室町期の五輪塔が語り継ぐ、武家・浅海氏の御霊を祀る祖霊社
「楠木神社(くすのきじんじゃ)」は、戦乱の時代に武家として生きた浅海(あさみ)氏の御霊を祀る祖霊社です。
浅海氏の血を引き、現在も神主を務めている方が住む住宅の敷地内に祀られており、祖先をまつる場所として代々引き継がれてきました。
社殿のそばには浅海家の墓所が残されており、その中には室町時代(1336年〜1573年)にさかのぼるものも見られます。こうした痕跡から、この地には中世のころからすでに浅海氏が居住していたことがうかがえます。
風早郡浅海村を本拠とした武士・浅海氏
浅海氏は、伊予国風早郡浅海(あさみ)村を本拠とした武士で、越智氏から続く河野氏の一族にあたる家です。
浅海という名字は、浅海の地に居を構えたことに由来し、河野氏が当地に住した際に、その一族であった浅海能長が「浅海兵庫」を称したことから始まったと伝えられています。
能長は浅海氏の名乗りの始祖に位置づけられており、ここから浅海家が武家としての歩みを始めたとされています。
浅海氏は早くから河野氏の重要な家臣団として位置づけられ、河野水軍の形成にも深く関わっていました。
「河野氏と浅海氏」源平合戦から続く一族の結びつき
平安時代末期、日本列島は源氏と平家という二大武家勢力の対立によって大きく揺れ動いていました。
これが後に「源平合戦」と呼ばれる全国規模の内乱であり、京都を中心とした政治の場だけでなく、地方の武士団や海上交通の要衝にも深い影響を及ぼしました。
特に瀬戸内海は、都と西国を結ぶ海上交通の大動脈として古来より重要視され、どちらがこの海域を制するかが戦局そのものを左右しました。
平家は早くから瀬戸内の制海権を握り、海上輸送を掌握することで優位に立っていましたが、その平家の海上支配に楔を打ち込んだ勢力こそ、伊予国を本拠とする河野氏でした。
源頼朝への早期参陣と戦略的判断
源頼朝が挙兵すると、河野氏は早々に源氏への忠節を示し、伊予国内の兵を動員して参陣しました。
この決断は、瀬戸内海の制海権を平家が掌握しつつあった状況下で大胆かつ重大な判断であり、同時に伊予国内の独立性と地位を守るための戦略的選択でもありました。
戦局を大きく左右する瀬戸内海での戦いにおいて、頼朝にとって河野氏の参陣は、平家水軍に対抗するうえで決定的な意味を持っていました。
源平合戦での活躍と河野水軍の戦功
河野氏は源平合戦全体を通じて、瀬戸内海の要衝で絶大な戦果を挙げました。
特に屋島の戦いでは、河野水軍の働きが戦局を大きく動かしました。
屋島の戦いにおいて、源義経は荒天の中をわずかな兵力で四国側から強行上陸し、平家の背後を衝く奇襲策を実行しました。
この大胆な作戦が成立し得た理由のひとつが、河野水軍が瀬戸内で平家の動きを封じ、屋島周辺海域で平家の注意をそらし続けていたことにありました。
河野水軍は平家の補給線や退路を断つように動き、海上の主導権を源氏側へと引き寄せました。
瀬戸内海の制圧が義経の陸上奇襲を可能にし、さらに壇ノ浦に至る平家追討戦の決定的な基盤を形成したのです。
その戦功は単なる「水軍の支援」にとどまらず、源氏が西国で優勢を確立するための核心的役割を果たしたといえます。
源義経の巧妙な奇襲が歴史に名を残す陰には、河野氏の綿密な海上作戦と、瀬戸内海を知り尽くした水軍力が存在していたのです。
伊予での河野氏の地位確立
この活躍から河野氏の当主・河野通信は 源頼朝から高く評価され、元久二年(1205)の伊予守護職に任じられました。
それは単なる地方役職ではなく、伊予国内の軍事と行政を総括する権限を意味し、河野氏が名実ともに伊予国の筆頭武士団であることが公式に認められた瞬間でした。
また、頼朝の正室・北条政子の実妹も妻として迎えられ、河野氏と北条氏との間には強い縁戚関係が築かれました。
この婚姻は、単なる家同士の結びつきにとどまらず、鎌倉幕府の中枢に深く連なることを意味し、河野氏が政権内部でも重要な地位を占める基盤となりました。
御家人三十二名筆頭・浅海太郎頼季
さらに頼朝は、伊予国内の御家人三十二名をすべて通信の配下に置くよう命じ、伊予国における軍事指揮権を河野氏のもとへ完全に一元化しました。
この「三十二御家人」は、伊予国内で独自の勢力を築いていた有力武士団であり、その統率を通信に委ねた決定は、鎌倉幕府が河野氏を伊予統治の要と見なし、格別の信任を寄せていたことを如実に示しています。
その三十二名の筆頭に名を連ねたのが、河野氏庶流にあたる浅海氏の三代目、浅海太郎頼季でした。
筆頭という立場は、単に家格の高さを示すものではありません。
頼季がその地位を与えられたのは、実戦における確かな能力があってこそでした。
頼季は三十二名の中で軍勢を率いる旗頭(はたがしら)としての重責を担い、合戦の場では常に軍の先頭に立って指揮を執り、河野家中の軍事行動を統率する役割を果たしていました。
このような重要な任を託されていた事実こそが、浅海氏が鎌倉時代初期の段階で、すでに河野一族の中核を占める実力と信頼を確立していたことの確かな証といえるでしょう。
浅海家が武家として盤石な地位を築いたのも、この時期からであると考えられます。
承久の乱が浅海氏にもたらした転機
しかし、この安定は長くは続きませんでした。
源頼朝の死後、鎌倉幕府内部では権力のゆらぎが生じ、北条氏による専権が強まると、かつて源平合戦で活躍した古参御家人たちは次第に幕府と対立するようになっていきます。
承久三年(1221)、後鳥羽上皇は北条氏を討つべく挙兵し「承久の乱」が勃発しました。
河野通信は後鳥羽上皇側に立って参戦し、幕府軍に敗れたのち、奥州平泉へと流されました。河野氏は一時没落し、多くの一族が所領を没収されるなど、家中は深い危機に陥りました。
浅海氏の当主・浅海能信もまた河野通信に従って上皇方に与し、敗戦後には伊予国内の所領をほとんど失ったと考えられます。
能信は追討を逃れるため瀬戸内を越えて周防国(現・山口県東南部)へと向かい、平郡島へ身を寄せたとみられます。
能信が平郡島に移り住んだ具体的な事情は史料に多くは残されていないものの、島が瀬戸内航路の中継地として優れていたこと、さらに外敵から身を隠しやすい地理的条件を備えていたことが、その選択に影響したと考えられます。
そして、このとき能信が身を寄せた平郡島こそが、のちに瀬戸内海の要衝として河野水軍の前線基地となり、浅海氏が島に根を下ろしてゆく歴史の起点となっていきました。
元軍の襲来と日本列島の動揺
その後、文永十一年(1274)と弘安四年(1281)に、元(蒙古)軍が日本へ襲来する元寇が起こります。
元軍はまず対馬と壱岐を攻め落とし、島の守備兵のみならず住民までも容赦なく討ち取りながら進軍を続けました。
博多湾に上陸すると、太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、集団で武士を取り囲む戦法や、てつはうと呼ばれる火薬爆弾、毒矢といった当時の日本には未知の兵器によって、あっという間に日本側を圧倒しました。
その戦いぶりは日本の武士が長年培ってきた一騎討ちの作法とはまったく異なるもので、初めて遭遇した武士たちに大きな動揺を与えました。
しかし、元軍は初回の文永の役ではわずか一日で撤退しました。
これは、日本を即座に征服するのではなく、武力を示して日本に屈服を迫ることが目的であったと考えられています。
鎌倉幕府は服属を拒み、逆に元の使者を鎌倉で処刑したため、両者の関係は決定的に断絶しました。
その後、元は南宋を滅ぼし、中国全土を掌握すると、かつてない規模の再侵攻を企図します。
伊予の国守・河野氏と村上水軍の出陣
弘安四年(1281)の戦いは、十数万の兵員と数千隻にも及ぶ軍船が動員される大規模なものでした。
元軍は東路軍と江南軍に分かれて日本を挟撃する計画で、日本側は九州沿岸に防衛線を築き、連日のように激戦が繰り広げられました。
この国難に対し、伊予の国守・河野氏もまた立ち上がりました。
当主・河野通有とその一族である河野通純は、瀬戸内海を治めていた村上水軍を率いて参陣し、その軍勢の中には村上氏の当主で第四代にあたる村上頼久の姿もありました。
村上水軍は海戦の専門集団として知られ、夜襲や奇襲、火矢を用いた焼き討ちを得意とした精鋭です。
通有と頼久の軍勢は、元軍艦隊に火矢を浴びせて敵船を焼き払い、闇夜に紛れて果敢に切り込みをかけるなど、海戦において抜群の働きを見せました。
しかし、兵力・装備・軍事技術の差は大きく、日本側は圧倒的な侵攻軍の前にいつ陥落してもおかしくない状況へと追い込まれていきました。
神風の奇跡と八幡信仰の広がり
武士たちは圧倒的な兵力差の前に追い詰められ、国の存亡を覚悟しなければならない状況に立たされました。この極限状態の中で、筑前国(現・福岡県北西部)の筥崎八幡宮に勝利を祈願しました。
祈りに応えるかのように、九州北部の沖合に突如として猛烈な暴風雨が吹き荒れました。
荒れ狂う風と波は元軍の艦隊を直撃し、船は次々と転覆し、帆柱は折れ、指揮系統は混乱し、将兵は大海に呑まれていきました。
補給線を断たれ孤立した上陸部隊も次第に討ち取られ、元軍は壊滅状態となりました。この暴風は「神風」と呼ばれ、日本は国家滅亡の危機を奇跡的に免れることとなりました。
この神風の奇跡は八幡神への信仰をいっそう強め、その信仰は各地へと広がっていきました。
その流れは伊予国にも及び、弘安五年(1282)八月十五日、河野通有と通純の主導により筥崎八幡宮から神霊が勧請され、東・中予地域(西条市・今治市・松山市周辺)を中心に、「樹下鎮守八幡宮(男山八幡大神社の前身)を含む、二十八社の八幡宮が創建されました。
浅海氏が担った瀬戸内防衛の最前線
このように日本はなんとか元軍の大侵攻を退けることができましたが、仮に九州北部での防衛が破られた場合、元軍は上関海峡を通過して瀬戸内海へ侵入し、そのまま都へ迫る危険性がありました。
もしその最悪の事態が現実となれば、瀬戸内海の西の入口に位置する平郡島が次なる防衛線となり、そこで敵の進軍を食い止めることが必須でした。
平郡島の地勢と浅海氏への防備委任
当時、瀬戸内海の軍事的掌握を担っていたのは鎌倉幕府に属する河野水軍でした。しかし本家の河野氏は北九州の戦線へ向かっていたため、瀬戸内側の防衛は同族である浅海氏に委ねられていました。
平郡島の西浦に位置する平見山は、西方から瀬戸内に侵入する船団をいち早く発見できる絶好の場所であり、その自然地形は防衛拠点としてこれ以上ない適地でした。
浅海能信は、伊予浅海村から軍勢を率いて平郡島に移り、この平見山に砦を築き、島を防衛の要として整備しました。
弘安二年(1279)の文書には、河野丹治が百姓を率いて同島に来住したとの記録が見え、平郡島の防備体制がこの頃、河野一族の手で本格的に強化されつつあったことがうかがえます。
信仰に基づく島の鎮護と八幡宮の創建
平郡島の防備は軍事だけではなく、信仰面でも進められていました。
1246〜1259年頃、浅海能信が島の守護を祈って宇佐八幡宮の神霊を勧請し、その後、弘安三年(1280)には、浅海通頼が武運長久を祈願して社殿を造営しました。
大般若経六百巻を奉納して島の鎮護と戦没者の冥福を祈願しました
これが、現在に伝わる平郡島に鎮座する重道八幡宮の由緒になります。
八幡神は武家の守護神であり、通頼が戦勝祈願を込めて社殿を整えた背景には、元軍との決戦が目前に迫っていたことがあったのでしょう。
同じ時期に海蔵院も建立され、十一面観音が本尊として安置されました。
これらの寺社の創建は、単なる宗教的行為ではなく、平郡島を瀬戸内の要衝として守るための精神的支柱であり、外敵に備える武家の覚悟と祈りの結晶でもありました。
浅海通頼は、こうした信仰面での備えを進めただけではなく、翌・弘安四年(1281)の元軍再襲来に際しては、河野通有の軍勢に加わって出陣し、元軍との戦いに従軍してこれを討ち破りました。
平郡浅海家の成立と南北朝の動乱
元軍は瀬戸内海に侵入することはありませんでしたが、浅海氏の一族はそのまま平郡島に定住し、島の発展に深く関わっていくことになりました。
南北朝の動乱期に入ると、浅海政能が暦応年間(1338〜1342)に平郡西浦へ正式に移住し、平見山城を構えて在地の領主として勢力を固めました。
浅海政能が平郡島へ拠点を移した暦応年間(1330年代)は、鎌倉幕府の滅亡から間もない時期であり、建武の新政の崩壊、足利尊氏の離反、そして南北朝の争乱と、政治情勢は激しく揺れ動いていました。
瀬戸内海域でも武家方・宮方、伊予河野氏・細川氏などが対立し、海上勢力が入り乱れて戦火が広がる緊迫した時代でした。
こうした混乱のさなか、四国では新たに「四国管領」として権勢をふるった細川頼之が、伊予国をも武力によって制圧しようと動き始めます。
頼之は、伊予の河野通盛が白峰合戦の際に兵を出さなかったことを理由に、河野氏討伐の大義名分を掲げ、貞治3年(1364)、ついに伊予国へ侵攻を開始しました。
これが、四国全体の覇権を左右する重大な戦い「世田山合戦」です。
世田山合戦と、河野家断絶の危機
標高339mの世田山は古来より要害として知られ、隣接する笠松山(357m)とともに越智平野・今治平野を一望できる戦略的な要所でした。河野氏はここに籠城し、細川軍と対峙しました。
しかし、戦いは過酷を極めました。
当主の河野通盛は病に伏して出陣できず、息子の河野通朝が世田山城を指揮していました。
籠城戦は二か月以上続きましたが、細川軍の圧倒的兵力の前に河野軍は追い詰められ、貞治3年(1364)11月6日、世田山城はついに落城しました。
この戦いで河野通朝は討死し、さらに病床にあった通朝の父・河野通盛も、通朝の死からわずか二十日後に亡くなりました。
しかし、戦況が不利になり決定的な敗北が迫る中で、通朝はただ一つの希望を託しました。
後継者である十五歳の若武者・徳王丸(のちの河野通堯・通直)を、僧侶の助けにより竹林寺へ脱出させ、密かに逃がしたのです。
河野氏再興とともに始まった平郡浅海家
世田山合戦で河野氏が大きな打撃を受けたのち、家運を復興へ導いたのが若き後継者・徳王丸(のちの河野通堯・通直)でした。
落城の混乱の中、僧侶らの助けによって竹林寺へと逃れた徳王丸は、その後、風早郡の恵良城へ移って元服し、河野家再興への道を歩み始めました。
貞治四年・正平二十年(1365年)、通堯は九州へと渡り、細川氏に対抗するために懐良親王に仕えて南朝方へと転じました。
応安元年・正平二十三年(1368年)には伊予へ戻り、細川勢との戦いを重ねながら領地を次第に回復し、ついには伊予を奪還して河野氏の再興を果たしました。
この再興の過程で、河野氏の庶流である浅海氏も重きをなしました。
浅海家系図によれば、浅海政能の子である浅海通政は通堯に従って戦功を挙げ、その功績により、河野宗家の通字である「通」の字を賜ったとされています。
河野氏では、三島明神の霊験によって誕生した通清以来、歴代総領が「通」を名乗る伝統があり、この通字を許されたことは、浅海氏が河野一門の中でも特に重視されていた証といえます。
その後、平郡浅海家の当主たちは通勝、通雄、通家、通忠など、代々「通」の字を受け継ぎ、家系を連綿とつないでいきました。
こうして浅海氏は、伊予浅海村を本拠とする本家筋とは別に、平郡島に根を下ろした一族として明確に位置づけられるようになりました。
浅海政能が平郡西浦へ移住し、平見山城を構えて在地領主として勢力を固めたことを契機に、浅海氏は平郡島の政治、経済、宗教の中心として島の発展に深く関わっていきました。
このようにして、浅海氏は平郡島に独自の歴史を築き上げ、平郡浅海家としての流れを確立していったのです。
波方に建立された浅海氏の祖霊社
しかし、その後の戦国期に至るまでの浅海氏の動向は、史料の上では次第に姿を見せなくなっていきます。
では、そうした状況の中で、なぜ今治市波方の地に浅海氏の祖霊を祀る社「楠木神社」が残されているのでしょうか。
この謎を解く手がかりとなるのが、周辺に点在する複数の祖霊社です。
この地域には、来島村上氏が一族の氏神として深く崇敬していた玉生八幡宮(玉生八幡神社)を中心に、家臣団の祖先を祀る社が多く残されています。
この地域には、来島を本拠とした来島村上氏が氏神として崇敬した玉生八幡宮(玉生八幡神社)を中心に、家臣の祖先を祀る祖霊社がいくつも残されています。
これらは、古くから来島村上氏の家臣がこの地に住んでいたことを示すものです。
そのうちの一つ、瀬野氏の祖霊を祀る「瀬野帯刀神社(せのたてわきじんじゃ)」に残る石碑には、「弘和年間(1381〜1384)、来島城主村上氏の家臣となり、高麗・明国まで倭寇として飛躍す」と刻まれています。
これは、室町初期に来島村上氏の家臣がこの地に居住していたという記録になります。
また、的場神社には「来島村上氏の武士たちが弓矢の訓練を行った場所」という伝承が残されており、周辺一帯に村上氏の武士たちが集住していたことがうかがえます。
さらに、楠木神社の社殿の隣には室町時代の墓が残されており、ここに浅海氏の祖霊社が祀られていることを踏まえると、浅海氏の一部が来島村上氏の家臣としてこの地に居住していたと考えられます。
河野氏の家臣としての共通性
浅海氏が、後の時代に来島村上氏と行動を共にしたと考えられるもう一つの理由が、両氏がともに河野氏に属し、瀬戸内海の防衛と海上活動を担った家柄であったという点にあります。
河野氏は伊予国を支えた名族で、その家臣の中には陸上の武士だけでなく、瀬戸内海で戦う水軍を率いる一族も多くいました。
浅海氏はその中でも早くから海上勢力として名を成し、瀬戸内の航路と海防に深く関わっていました。
同じく来島村上氏も、河野氏に従属する海上武士団であり、海戦の巧者として知られていました。
このように、浅海氏と来島村上氏は、同じ主家に従い、同じ海域を守る立場にあったため、自然と協力関係が築かれていったと考えられます。
この関係を示す史料として、永禄年間に周防平郡島で起こった「嶋中騒劇」があります。
この戦いで浅海四郎左衛門尉は来島村上氏の側に立って奮戦し、その功績を認めた当主・村上通康は、浅海氏に対し「周防国大島郡屋代島の所領を宛て行う」として恩賞を与えています。
また、このとき通康の命を浅海氏に伝えたのは下島次郎左衛門とされ、浅海氏が来島村上氏の家臣団の中に位置づけられていたことが示されています。
村上通康は戦国末期に河野氏の女婿となり、越智姓を名乗ることを許された人物でした。
これは、通康が越智氏の血縁という意味ではなく、それだけ河野一門に近い立場として扱われていたことを意味します。
浅海氏が来島村上氏と行動を共にした背景には、こうした河野氏を中心とした伊予の武士社会の結びつきがあったと考えられるのです。
波方に残された浅海氏の記憶
残念ながら、河野氏と来島村上氏は時代の急流の中で次第に道を別ち、かつて伊予の海と陸を支えた有力武士団として活躍した両氏も、戦国後期には歴史の表舞台から姿を消していくことになりました。
南北朝から戦国期にかけて、瀬戸内海は幾度も情勢が一変し、そのたびに両氏の立場も揺れ動きましたが、最終的には豊臣政権から徳川幕府へと続く中央集権体制の確立によって、地方武士団としての存在意義を失っていきました。
浅海氏もまた、こうした大きな流れの中で運命を共にした一族と考えられます。
平郡島に根を下ろし、河野水軍の一翼として島の守護を担ってきた浅海氏は、来島村上氏とも深い関わりを持ちながら、中世後期の瀬戸内において海上武士としての役割を果たし続けました。
しかし戦国末期、河野氏が衰退し、来島村上氏も小早川・毛利との抗争や豊臣政権下での水軍再編の波に飲まれていくと、浅海氏の名も史料の中から徐々に姿を消すようになります。
江戸幕府の成立は、その変化を決定づける出来事でした。
幕府は「海賊停止令」などを通じて瀬戸内の水軍勢力を統制し、船舶の武装や海上の独自行動を厳しく制限しました。
これにより、かつて合戦で活躍した海賊衆・水軍衆は、軍事的役割を失い、組織そのものが解体されるか、あるいは海運業者・廻船問屋・御用船方として生計を立てる存在へと姿を変えました。
浅海氏も例外ではなかったとみられます。
中世の合戦に名を残した勇壮な一族は、近世に入ると地域に溶け込む在地の家として静かに暮らし、かつての武士団としての姿は歴史の陰へ退いていったのでしょう。
しかし、その痕跡は完全に消えたわけではありません。
今治市波方に残る浅海氏の祖霊社「楠木神社」は、そうした中世以来の浅海氏の歩みと記憶を、静かに今へと伝え続けている存在として、現在も浅海氏の人々に大切に守られています。



