「円光寺(えんこうじ)」の創建時期は明確ではなく、河野通信(こうの みちのぶ)ゆかりの若松寺が前身であったのではないかという説もありますが、その真相は依然として不明です。
一方で、霊仙山城(りょうせんざんじょう)を拠点とする中川親武(なかがわ ちかたけ)をはじめとする中川一族の菩提寺として栄えていたことがわかっています。
この時代の円光寺は、中川一族の信仰と庇護を受け、円光寺は地域の信仰の中心地となり、多くの参拝者で賑わっていました。しかし、日本の歴史における大きな転換点となった「源平合戦」により、円光寺は大きく衰退することになります。
「源平合戦」
源平合戦(げんぺいがっせん)は、1180年から1185年にかけて、源氏と平氏の二大武家勢力が日本の支配を巡って繰り広げた内戦です。特に全国的に影響を及ぼし、日本の歴史に大きな変化をもたらした戦争として知られています。
当時、松山市道後公園にあった湯築城(ゆづきじょう)を拠点にしていた中川太郎左衛門(中川一族)は、平家方の武士として源平合戦に参加していました。中川一族は平家の側に立ち、激しい戦いに身を投じました。源平合戦の時期、全国的に源氏が勢力を拡大していく中で、平家側の支援者や同盟者たちは次々に討たれ、劣勢に立たされていきました。平家の支配は弱体化し、中川太郎左衛門一族のような武士たちも、戦火の中でその運命が厳しいものとなっていきました。
「壇ノ浦の戦い」
源平合戦は全国規模で広がり、やがて平家の敗退が誰の目にも明らかになっていきました。その決定的な局面は、1185年の「壇ノ浦の戦い」において迎えます。この戦いで、源義経率いる源氏軍が、平家軍を完全に打ち破り、平家の勢力は壊滅しました。この戦いは源平合戦における最終的な勝利であり、平安時代の終わりと、鎌倉幕府の始まりを意味する重要な出来事となりました。
多くの平家一族が壇ノ浦と、その後の戦で命を落とす中で、中川一族も命を滅亡しました。彼らもまた、平家の命運を共にし、源氏の勢力拡大に抗うことができなかったのです。
藤堂高虎による再興
中川一族の滅亡により、円光寺もその栄華を失っていきました。資金的な支援を失った寺は、堂塔の修繕や維持が難しくなり、次第に荒れ果てていきます。かつて賑わいを見せていた境内も、時が経つにつれ静寂に包まれるようになり、訪れる人も少なくなっていったと考えられます。
1602年頃、今治城の築城を進めていた藤堂高虎の手によって、円光寺は再興されることになります
築城の名人として知られる高虎は、城だけでなく寺院の再興にも熱心で、地域の文化と信仰を支えるために尽力しました。この中で、円光寺は再興されることになり、奥州長源寺六世の卓眼和尚を開山として迎え、現在の場所に寺の建物群(伽藍)が整備されました。
近代の復興
明治時代、円光寺は火災に見舞われ、多くの建物が焼失しましたが、地域の支援によって少しずつ再建が進められました。さらに、太平洋戦争中には戦災による大きな被害を受け、再び寺の存続が危ぶまれる事態に直面しました。
それでも、地域の人々が協力し合い、昭和23年(1948年)には復興活動が本格化します。住民たちの強い意志と支えにより、円光寺は見事に再建され、現在もその歴史的な姿を保ち続けています。この再建の過程には、地域社会の結束と信仰が深く関わっており、寺は地域の誇りとして蘇りました。
今治タオル産業と円光寺の絆
円光寺には、今治タオルの発展の歴史と深い結びつきを持っています。
今治タオルの歴史は、明治27年(1894年)、今治城下の室屋町(現今治市)に生まれた阿部平助(あべ へいすけ)が、大阪泉州で西洋のタオルを見たことをきっかけに、今治でタオル製織を始めたことから始まります。
当時、彼は4台の織機でタオル製造をスタートし、これが現在の「今治タオル」の基盤となりました。
そして阿部平助の指導のもと、今治のタオル製造は着実に成長を遂げ、現在の「今治タオル」ブランドの礎が築かれました。平助の功績は、単なる技術革新だけに留まらず、今治市全体の経済発展に大きく貢献しました。その結果、今治は日本のタオル産業の中心地として発展し、その影響は現在も続いています。
円光寺には阿部平助と一族が眠っており、地域の歴史と産業の発展を象徴する大切な場所として、今治タオルの誕生と深く結びつきながら、その重要性を未来に伝え続けています。