明堂さんに伝わる後醍醐天皇の皇子と八股榎大明神の伝承
後醍醐天皇の皇子と八股榎大明神」松山から今治へ受け継がれた伝承と祈りの聖地
愛媛県今治市大西町。瀬戸内の穏やかな海を望む山あいに、「明堂さん」と呼ばれる小さなお堂があります。
静かな森に包まれたこのお堂は、後醍醐天皇の皇子にゆかりを持つ聖地として知られています。
今に伝わるその歴史は、南北朝の動乱とともに始まりました。
「南北朝の動乱と伊予」三親王が渡った伊予の海
明堂さんの歴史は、南北朝時代にさかのぼります。
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、古代の律令制を理想とした中央集権政治「建武の新政」を始めました。
しかし、恩賞の配分に不満を抱いた武士たちの支持を失い、やがて有力武将・足利尊氏が後醍醐天皇と対立。
1336年には尊氏が京都に光明天皇を擁立して北朝を開き、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れて南朝を立てました。
こうして、京都の北朝と吉野の南朝が対立する「南北朝時代」が始まります。
南朝は皇統の正統を主張しましたが、軍事力では北朝・足利幕府に劣り、天皇や皇族は各地を転々としながら抵抗を続けることとなりました。
伊予国への波及と河野氏の分裂
南北朝の争乱は遠く四国・伊予国にも及びました。
伊予国の有力豪族である河野氏一族は、鎌倉幕府の滅亡前後からすでに対立の兆しを見せており、やがて南北朝の抗争においても二派に分かれて争うことになります。
河野通盛は幕府方として六波羅探題軍に属し、京都での戦いにおいて武功を挙げましたが、一方で土居通増や得能通綱といった支族は後醍醐天皇を奉じて南朝方に属し、元弘の乱(1331〜1333年)や湊川の戦いにおいて果敢に奮戦しました。
このように、伊予国では同じ河野氏の一族が南朝・北朝に分かれて対立し、国全体が南北朝動乱の渦中に巻き込まれていくこととなったのです。
伊予に派遣された三親王
このような情勢の中で、後醍醐天皇は足利尊氏の勢力を各地で食い止めるため、自らの皇子たちを地方へ派遣し、それぞれの地で南朝方の拠点を築かせました。
皇子の存在は単なる軍事的な意味にとどまらず、天皇の血統を象徴することで在地武士の結集を促し、南朝の正統性を広める重要な役割を果たしました。
その一環として、延元元年(1336年)11月、伊予国へも以下の三親王が派遣されました。
- 尊真親王(たかざねしんのう)
後醍醐天皇の第六皇子。出家して「蓮明親王」とも称されます。母は藤原氏の出身と伝えられますが、詳細は明らかではありません。 - 満良親王(みつよししんのう・みつながしんのう)
後醍醐天皇の第十一皇子。母は藤原忠子(中院流藤原氏の出身)と伝えられます。 - 懐良親王(かねながしんのう・かねよししんのう)
後醍醐天皇の第十六皇子。母は阿野廉子(新待賢門院、後醍醐天皇の寵妃)で、正嫡の血筋に属する皇子です。
征西将軍に付き従った精鋭武士
三親王は、後醍醐天皇から征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命され、精鋭の家臣団を従えて伊予へと渡りました。
これらの武士たちは、単に親王の身辺を守るだけでなく、伊予における南朝方の拠点形成や軍事行動の中核を担う使命を負っていました。
その中でも筆頭とされたのが、篠塚重広(しのづか しげひろ/篠塚伊賀守広重)です。
重広は篠塚に生まれ、新田義貞の鎌倉攻めで勇名を轟かせ、新田四天王の筆頭に数えられるほどの武将でした。
超武辺者として当代随一の武勇を誇り、その豪勇は敵味方を震え上がらせたと伝えられます。
伊予においても三親王の軍を支える柱石として、南朝方の拠点形成と軍事行動を主導しました。
これに並ぶのが、大館氏明(おおだち うじあき)です。
氏明も新田義貞に従い鎌倉攻めに参戦した歴戦の将であり、伊予においては軍略の中枢を担いました。
篠塚の猛勇と大館の冷静な指揮と戦略眼が合わさり、南朝方の軍勢は大きな力を発揮しました。
さらに尊真親王には、岡部忠重(のちの重茂山城主)、神野頼綱(のちの怪島城主)、神野十郎通頼(のちの弓杖島城主)といった側近も随行し、瀬戸内の島嶼部に拠点を築き、南朝勢力の基盤を固めていきました。
伊予の大井の浜に響いた南朝の旗
延元元年(1336年)11月、長い船旅を経て三親王一行の船団は伊予へと到着し、野間郡大井浦にある弓杖島(ゆづえしま、古名:弓津恵島)や景島(かげしま、別名:怪島)に船をつけ、その後、大井の浜に上陸しました。
この上陸を迎えたのは、かつて元弘の乱で朝廷方として奮戦した伊予国司・河野通政でした。
通政は大井寺、清林寺、法隆寺を仮宮として整え、南朝方の伊予国司として三親王を丁重に迎え入れました。
「炎上する大井寺」三親王の決断と別れ
三親王が伊予の地に滞在したことは、南朝方の軍勢にとって大きな精神的支えとなり、伊予勤王(伊予の南朝方の軍勢)の士気は大いに高まりました。
しかし、北朝方にとっては重大な脅威となりました。
延元元年(1336年)12月19日の夜、増援を募るため各地に散っていた家臣が留守の間を狙い、北朝方の兵三十余名が急襲を仮宮に仕掛けました。
清林寺の成戒法印、成道、大井寺の義泰法印(よしやす ほういん)らが僧兵さながらに奮戦しましたが、力及ばず多くが討死。
残っていた将兵たちも命を落とし、三親王の陣営は壊滅的な打撃を受けることとなったのです。
幸いにも三親王の命は守られたものの、尊真親王は深手を負い、拠点であった大井寺も全焼。
これ以上この地に留まり続けることは、あまりにも危険な状況となりました。
仮宮はすでに北朝方の目標となっており、再び襲撃があれば三親王の命運は尽きかねないと家臣団は強く危惧したのです。
そこで、三親王はそれぞれの将来と南朝再興の大義を考え、やむなくこの地を離れる決断を下しました。
「満良親王」浮穴郡へ退避
まず、満良親王は浮穴郡(うけなぐん)へと移り、その地の豪族や在地武士の庇護を受けながら身を隠しました。
浮穴郡は、かつて伊予国を構成していた郡の一つで、現在の松山市南部、伊予市、東温市、上浮穴郡久万高原町、伊予郡砥部町、喜多郡内子町の一部にまたがっていました。
山岳地帯から平野部、さらに海に面する地域までを含んでおり、また松山や伊予の平野部にも通じる戦略的な土地であったため、北朝方から身を避けるには格好の場所とされていました。
「懐良親王」瀬戸内海を渡って九州へ
次に、懐良親王は瀬戸内海を拠点とする有力な海賊衆の庇護を受けることになります。
村上水軍の大将・村上義弘は、新居浜の新居大島に居館を構え、そこに懐良親王を迎え入れ、一年間にわたり厳重に警護しました。
その後は忽那水軍(くつなすいぐん)の大将・忽那義範が松山沖の忍那島に迎え、三年間にわたり匿いました。
この両水軍は瀬戸内を支配する強大な勢力であり、親王を守り抜くことは南朝方にとっても大きな意味を持っていました。
やがて興国3年(1342年)、14歳に成長した懐良親王は、豊後水道を経て九州へと送り届けられ、無事に鹿児島へ到達しました。この決断は後の南朝再興に大きな道を拓くことになります。
「尊真親王」この地に残り戦い続けた皇子
一方で、尊真親王は伊予に残り、新たに大井醍醐宮を拠点にこの地で戦い続けることを選びました。
この「大井醍醐宮」は、清林寺にあたると考えられています。
清林寺は、行基菩薩によって大井寺(明堂菩薩本寺)が創建された後、その流れを受けて、宝亀10年(779年)8月に「明堂菩薩本寺清林寺」として開創されたと伝えられます。
この頃、大井寺は現在の法隆寺の地にあり、法隆寺は詳細は明らかではないものの、もとは宮脇の寺谷の地に建立されていたと伝えられています。その後、現在の場所へと遷されたとされます。
これらの伝承を踏まえると、尊真親王が仮宮とされたのは清林寺であり、すなわち清林寺こそが「大井醍醐宮」であったと考えられます。
「尊真親王の最期」大井寺に受け継がれた南朝の記憶
大井醍醐宮を拠点とした尊真親王は、四條少将ら忠実な家臣の守護を受けながら、阿波・讃岐両国に勢力を張る北朝方を討つべく軍を整えました。
しかし、戦で受けた傷は癒えることなく、やがて病のように体を蝕み、思うように戦を指揮することも困難となりました。
それでも親王は南朝方の旗頭として奮起を続けられましたが、延元3年(1338年)3月8日、ついに力尽きて崩御されました。
「法隆寺」親王を葬送した寺院
尊真親王の亡骸は別当寺であった法隆寺(ほうりゅうじ)が神主と協力し、藤山(現:藤山健康文化公園)の脇の宮において丁重に尊真親王を埋葬したと伝えられています。
さらに、法隆寺では阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三尊を造立し、親王の御霊を慰める供養を行いました。
また、この歴史を後世に伝えるため、法隆寺では毎年三月八日に法会を営み、尊真親王への供養を続けています。
「尊真親王御陵墓」静寂に眠る皇子の祈り
尊真親王の埋葬されたは、藤山(現・藤山健康文化公園)は古来より地域の人々に尊崇されてきた聖域で「御陵の山」と呼ばれていました。
御陵は現在「尊真親王御陵墓」として宮内庁の管理下にあり、静寂の中に往時の歴史を伝えています。
「大井八幡宮」尊真親王の御霊を祀る
尊真親王の御霊は大井八幡宮(大井八幡大神社)に合祀され、今なお厚い崇敬を集めています。
大井八幡社は古くから地域の鎮守として人々の信仰を受けてきましたが、尊真親王の御霊が祀られたことによって、単なる氏神の社にとどまらず、南北朝の動乱を偲ぶ歴史的な聖地としての性格を帯びるようになりました。
「明堂さんの建立」廟堂から信仰の象徴へ
尊真親王の崩御後、重茂山城主の岡部氏や神野氏らは、大井寺の法印とともに親王の冥福を祈り、清林寺の境内に廟堂(びょうどう・おたまや)を建立しました。
堂内には、阿弥陀如来・普賢菩薩・文殊菩薩の三体、あるいは聖観世音菩薩が安置されたと伝えられます。
この廟堂はのちの時代に「明堂(みょうどう)」と呼ばれるようになり、祀られた尊像は「明堂本尊」「明堂菩薩(明堂観音菩薩)」として親しまれました。
戦乱の世が続き、天下泰平の江戸時代を迎えるまでの間に、清林寺・明堂は戦火によって焼失しました。
代々重茂山城主を務めた岡部氏は、主君・尊真親王への深い思いを受け継ぎながら、山桃(ヤマモモ)の樹の下に再建しました。
その再建の歴史の中で七堂伽藍が整えられ、焼失していた大井寺が明堂に移されたと伝えられます。
しかし、その大井寺も再び戦火によって焼失。
岡部氏は、今度は城の鬼門除けとして、現在の地に大井寺を再建したとされています。
古来より鬼門は、災厄が入りやすい不吉な方角とされ、城や屋敷の守護のためにこの方角に寺社を設ける風習がありました。
大井寺はその思想に基づき、重茂山城を守護する「鬼門除けの寺」として再興されたのです。
近世までの変遷 ― 天正の兵火と荒廃
近世までの変遷 ― 天正の兵火と荒廃
その後も、大井寺と明堂との歴史的なつながりは受け継がれ、両者は一体となって地域の信仰を支える存在となっていきました。
しかし、戦国時代に入ると再びこの地は戦乱の渦に巻き込まれ、寺院と信仰の場は大きな危機を迎えることになります。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉による四国平定の戦が始まります。伊予方面の攻略を担ったのは、毛利家の名将・小早川隆景。彼の軍勢は桜井から上陸し、河野氏の諸城を次々に攻め落としながら西進しました。
このとき、野間の地を守っていたのが、河野家の重臣である岡部十郎国道公と高田左衛門進公でした。
岡部氏は武蔵国岡部村を発祥とする坂東武者の一族で、源頼朝の家臣として名を馳せた岡部六弥太忠澄を祖とします。
忠澄の子・岡部時綱が伊予西条荘の地頭に任ぜられて以降、一族は伊予に根づき、代々河野氏に仕えてきました。
岡部十郎国道公はその末裔にあたり、重茂山城を本拠としてこの地を治めました。
武勇に優れ、信義に厚い人物であったと伝えられ、特に日吉神社への崇敬が深く、天正三年(1575年)には「門九神像」を奉納しています。
この像は後に国の重要文化財に指定され、今も彼の信仰心と文化的功績を伝える遺宝として知られています。
一方、高田左衛門進公は、岡部氏とともに野間を守った武将で、重茂山の東方にあった重門山城を拠点としていました。両家は城を構えて互いに連携し、伊予の防衛線を担ったと伝えられています。
天正十三年の戦いでは、岡部・高田両氏は圧倒的な兵力を誇る小早川軍に対し奮戦しましたが、ついに落城。
『河野家家譜』には、「重茂山城主岡部十郎力戦之れを拒む」と記されており、最後まで戦い抜いたことがうかがえます。
明堂さんは、天正年間に再び兵火に遭い、再建がかなわず荒廃した時期があったと伝えられています。
このことから、天正十三年(1585年)の四国攻めによって周辺の寺社が焼失した際、明堂も同じく戦火の被害を受けたのかもしれません。
この荒廃の中にあっても、大井寺と明堂との結びつきは途絶えることはありませんでした。
大井寺の法印や村の信者たちは、廟堂の跡を守り、供養や清掃を絶やさず続けていたと伝えられています。
弘化の再興と禁制 「眷属狸の邪教」と弘化の禁
弘化元年(1844年)、長く荒廃していた明堂に再び光が差し込みました。
境内の山桃の樹の下から宝篋印塔が掘り出され、これを安置したことがきっかけとなって霊験が広く知られるようになったのです。
そのきっかけは、山桃の樹の下から宝篋印塔(ほうきょういんとう)が掘り出され、これを安置した出来事でした。
「明堂に霊験が再び宿った」として人々の間で語り継がれ、村内外からの参詣者が急増しました。
数年間にわたり、境内は昼夜を問わず参拝者で賑わい、明堂信仰は一時的に空前の隆盛を迎えたと伝えられます。
こうした爆発的な信仰の広がりは、やがて幕府の宗教統制に触れることとなりました。
「狸を神とする邪教ではないか」との風説が立ち、弘化年間の中頃には「眷属狸(けんぞくだぬき)の邪教」として当局の弾圧を受け、参詣が禁じられました。
禁制に至った理由にはいくつかの説があります。
一つは「明堂の繁栄に比して仏体が明瞭でなかったため、代官が不審を抱いた」とする説。
また、「代官が帯刀していた小柄(こづか)を紛失し、怒って禁令を出した」という逸話も伝えられています。
さらに、「山桃の木に狸が宿るという信仰が淫祠邪教と見なされた」という説もあります。
禁制以後、明堂は再び静けさを取り戻しましたが、地元の人々は信仰の灯を絶やさず、ひそやかに堂を守り続けました。
この時期、明堂は単なる宗教施設ではなく、人々の祈りと自然信仰が交わる象徴的な聖地として息づき続けたのです。
昭和に甦った明堂信仰とお袖狸の伝説
昭和に入ると、明堂さんの信仰は再び息を吹き返しました。
その中心となったのが、明堂の境内にそびえる山桃の木と、そこに棲むと伝えられた「お袖狸(おそでだぬき)」「八股狸(やつまただぬき)」と呼ばれる雌の狸でした。
「八股榎お袖大明神」松山を見守る霊狸
この狸は、もとは江戸時代後期の松山城の森に住んでいたと伝えられています。
文政十三年(1830年)頃、城下の堀端にそびえる榎(えのき)の大木へと住み移り、以来、城と城下町を陰ながら守護する霊狸として崇められてきました。
榎の上から往来を見下ろすのが好きで、特に美男子を見るのを好んだという、どこか人間らしい愛嬌のある伝承も残されています。
神通力を持つこの狸は、いつしか「八股狸」の名で呼ばれ、商売繁昌、縁談、病気平癒、安産といったご利益を授ける町の守り神として親しまれるようになりました。
その信仰は明治・大正を通じても衰えることなく、松山の人々の生活に深く根づいていました。
あの俳人・正岡子規も「小のぼりや 狸を祀る 枯榎(かれえのき)」と詠んでおり、この句からも、当時すでにお袖狸の信仰が広く知られていたことがうかがえます。
お袖狸の霊験を語るうえで欠かせないのが、産婦人科医であり松山市長も務めた安井雅一(1874〜1953)にまつわる逸話です。
大正七年(1918年)のある晩、安井医師は見知らぬ邸宅に呼び出され、急な出産の手助けを頼まれました。
無事に子を取り上げたのち、受け取った謝礼の包みを開くと、中には木の葉が混じっていたといいます。
不審に思った安井医師が翌朝その邸宅を訪ねると、そこには家も門も跡形もなく、ただ風だけが吹き抜けていたといいます。
「それはお袖狸が自らの“お産”を頼んだのだ。」
この出来事をきっかけに、お袖狸の安産信仰はいっそう広まり、松山中の女性たちが榎の木に祈願するようになりました。
戦後の昭和二十七〜二十八年頃には、地元有志の手で榎のそばに小さな祠が建てられ、昭和三十年(1955年)には仮殿が、翌年には立派な本殿が造営され、戦後の混乱期を生き抜く人々にとって心の支えとなりました。
現在もその信仰は受け継がれ、松山市役所前のお堀の角には「八股榎お袖大明神」が祀られています。
赤い幟がはためく小祠には、今も出勤途中の会社員や散歩中の市民が手を合わせ、日々の無事と幸運を祈る姿が見られます。
そんな松山の城下町で人々に親しまれたお袖狸が、大西の明堂さんに祀られることになったのは、昭和のある出来事がきっかけでした。
松山の霊狸が明堂へ宿った
そんな松山の城下で長く親しまれ、人々の暮らしに寄り添ってきたお袖狸が、はるか離れた大西の明堂さんに祀られることになったのは、一体なぜでしょうか。
昭和十一年(1936年)、松山の中心部で市電の複線化と道路拡張が計画され、堀端にそびえていたお袖狸ゆかりの榎の大木が伐採の対象になりました。
長年、人々が手を合わせてきた木ですから、町は騒然となりました。
「祟りがある」と恐れて作業をためらう者も多く、枝一本すら切れない状況が続いたと伝えられます。
最終的には僧侶の読経と清めの儀を整えたうえで、根ごと大木を掘り上げ、松山市石井の喜福寺へと移植する運びになりましたが、木はほどなく枯れてしまいました。
この出来事は、松山の古い信仰に親しんできた人々に深い衝撃を与え、「お袖狸が棲み処を追われた」との嘆きが広がりました。
やがて人々のあいだで、ひとつの不思議な噂がささやかれるようになりました。
「棲み処を失ったお袖狸が、大西の明堂さんへ飛来し、山桃の木に宿って“明堂菩薩”として姿を現した」
社会現象にまでなった明堂さん
この噂は瞬く間に拡がり、まるで風に乗るように広島・山口・岡山方面まで伝わり人々の関心を一気に集め、明堂は突如として“時の場所”になったのです。
それは、単なる一地域の信仰にとどまらない、社会的現象と呼んでも差し支えないほどの熱気でした。
溢れる参詣列と交通のパンク
明堂へ通じる山道と参道には、昼夜を問わず参拝者の列が続いたといいます。
最寄りの大井駅(現・大西駅)は終日ごった返し、ふだん一日約200人だった乗降客が5,000〜6,000人に膨れ上がった日もあったと語り継がれています。
駅前には人力車がずらりと並び、荷車がひっきりなしに行き交い、臨時の手配にも限界があったため、国鉄のダイヤはしばしば乱れたと伝えられます。
海からの参詣も多く、大井漁港には急造の応急桟橋が設けられ、島しょ部や対岸からの船が絶え間なく出入りしたといいます。
露店の林立と“参拝景気”
参道や沿道には露店がびっしりと立ち並び、護符やお守り、線香・ろうそく、油揚げ(お袖狸の好物として供えるため)などが飛ぶように売れたそうです。
青年たちが農作業を一時中断して線香や油揚げを仕入れて売るほどで、町は祭礼さながらの熱気に包まれました。
今治・大西・菊間の浜辺にも店が出て、人の波は夜更けまで途切れなかったといいます。
“はだし参り”と祈りの作法
当時は「はだし参り」といって素足で参拝する人も多かったと伝わります。
山桃の幹に手を当てて祈り、根元に灸(きゅう)を据えると効き目があるという噂が広がり、病気平癒や安産、商売繁昌、金運招福の祈願が相次ぎました。
境内には灯明や提灯が無数に奉納され、夜になると一帯が淡い光に包まれたといいます。
夏にピーク、賽銭は“桶で運ぶ”
参詣のピークは夏の八月・九月・十月だったとされます。
一日のお賽銭は約六百円に達した時期もあったと伝わり(当時は一銭の硬貨が主流でした)、大きな桶に賽銭を入れて二人で担ぎ、坂を下って当時の村長宅の離れへ運んだという生々しい証言が残ります。
地元の娘さん二人組が交代で計数し、一銭硬貨を50枚まとめる道具を使って数え、日当八十銭を受け取ったとされます。
境内の周囲には一銭が落ちていることも多く、子どもたちが拾ったという思い出話も伝わります。
祈りの共同体としての明堂
参拝者の中には、餅米を集めて大祭の供餅を搗く奉仕団もありました。
ある時、蒸しがどうしても上手くいかず、世話人が「最初の一臼だけは自分たちで頂こう」と決めたことを「明堂さんのお怒り」と受け止め、皆で詫びると無事に蒸し上がったという、素朴で切実な逸話も伝わります。
供物のお下がりの油揚げは納屋に集められ、地域の人に配られたともいいます。
影の側面:人出と“取締り”
こうした爆発的な人出は負の側面も生みました。
例えば、参詣客の多さに便乗し、「いざり」と呼ばれる偽の物乞いが明堂周辺に出没したと伝わります。
“いざり”とは本来、下半身に障がいを持つ人の呼称ですが、この時現れたのは、障がい者を装って同情を引き、金を得ようとする者たちでした。
彼らは洗面器状の鉢を前に置き、「憐れな者でございます、一文お恵みを」と手を合わせて情に訴え、中には犬に紐を付けて引かせたり、手押し車に乗って境内や参道を巡回する者もいたと伝わります。
善意の巡礼者は「本当に困っている人もいるだろう」と小銭を入れ、参道にはしきりに硬貨の触れ合う音が響きました。
しかし後年の証言では、胴元が背後で統率する“商売”の色彩が濃く、桜井の浜や別府の松林など沿岸の“根城”から人員を回す、半ば組織的な振る舞いもあったと言われます。
こうした状況を受けて、警察が取り締まりに乗り出す事態となりました。
明堂の山道や参道には警官が巡回し、夜間の見回りも行われたといいます。
また、このような過熱した現象は県議会でも社会問題として取り上げられ、公共交通や地域生活に与える影響が議論されたといいます。
松山へ帰ったお袖狸、信仰の静まり
こうして、過剰な熱気に包まれていた明堂の信仰でしたが、やがて人々のあいだで一つの噂が静かにささやかれるようになりました。
「お袖狸はもう明堂を去ったらしい」
お袖狸は一年ほど明堂にとどまったのち、松山からやって来た数匹の美しい娘の姿に化けた狸たちの仲間に迎えられ、再び古巣の松山へ帰ったというのです。
この噂は次第に広まり、あれほどの人波と熱狂に包まれていた明堂も、次第に静けさを取り戻していきました。
しかし、それは信仰の終わりではありませんでした。
熱狂の中で芽生えた祈りが、人々の暮らしの中に静かに息づき、より穏やかで深い信心へと姿を変えていったのです。
明堂の整備と地域への恩恵
昭和の熱狂がひと段落したのち、明堂さんは宗教施設としての整備が本格的に進められました。
このころ、境内には「日切地蔵(ひぎりじぞう)」が建立されました。願いの期間を定めて祈るという独特の信仰で、「一か月毎日参詣」「一週間断祀」「一年間の食戒」など“期間を切る”ことで、忙しい生活の中でも祈りを継続できるよう工夫されたものでした。
地蔵の前には、願いを記した木札がずらりと並びました。
「子の病気平癒」「家内安全」「商売繁昌」「良縁成就」
墨で書かれた日付入りの札には、どれも素朴で切実な願いが込められていました。
大井寺との結びつき
昭和十年(1935)には、当時の宗教行政の制度に基づき、明堂は正式に「大井寺外境内仏堂」として登録されました。
これによって、古来より続く大井寺(明堂菩薩の本寺)と南北朝以来の関係が、法的にも明確にされ、法会・供養・維持管理の面で本寺と緊密に連携する体制が整いました。
地域への恩恵
明堂に集まった多くの浄財は、地域社会を支える力にもなりました。熱狂の渦中、境内には連日賽銭が山のように積まれ、地元の世話人たちが交代で集計を行っていました。
一斗缶や桶に詰めた硬貨を担いで坂を下ろす光景は、まさに時代の象徴だったといいます。
その中から日々の浄財の一部が、地域の公共的な目的に充てられました。
小学校のピアノ購入、明徳館(現・公民館)の整備、消防団の制服・ホース・拍子木などの装備更新、さらには村道や参道の修復など、祈りによって集まった財が、現実の生活基盤を整えるために生かされたのです。
現代に受け継がれる祈り
長い歳月を経て、明堂さんの信仰は今も静かに息づいています。
近年には八股大明神の赤い鳥居が新しく建て替えられ、堂宇の修繕や参道の整備なども地域の手で少しずつ進められてきました。
春には四月初めの日曜日の大祭、冬には一月十五日の初参りが行われ、そのたびに広島や高松、松山、今治、呉など各地から人々が訪れます。
遠方から訪れる人の中には、かつて祖父母に連れられて幼少期に参詣したという人も多く、世代を越えて明堂さんとの縁が受け継がれているのです。
地元では、七月七日が明堂参詣の日とされており、地域の人々が堂前に集い、年配の方々をねぎらいながら、食べ物や飲み物を分かち合います。
笹の葉が風にそよぎ、供花や旗が並ぶ光景は、この地に夏の訪れを告げる穏やかな風物詩となっています。
このように、かつての賑わいは静かな感謝の祈りとなって息づき、地域の人々の心に寄り添う拠りどころとして受け継がれ続けています。



