千年の時を越えて守り継がれた泉川町の祇園信仰
愛媛県今治市泉川町に鎮座する「須賀神社・泉川町((すがじんじゃ)」は、古くから地域の氏神として人々に親しまれてきた神社です。
主祭神には日本神話の英雄神である速須佐之男命(はやすさのおのみこと)を祀り、その荒ぶる力と同時に、農耕や開拓を導く神としての恵みをもたらす御神徳によって、地域の生活と信仰を支えてきました。
荒ぶる神にして守護の神・須佐之男命
建速須佐之男命は、日本神話において非常に重要な神「須佐之男命(すさのおのみこと)」の別称であり、その名は時代や文献、さらには書写の伝統によって多様な表記で伝えられてきました。
古代の神名表記には一定の規則があったわけではなく、発音を示すための音写的な表記、神格や性質を強調する意義的な表記、さらには写本ごとの伝承過程で生じた異体字の使用などが混在していました。
そのため、同じ須佐之男命を指しながらも、文献や時代によって次のように異なる名称が用いられてきました。
- 須佐之男命(すさのおのみこと)
- 素戔嗚命(すさのおのみこと)
- 須佐能袁命(すさのおのみこと)
- 須佐能乎命(すさのおのみこと)
- 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
- 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)
これらの名称はすべて同一の神を表しており、表記の違いは須佐之男命が古代から中世、そして近世へと伝わるなかで、多様な信仰形態・地域差・文献の伝承が重なり合って生まれたものです。
日本神話に描かれる須佐之男命
須佐之男命は、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)と並ぶ、日本神話における重要な存在、「三貴神(さんきしん)」の一柱です。
父神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、黄泉の国から戻った際に行った禊祓い(みそぎはらい)の中で、鼻をすすいだ際に生まれたと伝えられています。
天照大神が太陽、月読命が月を司るのに対し、須佐之男命は海原や暴風雨を司るとされ、自然の荒々しい側面を象徴する神格を持っており、多くの文献で勇猛さと荒々しさを併せ持つ神として描かれています。
高天原では、姉である天照大神とたびたび衝突し、乱暴な振る舞いが原因で、最終的に高天原を追放されることとなりました。
地上に降り立った須佐之男命は、出雲の国、斐伊川(ひいかわ)のほとりで、八岐大蛇(やまたのおろち)に苦しめられていた櫛名田比売(くしなだひめ)を救うため、大蛇を退治します。
この戦いの際、大蛇の尾から現れたのが、後に「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と呼ばれる霊剣でした。
この剣は、やがて「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と名を改められ、三種の神器のひとつとして、天皇家に伝えられることになります。
荒神にして守護神、須佐之男命と牛頭天王が示す共通の神格
須佐之男命は単なる荒ぶる存在だけではありません。
地上で国土を開拓し、水流を治め、田畑を整えたことから、英雄神・農業神・開拓神としての一面も持ちます。
このことから、古代から現代に至るまで、暴風雨を鎮め、五穀豊穣をもたらす神、また疫病除け・厄除けの守護神として全国各地で広く信仰されてきました。
こうした須佐之男命の神格は、外来の神である牛頭天王の性格と多くの共通点を備えていました。
祇園精舎の守護神「牛頭天王」
牛頭天王は、もともとインドの「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の守護神とされており、中国を経て日本に伝わる過程で神仏習合が進み、須佐之男命と同一視されるようになりました。
祇園精舎は、釈迦が説法を行った仏教寺院であり、その正式名称は「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」といいます。
祇園精舎は『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という一説がよく知られています。
かつて、祇園精舎には、「無常堂(無常院)」と呼ばれる施設があり、ここは終末期を迎えた僧侶が最後のひとときを過ごす場所だったといわれています。
亡くなると、建物の四隅に配された鐘が鳴らされ、それが一人の命が消えたことを知らせる合図となりました。
この鐘の音は単なる響きではなく、「生あるものは必ず滅する」という仏教の根本的な教えを人々に思い起こさせるものでした。
こうした背景から、祇園精舎の鐘は、人生の儚さや世の無常を象徴するものとなり、日本では『平家物語』の冒頭の一節として広まりました。
この「祇園精舎の鐘の声」は、単に鳴り響く音ではなく、死を知らせ、無常を説く鐘の音だったのです。
祇園精舎の守護神であった牛頭天王(ごずてんのう)は、この無常観とも深く関わっています。
疫病や災厄が猛威を振るう時代に、人々はその脅威を「無常」の一環として受け入れつつも、牛頭天王の加護によって厄災を免れようと祈りました。
須佐之男命と牛頭天王の習合
平安京の祇園社で牛頭天王が疫病平癒の中心神格として祀られるようになると、その性格は日本固有の神である須佐之男命(すさのおのみこと)と重なるようになっていきます。
牛頭天王もまた、疫病や災厄をもたらす反面、それらを鎮める強大な力を持つ神として日本に伝えられ、須佐之男命の「荒ぶる力」と「守護の力」という二面性と自然に重ね合わせて理解されるようになります。
さらに平安時代以降、神仏習合思想が深まり、神々を仏の化身とみなす本地垂迹説が広く受け入れられると、牛頭天王は須佐之男命の「本地」、すなわち仏としての姿であると解釈されるようになりました。
こうして牛頭天王と須佐之男命は同一の神格として祀られるようになり、その習合の形は現在まで受け継がれています。
また、祇園社の祭神である牛頭天王は、その信仰の広がりとともに「祇園天皇」や「祇園天神」とも称されました。
そして、「須佐之男命=牛頭天王」を祭神とする全国各地の須賀神社は、祇園信仰の系譜に属する神社として、地域の人々に深く敬われてきました。
祇園信仰の総本社「京都・八坂神社」の起源
祇園信仰の中心にあるのが、京都・八坂神社(旧称:祇園社)です。
その始まりは斉明天皇二年(656年)にさかのぼります。
この年、高麗からの使節として来日した伊利之(いりし)が、新羅の牛頭山に降臨したと伝えられる素戔嗚尊(須佐之男命)を日本へと持ち帰り、八坂氏の氏神として祀りました。
これが八坂神社の起源であり、のちに全国へ広がる「祇園信仰」の出発点となりました。
乱れる都に即位した若き清和天皇
時代が下り、平安時代の貞観元年(859年)。
都であった平安京は、表向きこそ華やかな貴族文化に彩られていましたが、裏で深い闇を抱えていました。
地方の荘園では豪族が私兵を養い、都の内外では盗賊や乱暴者が夜ごとに現れ、財貨を奪い、人々の命までも容赦なく奪っていったのです。
治安は衰え、都の夜は恐怖に包まれていました。
この混乱の中で即位したのが、わずか9歳(満8歳)の若き帝、清和天皇(せいわてんのう)でした。
幼い帝を頂く朝廷は、国内に渦巻く不安を抑えきれず、国家そのものが揺らぎ始めていました。
人心は乱れ、政も安定を欠き、国中にいら立ちと恐れが積み重なっていきます。
そこへ追い打ちをかけるように、さらなる災厄が襲いかかりました。
未曾有の災禍と祇園祭のはじまり
平安時代の貞観十一年(869年)三陸沖を震源とする巨大地震「貞観地震(じょうがんじしん)」が発生し、東北一帯は津波によって甚大な被害を受けました。
この地震は後世の研究により、2011年の東日本大震災にも匹敵する巨大地震であったと推定されており、まさに未曽有の災禍であったと考えられています。
さらに同じころ、全国では疫病が猛威を振るい、人々はこれらの災厄を牛頭天王(須佐之男命と同一視)の祟りとして深く恐れました。
事態を重く見た朝廷は、清和天皇の勅命のもと、国を挙げて大規模な鎮疫祭を執り行います。
六月七日には、日本六十六カ国になぞらえて六十六本の矛(ほこ)を立て、牛頭天王を祀る御霊会(ごりょうえ)が催されました。
さらに十四日には祇園社の神輿が神泉苑へと送り出され、災厄退散が祈願されました。
この一連の祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)こそが、日本三大祇園祭の一つである京都祇園祭の起源とされています。
泉川町に創建された須賀神社
さらに清和天皇は、祇園天皇(牛頭天王)の御神威を鎮め、国の安泰を祈るため、全国の国司に祇園天皇(牛頭天王)を祀る社を建立するよう勅命を下したと伝えられています。
その数は百二十八社にも及んだとされ、これが祇園信仰が全国へ広がる大きな契機となりました。
伊予国においても、清和天皇の勅命を受けた国司によって、京都・祇園社(八坂神社)から祇園天皇、すなわち牛頭天王(須佐之男命=速須佐之男命)が迎えられました。
須賀神社・泉川町は、その中の一つとして貞観十一年十一月にこの地に創建されたと伝えられています。
以来、千年以上にわたり、須賀神社は地域の信仰と暮らしを静かに支える社として人々から篤く敬われ、時代を超えてその御神威は受け継がれています。



