼を献じ、之を亀山に建つ。秋七月六日、大将軍(家康)書を賜り犒賞す。」
この一文によれば、藤堂高虎は伊予国今治から伊勢・伊賀へ転封となった際、今治城の天守を解体し、その資材を丹波亀山城へ移築して、徳川家康に献上したとされています。
『高山公実録』今治城天守と亀山城普請の真相
この出来事をより詳しく伝えるのが、藤堂家の伝記『高山公実録(こうざんこうじつろく)』です。
この書によれば、高虎は転封先の伊賀上野城に天守を建てるため、今治城天守を解体し、大坂まで運搬していたといいます。
ところがその最中、徳川家康から丹波亀山城の天下普請を命じられたため、高虎は「今治の天守を献上したい」と申し出て、家康の許可を得て資材を転用。
結果として、今治の天守は亀山城の天守として再建されたと伝えられています。
『寛政重修諸家譜』今治城天守移築の記録
この伝承は、江戸幕府が寛政年間(1789–1801)に編纂した『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』にも以下のように記されています。
「慶長十五年、丹波口亀山城普請のことをうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」
これら三つの史料は、いずれも今治城に天守が存在し、その天守が丹波亀山城に移されたという点で一致しており、
今治城天守の存在を示す最も信頼性の高い史料的根拠となっています。
丹波亀山城とは?京都を守る要の城
では、なぜ徳川家康は丹波亀山城の築城を急がせたのでしょうか。
丹波亀山城(たんばかめやまじょう)は、現在の京都府亀岡市荒塚町に位置する平山城で、丹波国の中心に築かれた重要な拠点でした。
もともとは戦国時代の天正6年(1578)、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波平定の拠点として築いたのがはじまりです。
光秀は、亀岡盆地を見渡す丘陵上に壮大な城を構え、周囲には総構えの堀をめぐらせて丹波経営の中心としました。
天正10年(1582)の「本能寺の変」で光秀が討たれたのち、亀山城は豊臣政権のもとで豊臣秀勝や前田玄以らが入城し、政治と軍事の要所として機能していました。
その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いによって、徳川家康は天下をほぼ掌中に収めましたが、西国には豊臣家を中心とする諸大名の勢力が健在であり、家康にとっては依然として油断ならぬ情勢にありました。
家康は、表向きには豊臣家を存続させつつも、その背後では確実に包囲網を築き上げ、畿内を中心とした防衛体制の強化に乗り出していったのです。
その一環として、京都周辺の要地を次々と幕府の直轄領に組み込みます。
丹波亀山城もそのひとつであり、慶長七年(1602年)には旧北条氏の一族・北条氏勝を代官として派遣し、城の管理と周辺統治を任せました。
高虎が築いた亀山城と家康の戦略
その流れの中で、家康は藤堂高虎に丹波亀山城の普請(再築)を命じたのです。
この普請は、幕府が直轄で行う大規模な築城事業「天下普請(てんかぶしん)」として実施されたもので、
西国の諸大名に動員を命じて進められた国家的事業でありながら、幕府の威信を示す政治的行為でもありました。
そして、慶長十五年(1610年)。
藤堂高虎の指揮によって、丹波亀山城の新たな城郭が完成しました。
これは、天下の行方を決定づける最終決戦「大坂の陣」が始まる、わずか4〜5年前の出来事でした。
今治から丹波へ。
藤堂高虎が運んだ今治城の天守は、家康の天下統一を支える「静かなる先陣」として、新たな時代の幕開けを告げたのです。
「日本初の層塔型天守」今治から丹波亀山へ
丹波亀山城(たんばかめやまじょう)の天守は、日本初の「層塔型(そうとうがた)天守」として知られています。
この天守の形式は、戦国から江戸初期にかけて城郭建築が大きく転換した象徴でもありました。
関ヶ原以降、城郭建築に求められた新たな構造
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いによって、天下の覇権は徳川家康の手に移ります。
戦国の乱世が終わりに向かう中で、各地の城はこれまで以上に威厳・美観・恒久性が求められるようになりました。
家康はこの新しい時代の象徴として、各地に壮麗な城を築かせ、それまでの戦国期の実戦的構造を脱し、城を権力の象徴とする建築様式を整えていきました。
その流れの中で生まれたのが、層塔型天守です。
「望楼型天守」戦国時代の天守
層塔型天守が登場する以前、戦国時代の城郭で主流となっていたのが、望楼型(ぼうろうがた)天守と呼ばれる形式でした。
望楼型とは、入母屋造(いりもやづくり)の大屋根の上に小さな物見櫓(ものみやぐら)を載せたもので、下層が居館、上層が物見台として機能する、いわば「屋上の見張り台付きの館」でした。
これは、実戦を想定した構造であり、敵の動きを見張り、戦の指揮をとるための場所として重視されたのです。
一方で、望楼型には多くの弱点がありました。
上層部が屋根の上に「後から載せられる」形で増築されるため、建物の重心が高く不安定で、地震や風雨に対して脆弱でした。
また、屋根の継ぎ目が多いために雨漏りや損傷が発生しやすく、長期的な維持にも手間がかかりました。
さらに構造上、増築や移築が難しく、大規模な再利用にも向かないという欠点もありました。
このように、望楼型天守は短期間での築城や戦闘に適した構造であり、時代が常に動き、領主が変わり、城が戦の最前線であった戦国時代だからこそ成立した形式だったのです。
「層塔型天守」安定と合理の新しい時代
しかし、天下が統一へと向かい、平和と秩序を重んじる時代が訪れると、もはや「戦うための城」ではなく、「治めるための城」が求められるようになります。
そうした新しい時代の要請に応える形で登場したのが、層塔型天守です。
層塔型天守では、下層から上層へ向かうごとに階層の面積を段階的に縮小し、各階を通し柱で一体化させる構造が採用されました。
これにより、建物全体の重心が低く保たれ、地震や強風にも耐えうる高い安定性を実現しました。
構造的な無理の少ない設計でありながら、外観には整然とした垂直の美しさが生まれ、まさに力と均整の調和が体現された建築様式だったのです。
さらに、この形式では柱や梁の寸法が標準化され、部材の加工・組立が容易となりました。
結果として、工期の大幅な短縮が可能となり、築城コストも抑えられました。
同時に、解体・再利用もしやすく、合理性の点でも画期的でした。
こうして、層塔型天守は「実用性」「堅牢性」「美観」を兼ね備えた、近世城郭建築の完成形としての地位を確立していったのです。
日本初の層塔型天守
この新しい構造を最初に実現したのが、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
慶長十五年(1610年)、家康の命によって高虎は丹波亀山城の普請を担当し、自らが築いた今治城の天守を解体し、その部材を亀山へ移して再建したと伝えられています。
つまり、もしこの伝承が事実であるなら、今治城こそが日本で最初に建てられた層塔型天守であったことになります。
今治城の築城は慶長六年(1601年)に始まり、翌慶長七年(1602年)には主要部分が完成しました。
築城地はもともと、湿地と砂州が入りまじる低地帯で、潮の干満によって地形が絶えず変化する難所でした。
藤堂高虎は、渡辺官兵衛・木山六之丞ら優れた奉行の補佐を受けながら、地元の職人や石工、大工たちを組織して築城工事を進めました。
さらに、周辺の村々からも多くの人々が動員され、資材の運搬や地盤の整備などが進められました。
しかし、どれほどの人員を投入し、築城の名手といえども、海辺の軟弱地盤にこれほど大規模な城を築くことは決して容易ではありませんでした。
それにもかかわらず、わずか二年余という短期間で城を完成させることができたのは、高虎が新たに考案した層塔型天守の構造によるものだったのです。
以後、層塔型天守は徳川幕府を象徴する形式として定着し、江戸城・名古屋城・大坂城など、天下普請によって築かれた壮大な天守はいずれもこの様式に倣いました。
層塔型はやがて日本全国の近世城郭に広まり、安定感と威厳を兼ね備えた「天下人の城」として君臨することになります。
高虎転封後の天守なき今治城
丹波亀山城への天守移築以降、今治城は長らく天守のない城となりました。
藤堂高虎の転封後、寛永十二年(1635年)に松平(久松)定房が入封し、以後は久松松平家が藩主として治めますが、天守は再建されず、藩政は御殿や櫓を中心に営まれました。
やがて明治維新の波が押し寄せ、明治二年(1869年)には今治城が「当今時勢不用之品」とされて解体が進み、明治四年(1871年)の火災で「武具櫓」が焼失。
今治城はその姿を失いました。
丹波亀山から動き出した今治城の再建
それから八十余年の時を経た昭和二十八年(1953年)、今治開町三百五十周年を迎えた節目の年に、今治城跡は愛媛県史跡に指定。
昭和三十七年(1962年)十月、市、商工会議所、観光協会、史談会などによって「今治城復建期成同盟会」が結成され、翌年には「今治城復建委員会」が正式に発足しました。
当初の計画は壮大で、古絵図(沖冠岳所蔵と伝わるもの)を参考に、天守閣のほか、大手門・大広間・七棟の櫓を再建するというものでした。
しかし、当時の繊維業界の不況により、資金調達が困難となり、計画は一時中断を余儀なくされます。
転機が訪れたのは昭和四十二年(1967年)。
今治史談会の富田文男氏らが、藤堂家の家譜『宗国史』および『登山公実録』の中に、「今治城の天守が丹波亀山城に移された」という記述を発見したのです。
この発見は、今治城が歴史的に極めて貴重な城郭であることを再び世に知らしめ、市民の間に再建への情熱を呼び起こしました。
「海に浮かぶ城を再び今治の空に!」という願いが、静かに現実味を帯びていったのです。
今治に甦った幻の天守
その後、再建の機運は急速に高まり、国庫補助や文化財保護審議会の承認を経て、いよいよ天守再建が正式に決定します。
再建にあたっては、丹波亀山城の図面、半井梧菴(なからいごあん)の記録、そして明治期の古写真などが貴重な参考資料とされ、
設計は、和歌山城・会津若松城・熊本城などの復元設計でも知られる建築史家の藤岡通規(ふじおかみちのり)博士が担当しました。
昭和五十四年(1979年)に再建工事が着工され、同年十一月に起工式が挙行。翌昭和五十五年(1980年)十月、ついに現在の天守閣が完成しました。
新しい今治城天守は、鉄筋コンクリート造・五層六階建ての模擬天守として甦り、総工費はおよそ六億八千万円にのぼりました。
再建事業は今治市制六十周年記念事業として実施され、同時に門や櫓の再建も進められました。
その後も整備は続き、昭和六十年(1985年)に御金橋(ごきんばし)、平成二年(1990年)に山里橋(やまざとばし)が復元。
こうして、かつて瀬戸内の海に浮かぶようにそびえていた姿が、長い時を越えて、再び今治の地に甦ったのです。
現在の天守は、模擬天守として再建されたものですが、潮の香りとともに立つその姿は、かつて海に浮かんだ当時の記憶を映し出し、今も人々の心のなかで、静かに息づいています。