村を救った義民・八木忠左衛門を偲ぶ静かな祈り
大西町新町の一角に、「火よけのお地蔵さん」「古寺のお地蔵さん」と呼ばれ、昔から人々が手を合わせてきた地蔵尊を祀るお堂があります。
このお堂は「古寺地蔵堂(ふるでらじぞうどう・古寺地蔵尊)」と呼ばれ、数百年にわたり地域の暮らしに寄り添い、この町の静かなよりどころとして大切にされてきました。
この小さなお堂には、今も語り継がれる二つの村の庄屋の足跡が静かに息づいています。
「火よけのお地蔵さん」
このお地蔵さんは、その名のとおり、古くから火難除けのご利益があると語り伝えられてきました。
昔から新町では大きな火事がほとんどなく、万一火が出ても大火には至らなかったといわれています。
地域の人々は「お地蔵さんが守ってくれている」と信じ、日々の暮らしのなかで自然と手を合わせてきました。
こうした長い信仰の積み重ねが、「火よけのお地蔵さん」という呼び名を今に伝えています。
「古寺のお地蔵さん」
「古寺のお地蔵さん」と呼ばれる由来は、かつてこの場所に寺院(真光寺・新町)が建てられていたことにあります。
真光寺・新町は江戸時代初期、新町村の庄屋・井手清右衛門が私財を投じて建立した寺で、山号は「清井山浄雲院 真光寺」といい、当時は地域の信仰と暮らしを支える重要な寺院でした。
その後、真光寺・新町は現在の場所へ移転しましたが、寺の名残からこの周辺一帯は「古寺」と呼ばれるようになりました。
そのため、跡地に建てられた地蔵堂も「古寺のお地蔵さん」と親しまれるようになり、現在は古寺地蔵堂として地域に受け継がれています。
寺跡に設けられた野間郡処刑場
天正13年(1585年)、加藤嘉明が伊予国に6万3000石で入封し、松山藩が成立しました。
現在の今治市大西町周辺(旧・野間郡)は、この時から江戸時代を通して松山藩の領地として統治されるようになりました。
真光寺・新町が移転したのち、跡地となった一帯には、松山藩によって野間郡の処刑場が設けられました。
江戸時代、処刑場は村境や荒地などさまざまな場所に設けられましたが、寺の跡地や寺院の近くが選ばれる例も各地で見られ、この地が処刑場に定められたことも決して珍しいことではありませんでした。
野間郡で罪を犯した者はこの場所へ送られ、長い年月の間に多くの罪人がここで刑を受けたと伝えられています。
また、地元の人の話によれば、かつて地蔵堂周辺の地中から人骨が掘り出されたこともあったといい、ここが処刑場であったという伝承を裏付けるものとして今も語り継がれています。
農民を救うために命を賭した庄屋「八木忠左衛門」
この古寺の処刑場の歴史の中でも、特に地域の人々の心に深く刻まれている人物がいます。
それが、延喜村の庄屋であった八木忠左衛門です。
忠左衛門は、村人の生活を第一に考える、慈悲深い庄屋で、飾り気のない性格と、筋の通った義の精神で、誰からも頼られる存在でした。
しかし、そんな忠左衛門に大きな試練が訪れます。
飢饉と圧政に苦しむ延喜村
貞享三年(1686年)、今治地方一帯は未曾有の飢饉に見舞われました。
害虫の異常発生や気候不順が続き、延喜村でも稲は実らず、田畑は枯れ、人々は飢えにおびえる日々を送っていました。
忠左衛門は私財を投げ打って村人の命をつなごうとしましたが、状況は日に日に悪化し、もはや庄屋一人の努力では救いきれないところまで追い詰められていました。
そこへ重くのしかかったのが、代官所からの容赦ない年貢の取り立てでした。
延喜村は松山藩領の東端にあり、藩政の目が行き届きにくかったことから、代官や手代の横暴がまかり通っていたと伝えられています。
忠左衛門は「年貢の減免」や「扶助米の供給」を繰り返し嘆願しましたが、代官たちはその訴えを一切取り合いませんでした。
限界の中で選んだ最後の手段、命懸けの直訴
こうした惨状を見て、忠左衛門は私財を売り払って村人を救済し、松山藩代官所に年貢の減免や扶助米を繰り返し嘆願しました。
しかし、どれも聞き入れられることはなく、村民の生活は限界を迎えていました。
飢えに苦しむ者、病に倒れる者、ついには死者までもが出始める中、庄屋としての責務と人としての良心との板挟みのなかで、忠左衛門はついにある行動に出ました。
それが直訴(じきそ)です。
忠左衛門は、自らの名を伏せ、松山藩の「目安箱」に匿名で訴状(目安書)を投じました。
そこには村人の窮状、代官たちの横暴、年貢の軽減を求める切実な願いが綴られていました。
江戸時代、目安箱は「民の声を聞く制度」と建前ではされていましたが、実際には、体制を批判するような内容や、代官を飛び越えた訴えは重罪と見なされるのが通例でした。
とくに、名を伏せての直訴は“無礼討ち”や打首刑の対象となる場合がありました。
つまり忠左衛門は、自身が死罪に処されることを覚悟のうえで、延喜村の村人のために動いたのです。
追われる忠左衛門と揺らぐ延喜村
思いがけない直訴に動揺した松山藩は、ただちに調査を開始しました。
訴状に記された鋭い文体と端正な筆跡から「これは八木忠左衛門の筆に違いない」と判断し、藩は延喜村へ捕手(とりて)を差し向けました。
「いま自分が捕らえられれば、村人たちは完全に見捨てられてしまう」
忠左衛門はそう考え、身を隠す決意を固めました。息子の小太郎とともに村を離れ、日頃から篤く信仰していた金毘羅大権現(香川県琴平町)へ向かい、奥の院で村の行く末を案じながら静かに祈りを捧げました。
その頃、延喜村では忠左衛門の行方がつかめないことに捕手たちの苛立ちが募っていました。
残された妻や下男・下女には厳しい拷問が加えられ、居場所を吐かせようと追及が続きました。
やがて、ついには鉄板焼きの拷問道具まで持ち出され、真っ赤に焼けた鉄板の周囲へ村中の農民が集められました。
「忠左衛門の居所を申せば銀百枚を与える。隠し通すなら、この鉄板を村人全員に踏ませる」
灼熱の鉄板を突きつけられた村人たちの間に、不安と動揺が一気に広がりました。
その極限状態のなか、飛脚の八木某という村人がついに忠左衛門の居どころを漏らしてしまいました。
裏切りの捕縛と延喜村へ想い
その後、金毘羅大権現の奥の院で大願成就を祈っていた忠左衛門のもとへ、突然八木某が尋ねてきました。
息を切らしながら駆け寄った八木某は、安堵と興奮が入り混じったような表情で口を開きました。
「訴状はご家老様の目に留まり、延喜の百姓の窮状に深い同情が寄せられました。代官の非道も明らかになり、謹慎となりました。村人たちは皆、忠左衛門様のお帰りを心待ちにしております」
朗報を告げるかのようなその口調に、忠左衛門は胸をなでおろし、小太郎とともに帰国の途につきました。
しかし、桑村郡中村(現・西条市三芳町)に差しかかった頃、状況は一変しました。
そこには、捕手たちがずらりと待ち構えていたのです。
緊迫した空気の中、同行していた八木某は顔色を変え、これまでの話がすべて偽りであったことをついに白状しました。
衝撃と動揺の中で、忠左衛門は小太郎を連れ、必死に山側へ逃れました。
なんとか立花郷(立花地区)まで逃げ延びましたが、その先でも追手が待ち伏せしており、ついに三島神社(三島神社・郷本?)の境内で捕らえられてしまいました。
捕らえられた忠左衛門は、こみ上げる悔しさと無念を胸の奥に押し込みながらも、やがて静かに覚悟を固めました。
逃げ場のない境内で思い浮かんだのは、自らの命ではなく、飢えに苦しみ続ける村人たちの姿でした。
深く息をのみこむと、忠左衛門は震える手を口元へ運び、左手の小指を噛み切って椿の葉に包みました。
それは、延喜の村を思う一心からくる、命をかけた願いでした。
「どうか……延喜の村人たちをお守りください。自分の命はどうなっても構いません。村の願いだけは、どうか叶えてやってください」
声なき祈りを胸の奥で結ぶと、忠左衛門は椿の葉の包みを静かに社殿へと献じました。
忠左衛門が残した最期の言葉
代官所へ連行された忠左衛門は、そこで容赦のない厳しい取り調べを受けました。
しかしどれほど責め立てられても、自分の行いが村人の命を守るための正しいものであったことを一切曲げることはありませんでした。
問いただす役人たちの前で、忠左衛門は落ち着いた口調のまま、延喜村の窮状と、自らが訴状を投じた理由を堂々と語り続けました。
やがて、ついに打首の刑が言い渡され、忠左衛門と小太郎は新町・古寺の処刑場(現・古寺地蔵堂)へと連れていかれました。
最期の刻が迫ったとき、処刑に立ち会う役人が「何か言い残すことはないか」と尋ねました。
忠左衛門は静かに、「ご家老様に、延喜の百姓を頼むと伝えていただきたい」と答えました。
どこまでも農民を思うその姿に、立ち会った者たちは深く胸を打たれたといいます。
しかし、無情にも処刑は執行されました。
貞享三年(1686)六月二十九日、忠左衛門と小太郎は古寺の処刑場(現・古寺地蔵堂)において打首となり、その短い生涯を閉じました。
忠左衛門とその一人息子・小太郎の首は、竹槍に刺され、無残にもさらし首とされました。
民のために命を賭して尽くした忠左衛門。
本来ならば「英雄」と讃えられるべきその人物が、罪人として扱われている姿は、あまりに残酷な現実として村人たちの心に突き刺さりました。
まるで自らの父を、あるいは幼い我が子を奪われたかのように、村人たちは人目もはばからず涙を流し、手を合わせ続けました。
忠左衛門の最期には、数々の逸話が残されています。
処刑前に与えられた夏柑の粒が、小太郎の首の切り口から飛び出したという話もその一つです。
幼い息子の痛ましい姿に、役人ですら目を覆ったと伝えられています。
さらに、真偽は定かではありませんが、忠左衛門の処刑に際し、打首を取りやめよという命令が土壇場で出され、早馬が駆けつけたものの、わずかに間に合わなかったという説も残されています。
救われた村に残った感謝と伝承
しかし、忠左衛門の命がけの訴えは無駄ではありませんでした。
命を賭して直訴した忠左衛門の願いは、確かに聞き届けられ、藩は年貢の減免と救済措置を講じ、村人たちはようやく飢えと苦しみから解き放たれることとなったのです。
忠左衛門は死してなお、民を救ったのです。
一方で、忠左衛門と小太郎の亡骸は、あくまで「罪人」として扱われたため、本来であれば丁重な埋葬は許されませんでした。
それでも、延喜の村人たちは二人を深く敬い、密かに乗禅寺の裏山へと運び、静かに埋葬しました。
その墓は決して立派なものではなく、粗末な石で印を残しただけのものでしたが、そこには村人たちの深い哀悼と、命を救ってくれた義民への感謝の思いがしっかりと込められていました。
さらに、延喜村の人々は、忠左衛門が最期に捕えられ、祈りを捧げた三島神社を特別な場所と受け止めたためか、その御霊を「三島明神(みしまみょうじん)」として、つまり村を守る“神様”として祀りました。
忠左衛門への深い敬意と感謝は、こうして時代を超えて延喜の地で受け継がれていくことになりました。
延喜を見守り続ける守護者
こうした忠左衛門の行いは、決してただの過去の出来事として風化することなく、今もなお延喜の人々の記憶に深く刻まれています。
乗禅寺の裏山にひそかに葬られた忠左衛門父子の墓は、時を経て丁寧に整備され、今も訪れる人が静かに合掌する“祈りの場”として大切に守り継がれています。
さらに、乗禅寺の山門の隣には「八木忠左衛門碑」が建立され、忠左衛門の志とその功績を後世に伝える象徴として立ち続けています。
また、忠左衛門の御霊を祀った三島神社は、後に延喜天満宮の飛地境内社となり、現在は延喜天満宮の境内へと遷座され、今も静かに延喜の地を見守り続けています。
延喜天満宮には、忠左衛門の徳を顕彰する伝統行事「延喜の子供相撲」が今も受け継がれています。
毎年奉納されるこの神事相撲では、小さな力士たちが精一杯土俵に立ち、真剣にぶつかり合います。
その姿には、かつて村の未来を案じて命を投げ出した忠左衛門の勇気と、民を思う優しい心が重ねられているようです。
延喜の人々にとって、忠左衛門は遠い歴史の中の人物ではなく、今もなお心の支えであり、静かに寄り添う“守り神”のような存在であり続けています。
地蔵尊から古寺地蔵堂へ。延喜の義民を祀った村人
さらに、延喜村をはじめとする野間郡一帯の農民たちは、忠左衛門を義民として敬い、処刑場にひそかに地蔵尊を建立し、その菩提を弔いました。
祈りはしだいに火難除けだけでなく、悪病退散や厄除けにも広がり、地蔵尊は多くの願いを託される存在となっていきました。
こうして古寺の地蔵尊は、地域に寄り添う“よりどころ”として、長く大切にされ続けてきました。
大正十三年(1924年)五月十八日には、下町を中心とする有志の人々が立ち上がりました。
近郷近在を巡って御詠歌を唱えながら浄財を集め、そこに部落の人々からの寄付も加わりました。
こうして得られた資金で、地蔵堂に隣接する土地を購入し、境内を広げることができました。
同じ年には新たにお堂も建てられ、古寺の地蔵尊を丁重にお祀りする場が整えられました。
地域の祈りを守り、次の世代へつないでいこうとする住民たちの思いが、確かな形となった出来事でした。
地域の信仰と祭りの記憶
こうして整えられた古寺の地蔵堂は、その後も地域の人々の手で大切に守り伝えられてきました。
古くから新町地区では、地蔵堂の維持やお祭りの運営を下町地区に託しており、毎月二十三日の御命日にはお膳を供えて供養が行われていました。
特に、新暦八月二十三日の縁日には、下町の人々が総出で藁やシュロで作られたダシ(人形飾り)を作り、表通りに飾って賑やかに祀ってきました。
縁日には多くの参拝客が訪れ、「大井古寺火難悪病厄除お守」を受け、境内では盆踊りが行われ、夜店も立ち並びました。
とくに戦前までは、新町の「旧大庄屋井手家の屋敷跡」の周辺から下新町にかけて、ほぼすべての家が飾り物や提灯を出して祭りを盛り上げ、子どもから大人まで多くの人で賑わったといいます。
近年でも子どもたちが参加する盆踊りが続けられていますが、かつては店も多く出て、今では考えられないほど大規模で活気に満ちた祭りだったといいます。
その後、約六十年の歳月を経てお堂が老朽化したため、地域内外から寄付を募り、昭和六十年(三月十七日)に古寺地蔵堂は新たに建て替えられました。
こうして再建されたお堂が、現在の「古寺地蔵堂」です。
子どもの成長を見守る地蔵さまへ
古寺地蔵堂は、火難除けや悪病退散、厄除けの祈願が寄せられるだけでなく、特に子どもに関する願いごとにご利益があるお地蔵さまとして、長く篤い信仰を集めてきました。
病気の快復や健やかな成長を願う家族は、お地蔵さまの前で静かに手を合わせ、その思いを託してきました。
願いが叶ったときには、白いよだれかけに干支と年齢を書き添え、お礼として奉納する習わしがあります。
お堂の入り口に並ぶよだれかけの一枚一枚には、それぞれの家庭の祈りと感謝が息づいており、訪れる人の心にも静かに語りかけてきます。
こうした信仰とまなざしに守られながら、古寺地蔵堂は今も変わらず地域の暮らしに寄り添っています。
日々の祈りを受けとめ、時には希望の光をともす存在として、過去から現在、そして未来へと大切に受け継がれていく。
古寺地蔵堂は、まさにこの地の人々の願いと支え合う心を象徴する祈りの場であり続けています。



